# 第六話 見極めの瞳
# 第六話 見極めの瞳
婚約披露の宴から数日後の午後、ローゼンクロイツ侯爵邸の温室は、薔薇の蕾の香りで満たされていた。
南向きに張り出した硝子の温室は、母が嫁いできたときに建てさせた、屋敷の中で最も静かな場所だった。両側の硝子越しに春の柔らかな光が射し込み、土の匂いと若葉の匂いと、咲きかけの薔薇の香りが、鉢から鉢へと連なっていた。
その奥、白い鋳鉄の小さな丸卓と二脚の椅子。
今日はそこを、私とノクトさまのお茶会の席として、ティルダに整えてもらっていた。
ティルダが銀の盆に二つの杯を載せて入ってきた。
香り立つのは、薔薇の花弁を一枚浮かべた淡い蜂蜜茶。あの夜の薄紅色の杯とは、まったく違う色合いの、どこまでも透明な琥珀の茶。
私はそれを、自分の前にひとつ、ノクトさまの前にひとつ、自分の手で並べた。
「お嬢さま、私は奥の鉢の影に控えております」
「ええ、ありがとう」
ティルダは深々と一礼し、温室の奥へと姿を消した。
ノクトさまは、椅子に背を預け、軽く微笑むかわりに、ほんの一拍だけ目を細めた。
黒の正装ではない、貴公子としての普段着。襟元のリボンも、靴の硬さも、今日は一段ほどけている。
「アデリーヌ嬢」
「ノクトさま」
「先日の宴の夜、よく耐えた」
彼の声は、相変わらず低かった。けれど、温室の硝子の中に閉じ込められると、そこに僅かな温度の偏りが見える気がした。
「あの場で、義妹君に耳元で囁かれたことを、貴族夫人たちにすぐ気取られなかった。あれは難しい」
「枢機卿も、見ていらしたのですか」
「あの瞬間は、見ていなかった。柱の影を一度離れて、王太子殿下の周りに戻っておられた。だから囁きの中身までは伝わっていない」
私は、安堵の息をひとつ零した。
ノクトさまは、それを見て、もう一度ほんの僅か目を細めた。
「アデリーヌ嬢。今日は、あなたの血のことを、聞きたい」
血のこと。
古代魔術師クロイツ家の最後の血脈。
母から受け継いだ、まだ眠ったままの素養。
私は、両手で杯の縁を包み、温度を確かめてから、口を開いた。
*
「私の母は、クロイツ家の出でございました」
声を、自分の中の最も静かな場所に置いて、私は語り始めた。
「クロイツ家は、大陸の古い時代から、魂と縁を扱う古代魔術を受け継いだ家系。母の代でほぼ絶え、母自身もその血だけを受け継いだまま、ほとんど魔術を使わずに生涯を終えました」
「魂と縁、というのは」
「人の魂を、外側から視ることのできる眼差しだそうでございます。母は、それを《見極めの瞳》と呼んでおりました。私には、まだ覚醒の徴候は出ておりません。ただ、母は、私の十六の春に、その血が強く出るかもしれないと、生前に申しておりました」
ノクトさまが、軽く息を吸った。
血赤の瞳が、私の顔の上で僅かに動いた。
「アデリーヌ嬢」
「は、はい」
「あなたの瞳の奥に、たった今、銀色の輪が走った」
私は、瞬きをした。
胸の奥で、何かが、ことりと音を立てた。
控室で、毒の杯を呑んだ瞬間に、視界が二重に揺れた感覚に、ほんの少しだけ似ていた。けれどそれよりもずっと、軽くて、温かい。
立ち上がって、温室の中央の薔薇の鉢の前に屈み込んだ。
まだ蕾の固い、年若い薔薇。
私は、その根元に、両手をそっと当てた。
土の冷たさが、指先から伝わった。
しばらく、何も起きなかった。
息を整えて、私はもう一度、両手の中の薔薇に意識を集めた。
そのとき、世界のどこかで、薄い銀の幕が、すうと一枚、私の視界の上に落ちてきた。
「……ノクトさま」
「ああ」
彼が、椅子からゆっくりと立ち上がる気配があった。
私は、まだ薔薇の根元に手を当てたまま、目を見開いた。
見える。
薔薇の根元の、土の中の細い細い水の道。その奥に、寝起きの仔猫のような、控えめで温かな魂の輪郭。
花の魂、と呼ぶには小さすぎるけれど、確かにそこには、ひとつの命が、控えめに息をしていた。
善意も悪意もなく、ただ春の陽を待っている、純粋な静けさ。
次に、視界が、温室の硝子越しに、表の小道の方角を向いた。
薔薇の手入れに来ていた老庭師の、緑の前掛けの上に、銀の輪がふっと重なった。
彼の魂の輪郭が、見えた。
善良な男だった。古い悲しみと、長年植物に注いできた静かな愛情で、ほとんど整えられていた。屋敷の使用人の中に、こんな人がいてくれて良かったと、心から思えるほどに穏やかな魂。
次に、視界は屋敷の中の応接の間のほうへ、流れた。
硝子越しに見えるはずもないのに、銀の輪が、家の中の方角を指して滑った。
そこには、後妻イザベラ夫人がいた。
応接の間の長椅子の上、誰かと書状を交わしながら、お茶を口に運んでいる、夫人。
私は、その魂の輪郭を、見た。
歪んでいた。
歪んで、欠けて、中にいくつもの嘘の層が幾重にも貼り重ねられていた。
古い欲、新しい焦り、誰かに認められたい願望、そしてそのすべてを誰かに利用されているという焦燥。
それらが、薄い嘘の膜で何度も何度も塗り潰されていて、もはや魂本来の輪郭がどこにあるのかも定かでない。
喉の奥が締まって、私は両手を薔薇から離した。
銀の幕が、すうと視界の上で薄れた。
温室の硝子の向こうの春の光が、ようやく元の濃度に戻った。
私は、薔薇の鉢の前で、両膝をついたまま、暫く動けなかった。
「アデリーヌ嬢」
「……はい」
「《見極めの瞳》、と呼ばれるのだな」
「ええ、これがそう、なのでしょう」
声が、少し震えていた。
今、見たもののすべてを、自分の中で整理しきれずにいた。
善良な庭師の魂と、後妻夫人の歪み。
その両方を、私は同じ温室の中で、同じ目で覗いてしまった。
誰の魂も覗けてしまう。その重さに、指先が微かに冷えた。
覗いた分だけ、その人を知ってしまう。それだけで、もう十分だった。
ノクトさまは、私の前に屈み込んだ。
黒の上着の袖が、薔薇の鉢の縁をひとつ撫でた。
彼の血赤の瞳が、私の瞳の中を、真っ直ぐに覗いた。
「俺の魂を、見てくれ」
短い言葉だった。
飾りのない、剣のような願い。
けれどその声には、初めて、僅かな揺らぎが混じっていた。
怖いのだ、と気づいた。
氷の戦神と呼ばれる男が、私に魂を覗かれることを、怖がっている。
怖がりながら、それでも、自分から差し出している。
私は、両手を、彼の差し出された左手の上に、そっと重ねた。
手套は、もう外されていた。剣を握り続けてきた指の関節と、節の浮いた筋。冷たくはなかった。むしろ、思いがけず温かかった。
息を整え、私は、もう一度、銀の幕を視界の上に降ろした。
そこに見えたものに、私は、しばらく、声を失った。
雪が、降っていた。
白い、果てのない雪原。膝までの深さで、踏みしめるたびに足元から雪が舞い上がる。
その雪原の上に、一筋、赤い帯が落ちている。血の色だった。
古い血ではない。何度も何度も、夢の中で繰り返し見せられて、決して凍りつかない血。
そして、その雪原の真ん中に、黒衣の男がひとり、跪いていた。
彼の肩は、深い悔恨で震えていた。
雪と、血と、それらすべてを引き受けて、なお背骨を折らずに立ち続けている、罪悪感の魂。
その魂の輪は、千度、いや、それ以上、同じ場所で旋回した跡がついていた。
「あなたは……」
私の声が、温室の中で、微かに震えた。
「あなたは、間に合わなかった日を、千回見ています」
ノクトさまの肩が、ほんの僅か揺れた。
血赤の瞳の中に、ゆっくりと水の膜が張った。
それは、初めて見るものだった。
氷の戦神の、初めての涙。
彼は、それを拭わず、ただ私の手を、もう少しだけ強く握り返した。
「千回ぶんの後悔が」
彼は、そう告げた。
「今日、初めて、報われた」
手の温度が、ゆっくりと、私の手の中で重さを変えた。
温室の中の、薔薇の蕾の香りが、急に濃く立ち上った気がした。
私は、何も言わなかった。
彼も、何も言わなかった。
ただ、両手を、互いの手に重ねたまま、私たちは、長いこと、その姿勢のまま動かなかった。
硝子越しに、春の光が、私たちの頭の上を撫でて通り過ぎた。
*
お茶が、半分ほど冷めた頃、私はようやく口を開いた。
「ノクトさま」
「ああ」
「ひとつだけ、お伝えしたいことがございます」
「うむ」
言うべきかどうか、何度か迷った話だった。
けれど、今この温室で、私が見たものを、彼の手の中の温度を、すべて受け止めた上でなら、伝えてもいいと、心が決めていた。
「一周目の世界で、ノクトさまは、私の死の二年後の、北の戦線で、戦死なさったと伺いました」
「うむ」
「私が、王宮派の中で、それをまったく聞かされなかったのは、おそらく彼らが、シュヴァルツヴァルト大公国の戦況を、私の耳に届けたくなかったからでございます。けれど、それは私が、二度目の人生で確かめなければならない事実のひとつ」
ノクトさまは、私の手の上に、自分のもう片方の手を重ねた。
血赤の瞳の中に、もう涙の膜はなかった。
代わりに、深く、静かな、了承の色があった。
「俺は、それも、知っている」
彼の声は、低かった。
「夢としてではなく、感触として、知っている。あの二年、北の野営地で、俺はずっと、自分が負ける気がしていた」
「負ける、気が」
「自分が今、本来あるべきではない場所に立っているという感触だ。俺は、本当はあなたの祭壇の前に駆けつける者だった。それを、俺の夢の断片はしつこく告げ続けていた。だから北の判断のひとつひとつが、どこか上滑りした。最後の戦いで、俺は剣の握りひとつを誤った」
私は、両手の中に、彼の手の温度を、もう一度、深く確かめた。
千度の旋回の跡。雪と血の魂。
それを、私はもう、覗いた。
「ノクトさま」
「うむ」
「今度は、ノクトさまも、戦死なさいませんわ」
私は、出来る限り穏やかな声で、そう告げた。
保証ではなかった。誓いに近かった。
「私が、《見極めの瞳》で見ます。あなたの魂が、二度と上滑りしないように。北の戦場でも、王宮の広間でも、私は隣で、視ます」
ノクトさまの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
今度は、確かに、笑いの形だった。
氷の戦神が、温室の薔薇の鉢の前で、初めて見せた、ささやかな笑い方。
「アデリーヌ嬢」
「は、はい」
「俺は、保留指名を、正式な婚約に進めるための準備を始めたい」
「……早すぎませぬか」
「事を急ぐ気はない。準備だけだ。あなたの父君に、文を立て、シュヴァルツヴァルトの大公領に、あなたの教育の名目で、出入りの体裁を整える。あなたが王宮派の絵図から完全に切り離されるための、表向きの口実を作っておく」
胸の奥が、熱くなった。
絵図、という言葉を、彼が使ったことに、私は安堵していた。
彼は、もう、私が独りで戦う絵図ではなく、二人で書き換える絵図、として、すべてを見ている。
「お任せいたします、ノクトさま」
「ひとつだけ、確認したい」
「何でしょう」
「今日のあなたの瞳の奥に、銀の輪が走った瞬間、俺の指の温度を、あなたは怖がらなかった」
「……はい」
「それは、俺を、信じてくれているということでよいか」
私は、両手で、彼の手を、もう一度、しっかりと包んだ。
控室の絨毯の上で、最後に握っていたのは、誰の手でもなかった。
ただ、薄紅色の液体に染まる花嫁衣装の裾と、自分の銀の髪だけだった。
今、私の手の中に、温かい指の温度がある。
これは、もう、絨毯の上の女のものではない。
「ええ、ノクトさま」
「うむ」
「私は、もう怖くないのです」
言葉が、自分の中から、思いがけず軽やかに出てきた。
「私は、見える。私は、知っている。私は、もう、二度と、絨毯の上には倒れません」
ノクトさまは、私の手を持ち上げ、その指先に、ほんの一瞬、唇を寄せた。
手套も外した、剣を握り続けてきた男の唇は、思いがけず、優しかった。
息の温度が、私の指の腹に、僅かに残った。
それだけだった。
それで十分だった。
温室の硝子越しに、春の陽は、ゆっくりと色を変え始めていた。
奥の鉢の影で控えていたティルダが、控えめに身じろぎするのが、衣擦れの音で伝わってきた。
私は、両手を膝の上に戻した。
頬の温度を、自分でも知らない間に、薔薇の蕾の色に染めながら。
二人の最初の温度が、こうして、絨毯ではない場所で、確かに交わった。
その上に、これからの絵図を、ひとつずつ、二人で書き直していく。
控室の絨毯の冷たさは、もう、私の中には、ほとんど残っていなかった。
(第六話 了 / 約4,950字)




