第五話 婚約披露の宴
# 第五話 婚約披露の宴
建国祭から一月後の夜、王宮の大広間は、再び花と人で埋め尽くされていた。
今度の主役は、王太子と私ではない。
第一王太子ヴィクトール・ローゼリア殿下と、ローゼンクロイツ侯爵令嬢リリス。
二人の婚約披露の宴。
王宮の楽士は今夜、建国祭よりも華やかな曲を選んでいた。回廊の柱に巻かれた花綱は、白百合と紅薔薇の他に、まだ蕾の薄桃の薔薇が混じり、それが新しい妃候補のために整えられた装飾だと一目でわかった。
私は、招待客として、奥の壁際に控えていた。
ドレスは、また銀。建国祭の朝に身につけたものよりも、もう一段、装飾を抑えたもの。
胸元には、母の遺した小粒の真珠ひとつ。耳朶にも同じ真珠が一粒。
ティルダが「もう少し華やぎを」と眉を寄せたが、私は微笑んで首を振った。「妃候補を引き立てる夜は、控えめなほうが似合いますもの」。
控えめな銀。妹の隣に、決して並ばない色。
あの控室の絨毯の上で、十九歳の私に纏わりついた銀の冠とは、まったく違う種類の銀。
壇上の中央には、ヴィクトール殿下とリリスが並んで立っていた。
白の儀礼服と、淡い金の刺繍を散らした白絹のドレス。
桃色の髪は、今夜は結い上げられて、王家の銀の髪飾りに飾られていた。一周目で、私が結婚式当日に着けるはずだった、あの銀の髪飾りに、似た輝きの一枚。
ヴィクトール殿下は、リリスの腰にそっと手を添えていた。
無垢で愛らしい妃候補に対する、未来の伴侶の柔らかな保護の仕草。
会場の夫人たちが、扇の影でため息混じりに囁いた。「なんとお似合いの」。
ええ、お似合いでございますわ。
私はワイングラスを口元に運びながら、心の中で、それに穏やかに頷いた。
*
披露の儀が一通り進み、楽士の音色が舞踏曲に切り替わった。
貴族の男女が広間の中央に流れ出し、優雅にステップを踏み始める。私は壁際で、紅のワインのグラスを薄く口に含み、視線だけを動かしていた。
観察する場所は、リリスの手元、足元、唇の端。
桃色の髪の妹が、王太子と並んで微笑むたび、その指の動きが何の所作に倣ったものか、私は鏡台で何度も自分を映してきた身として、よく分かっていた。
扇を半分開く角度。膝を折る深さ。男性に手を取られる前の、ほんの一拍の間の置き方。
あれは、私の所作だった。
十六歳までの私が、ティルダから教わり、社交界の年長の婦人の動きを真似て、自分の体に染み込ませてきた所作だった。
義妹は、それを十一年かけて、寸分違わずに自分のものにしていた。
そして、ひとつだけ、私が知らないものがあった。
あの夜の、控室の絨毯の上で見た笑い方。
甘い少女の表情ではない、冷えた女の口角の角度。
私の杯が手から滑り落ちた瞬間に、リリスの唇に浮かんだ、訓練された静かな笑み。
今、壇上のリリスが、王太子の冗談に微笑んだ。
その瞬間、私の指先が、ワイングラスの脚をきつく握った。
あの夜と同じ笑い方だ。
控室で「お別れですわ、お姉さま」と告げた、あのときと、今、王太子に微笑むときの口角の角度が、まったく同じ。
「無垢な妹」が「愛らしい妃候補」を演じている表情の下で、十一年仕込んだ女の素顔が、ほんの一瞬、ふっと浮かび上がる。
訓練された人間でなければ気づかないほど、僅かな浮き上がり方。けれど、私の目には、それが今夜、はっきりと見えた。
私はワインをひと口、口に含んだ。
心臓は、奇妙なほど落ち着いていた。
ええ、リリス。あなたは、王太子妃に向いてらっしゃる。私の知らない王太子の何気ない仕草に、的確に微笑み返せる程度には、よく訓練が行き届いていらっしゃる。
その腕前を、せいぜい王宮の中でだけ、お使いになって。
*
壇上のヴィクトール殿下の視線が、私のほうに向いた。
リリスを腰元に抱いたままの、ほんの一瞬の流し目。
金髪に碧眼、王者の余裕。けれど、その瞳の奥には、まだ片付かない何かが揺らいでいた。
奪われた令嬢への未練か。
あるいは、自分の絵図を一筆で塗り替えた大公への屈辱か。
その両方が混じった、薄濁りの目だった。
私は、視線を僅かに伏せ、すぐに人混みの隅へと顔を向けた。
あの目を、私のほうへ二度と留めてはいけない。
リリスは、王太子のその目の方角に、まだ気づいていないだろう。それで構わない。
二人の間に薄い綻びがあれば、いずれそれは、自分たちで広げていく。
ワイングラスを口元に戻したとき、人混みが少し割れた。
黒い軍服姿の長身が、ゆっくりと近づいてきた。
「ローゼンクロイツ侯爵令嬢」
低い、よく通る声。
血赤の瞳が、燭台の光をひとすじ受けて、深く澄んでいた。
ノクト・フォン・シュヴァルツヴァルト大公。
建国祭の朝以来、二度の私邸訪問を経て、今夜はじめて、公の場で並んで言葉を交わす相手。
「ノクト閣下。本日はおいでくださいまして」
壁際で軽く膝を折り、私は微笑んだ。
二人の周りに、貴族たちの視線が一斉に集まったのが、肌で分かった。
保留指名を受けた令嬢と、その大公。建国祭以来、噂の絶えない二人。
「一曲、お相手願えるか」
ノクト大公が、左手を僅かに差し出した。
黒い手套に包まれた、節の浮いた長い指の輪郭。
戦場で剣を握り続けた指だった。
私は、自分の右手をそこに乗せた。指先が触れ合った瞬間、彼の指が一瞬だけ私の手をしっかりと支え、それから貴公子の作法のままに、緩く包んだ。
*
二人で広間の中央へと進み出た。
夫人たちの扇が、また少し動いた。
ノクト大公は、私の腰に右手を添え、左手で私の手を取り、楽士の音色に合わせて、ゆっくりと第一歩を踏み出した。
彼の踊りは、思いがけず、しなやかだった。
戦場の男の踊りではなかった。長い時間をかけて、誰かに教わったことのある人間の、丁寧な踊りだった。
私の踏み込みに、半拍だけ余裕を残して合わせてくる。
そのおかげで、私は息を整えながら踊ることができた。
「あなたは、見られている」
彼の囁きは、楽士の音色に紛れる程度の、低い声だった。
「後ろの柱の影。教会のレーヴェン枢機卿だ」
私は、表情を一切動かさずに、回転のステップを踏んだ。
彼に手を添えられたまま、視線は彼の襟元の銀の紋章のあたりに置く。
頭の中だけで、回転の終わりに見える広間の景色を組み立てた。
次の回転を終えた瞬間、私は、白い柱の陰、燭台の光が斜めに落ちる場所に、紫紺の僧衣の影を捉えた。
白い顎髭、深く落ちた頭巾の影。レーヴェン枢機卿。
教会の重鎮。
私の知る限り、王太子の儀式や王家の慶事には顔を出すが、貴族の婚約披露の宴の柱の陰に、わざわざ紛れ込んで立つような人物ではない。
胸の奥が、すうと冷えた。
教会まで、この絵図に関わっているのか。
一周目の私は、知らなかった。けれど、二周目の今、ノクト大公の囁きが、その存在を私の視界に押し込んできた。
「……枢機卿が、なぜここに?」
「分からぬ。だが、彼の視線はここしばらく、新しい妃候補の動きを追っていた。今、あなたを見ている目つきが、それと似ている」
ノクト大公の声は、変わらず低かった。
彼の左手が、私の手を、もう少しだけ確かに包み直した。
踊りの間、いつもより半歩、私のほうへ寄ってくれている。
壁を作る、というほどではない。けれど、枢機卿の視線から、わずかに私を覆おうとしてくれているのが、肌の温度で分かった。
舞踏曲が、終わりに近づいた。
ノクト大公は、最後の一礼の前に、もう一度低く囁いた。
「枢機卿は、リリス嬢に『聖女覚醒』のお墨付きを与える側だ。覚えておけ」
「……承知いたしました」
「次のお茶会は、温室で。あなたの古代魔術の血のことを、話したい」
最後の一礼。
彼の血赤の瞳が、ほんの一瞬だけ私の瞳の中を覗き込み、それから貴公子の表情に戻った。
拍手の音と共に、私たちは中央から退いた。
*
ワインのグラスを取り直し、私は壁際の影に戻った。
心臓は普段の倍の速さで打っていたが、表情は崩れていなかった。
遠目に、リリスがこちらを見ているのが分かった。
彼女の桃色の髪が、燭台の光の中で、わずかに揺れていた。
しばらくして、義妹は群れから離れ、私の所まで近づいてきた。
他の貴族夫人が「失礼を」と道を譲り、リリスは私のすぐ目の前で立ち止まった。
完璧な微笑みを湛えたまま、両手を胸の前で組んで、上目遣いで私を見上げた。
「お姉さま」
「あら、リリス。今宵のあなたはまた、格別に愛らしくていらっしゃるわ」
私の声は、十六歳の姉の声に、自然と寄せられていた。
甘やかすような、姉らしい、頬の温度を残した声。
義妹の笑みが、ほんの僅か、頬の高さを上げた。
「お姉さま。私、お姉さまにお願いがあるのです」
「何? 私にできることでしたら」
リリスは、近づいて、私の耳元に唇を寄せた。
桃色の髪が、私の頬に触れた。
彼女の息が、耳殻の縁に届いた距離。
その距離で、彼女は、声を、急に低めた。
「お姉さま」
甘やかな少女の声ではなかった。
控室の絨毯の上で「お別れですわ、お姉さま」と告げた、あの低い声だった。
訓練された声。
今宵、王太子に微笑む口角と同じ角度の、女の声。
「もう、あの方の夢を見ないで」
胸の奥で、何かが震えた。
恐怖ではなかった。
懐かしさに似た、けれど決定的に冷たい、確認の感触だった。
ああ、と私は思った。
あなたは、覚えていないと言われていた。
一周目の記憶は、義妹にはないはずだ、と仕様の上では決まっている。
けれど、今、この耳元の声は、まったく別の話をしている。
あなたは、あの夜、私を毒殺した自分を、知っているわけではないかもしれない。
ただ、王太子の隣にいる女としての本能で、王太子のもう片方の視線の行き先に、邪魔なものを感じている。
あなたは、王太子があの宴の最中に、私を一度見た目つきを、見逃さなかった。
そして、それを牽制せずにはいられなかった。
私は、ゆっくり首を傾げて微笑んだ。
義妹の頬の真ん前で。
控室で、十一年「お姉さま」と呼ばれてきた、姉の顔のまま。
「あら、リリス。お姉さまが見ている夢は、もう、王太子殿下のものではないのよ」
義妹の睫毛が、ほんの僅か、震えた。
私は、声を、もう半段だけ落とした。
「お姉さまが見るのは、シュヴァルツヴァルト大公閣下の夢ですもの。心配しないで。あなたとあの方は、お似合いの二人なのですから」
リリスは、しばらく動かなかった。
桃色の髪の下で、頬の上に張りついた白粉が、僅かに歪んだ気がした。
けれど、すぐに彼女は、無垢な少女の表情に戻った。
「……お姉さま、いつもの通り、お優しいのね」
彼女は深々と一礼し、踵を返した。
桃色の髪が広間の中央に戻っていく。王太子のもとへ。彼の手を、もう一度自分の腰に添えさせるために。
彼女のその後ろ姿に、私は視線を伏せた。
ワインのグラスを、もう一度口元に運ぶ。
舌の上に、ほんの僅かな苦みが滲んだ。
あれが、二度目の人生で初めて味わう、本物の毒の後味だった。
杯の中ではなく、義妹の耳元の囁きの中に仕込まれた、薄い針のような毒。
今度は、私はそれを呑まなかった。
受け止めて、笑顔のまま、跳ね返した。
壁際の柱の陰、紫紺の僧衣の影は、いつの間にか姿を消していた。
代わりに、広間の遠くの片隅で、黒い軍服の長身が、私のほうを一度だけ見て、ほんの僅か、頭を下げた。
ノクト大公だった。
血赤の瞳の奥に、確かな静けさがあった。
私は、心の中で深く息を吐き、ワインのグラスを軽く掲げて、彼の挨拶に応えた。
ええ、ノクトさま。
お二人は、ますますお似合いでいらっしゃるわ。
あとは、お船が舳先からゆっくりと、岩礁に差しかかるのを、温室のお茶のご用意でもしながら待ちましょう。
(第五話 了 / 約4,950字)




