第四話 氷の戦神、訪う
# 第四話 氷の戦神、訪う
建国祭から三日後の午後、ローゼンクロイツ侯爵邸の正門前に、見慣れぬ漆黒の馬車が止まった。
車体に金の装飾はなく、ただ漆黒の塗りの上に、銀の縫い取りで控えめに描かれた紋章ひとつ。
双頭の鴉が、翼を広げている。
シュヴァルツヴァルト大公家の紋章だった。
厩番の少年が、慌てて屋敷に駆け込み、執事に告げた。執事は青い顔で居間に飛び込み、父侯爵に告げた。父は手にしていた書状を取り落とし、ライナス兄さまに目で合図を送り、それから私のほうを振り向いた。
「アデリーヌ」
「はい、お父さま」
「シュヴァルツヴァルト大公閣下が、御自ら、御出でくださった」
私は、自分の頬の温度がすっと下がるのを感じた。
保留指名の翌日に書状ではなく、二日後に儀礼の使者でもなく、三日目に当主が直接――それは、貴族社会の常識では、性急に過ぎる訪問だった。
「お父さま、お通しください。私は、応接の間で、お母さまと共にお迎えいたします」
「いや、お前は奥で待て。父と兄だけで、まずは閣下のご意向を伺う」
私はそれに、素直には頷かなかった。
代わりに、静かに頭を下げた。
「お父さま。閣下が私をお選びくださいましたお話でございます。私も、まずは御挨拶を申し上げたく存じます」
父は迷ったが、結局頷いた。
ライナス兄さまが、私の目を見て、小さく頷き返した。
*
応接の間に通されたシュヴァルツヴァルト大公ノクトは、正装の黒衣ではなく、地味な黒の旅装に近い装いをしていた。襟元には大公家の銀の紋章のピンひとつ。長身は、応接の間の天井をやや低く感じさせるほどだった。
黒髪の下から覗く血赤の瞳が、扉から入ってきた私を真っ直ぐに見た。
建国祭の朝、広間で出会ったときの、あの眼差しだった。
既視感、と呼ぶしかない、奇妙な熱がもう一度、胸の奥に灯った。
「シュヴァルツヴァルト大公閣下、お運び頂き、誠に恐縮に存じます」
父侯爵が、深々と頭を下げた。
私と兄も、それに続いて頭を下げた。
ノクト大公は、軽く頷くだけだった。それから真っ直ぐに、用件を切り出した。
「先日の保留指名の件、改めて御家にご挨拶申し上げる。本来であれば書状を立てるべきところ、急を要する事情があり、自ら参上した。無礼は承知の上で、ご令嬢ご本人と二人で話したい」
父侯爵の喉が、ひとつ大きく鳴った。
令嬢と二人きりで話したいとは、慣例から大きく外れた申し入れだった。
「お言葉ですが、閣下。アデリーヌはまだ十六で、未婚の身ですから、私か兄が同席を……」
「立会人は、御家の侍女頭で構わぬ。応接の間の扉は閉めぬ。離れた廊下に貴殿が控えておられればよい」
ノクト大公の声には、抑揚らしい抑揚がなかった。
声を上げてもいない、威圧してもいない。けれど断る隙のない言葉の置き方。
父侯爵は、息を吐き、私のほうを見た。
私は、軽く頷いた。
「お父さま、私は構いませぬ。閣下は私の保留指名のお相手であらせられるのですから、御挨拶のお時間を頂戴できますことは、有難いお話でございます」
父と兄が応接の間を出ていき、扉は半分だけ開けたまま残された。少し離れた廊下に、父の足音と、兄の控えた気配が止まる。
ティルダが入れ替わりに入ってきて、私の少し後ろ、暖炉の脇に静かに立った。
応接の間に残ったのは、私と、ノクト大公と、ティルダ。
茶器が並べられた机の向こう側に、彼が腰を下ろした。私はその向かいに、ドレスの裾を整えて座った。
しばらく、沈黙が流れた。
春先の柔らかな陽が、窓のレースのカーテン越しに、机の上の銀の茶器を撫でていた。
ノクト大公は、茶を勧められても手を出さず、ただ私の顔を見ていた。
血赤の瞳。よく研がれた刃に似た静けさ。
私は、自分の指先がほんの少し冷えていくのを、感じていた。
「ローゼンクロイツ侯爵令嬢」
彼が、初めて私の名前を呼んだ。
「は、はい」
「あなたは、夢を見るか」
茶器の中の湯気が、立ち上っては消えていく。
窓の外で、雀の鳴く声がふたつ、みっつ。
私は、答えなかった。
答えられなかった。
ノクト大公は、私が何も言わないのを、責めなかった。
ただ、もう一度、口を開いた。
「俺は、夢を見る」
声は変わらず低く、感情の波がない。けれど、最初の問いとは違う、ある種の重みが籠もっていた。
「控室の絨毯の柄。銀の髪。零れた薄紅色の液体。間に合わなかった日を、幾度も」
息が止まった。
胸が、何かに突き上げられた。
膝の上に置いた手が、自分の意思とは関係なく強く握り込まれた。
茶器が、視界の中で揺れた。
控室の絨毯。
銀の髪。
薄紅色の液体。
それは、私の十九歳の終わりの、最後の景色そのものだった。
私は、口を開いたつもりだった。
けれど声が出なかった。
代わりに、瞳の中にゆっくりと熱が溜まり、頬の上で雫になった。
「閣下……」
声は震えていた。
ティルダの衣擦れが、暖炉のほうで小さく止まる気配がした。
「あなたも……あの日のことを、ご存じなのですか」
ノクト大公の目が、ほんの僅か細くなった。
血赤の奥に、雪と、夜と、いくつもの追憶が混じった暗い色が見えた気がした。
「ご存じ、と呼べるほどのものではない。断片だけだ。夢として」
彼の長い指が、机の縁を一度撫でた。
「俺は、あなたが、俺の知らない場所で死んだことを、知っている」
胸の奥で、何かがほろりと崩れた。
私は両手で口を押さえた。
涙は止まらなかった。
崩れたのは、三日間張り詰めた緊張の糸だったのかもしれない。
あるいは、誰にも理解されないだろうと諦めていた、長い長い予感の幕だったのかもしれない。
声を殺して泣きながら、私は数度、頭を下げた。
言葉になるまでに、長い時間がかかった。
「私は、覚えております。すべて」
ようやく言えた。
ノクト大公の表情は変わらなかった。けれど血赤の瞳が、僅かに揺れた。
「すべて?」
「ええ、すべて、です。控室の絨毯の柄。シャンデリアの揺れ方。私に毒を運んだ義妹の声色が、急に変わった瞬間。婚約者であった王太子殿下が、扉を開けてあの子の肩を抱いた、そのときの足音まで」
私は、自分の声がどこか遠くから聞こえているような気がしていた。
誰かに口にすることができる日が来るとは、思っていなかった話。
それを、初対面に近い大公閣下に、震えながら、淀みなく告げている。
「私は、結婚式の祭壇を前にした控室で、義妹リリスの杯を受け、そのまま絨毯の上で死にました。私は、十九歳でした。けれど、目を覚ましたとき、私は十六歳の朝の自室にいて、母が遺した銀の櫛を、もう一度見ていたのです。建国祭の朝でした」
ティルダが、暖炉の前で、膝を突く気配がした。
彼女は何も言わなかった。
ただ、皺の刻まれた手を、自分の胸の上で固く組んでいるのが、こちらからも見えた。
ノクト大公が、暫く黙していた。
茶器の湯気が、ふたつ、みっつ、宙でほどけていった。
彼の長い指が、自分の左手の親指の付け根を、一度、軽く押さえた。
まるで、痛みを抑えるような仕草だった。
「俺は、北の野営地で、書状を受け取った。建国祭の三年後の春。婚礼の朝に、ローゼンクロイツ侯爵令嬢が祭壇を前に倒れたという報せだった。事故死、と書かれていた。俺はその場で剣を取り落とし――それから、北の戦線でいくつもの判断を、自分でも分からないまま誤った」
彼の声は、静かなままだった。
けれど、私の知らない場所で、彼の中の何かが、少しずつ崩れていった音が、聞こえる気がした。
「俺は、それから二年で、戦死した」
喉の奥が、きゅっと締まった。
ノクト大公が、戦死した?
一周目で?
知らなかった。けれど、それも当然だった、と思う。
一周目の私は、十九歳の婚礼の朝、この方より先に死んでいる。生きているうちの私に、二年後の北の戦線で何が起きたかを知る術はなかった。
二年後、北の戦線で。
三日前、兄の灰青の瞳を見つめながら胸の中で誓ったばかりの言葉と、寸分違わず同じだった。
偶然ではない。兄も、この方も、同じ戦争に、同じ年に、呑まれていたのだ。あの北の地で、いったい何が起きるというのか。
あの死の狭間で見た無数の断片の中に、あるいはこの方の姿もあったのかもしれない。けれど、それはあまりに輪郭が薄く、誰の、何の光景なのか、これまで一度も像を結ばなかった。
今、目の前でご本人の声を通して聞いて、ようやく分かった。あの朧げな断片の一つは、この方だったのだと。
「閣下」
「俺の夢は、ここで止まる。剣を取り落とした瞬間と、それから二年間、北の野営地で誤り続けた感触。あなたの祭壇のことは、いつも控室の絨毯までしか映らない」
彼は、机の上に視線を落とした。
血赤の瞳が、銀の茶器のふちを、長いこと撫でていた。
「だから今度は、絨毯までではなく、祭壇まで、いや、祭壇の前で止めなければと、目覚めたときに思った。建国祭の朝、王宮広間で、王太子があなたの名を呼ぶ寸前に、立ち上がるしかなかった」
私は、両手で口を覆ったまま、頷いた。
涙はまだ止まらなかった。
けれど、頬の上で乾き始めていた。
*
私たちは、そこから先、一周目の日付と人物を、淡々と確認していった。
建国祭の朝の、楽士の弦が止まった瞬間。
その三年後、結婚式の朝に、義妹が運んできた薄紅色のお茶。
ヴィクトール殿下が、私の死に立ち会いに来た足音。
後妻イザベラ夫人が、リリスを連れて侯爵家に入った日。
母の侍女頭ティルダが、控室の前で殺された声。
ノクト大公が知っているのは、ほんの数枚の絵だけだった。けれど、その絵は私の記憶の中の景色と、寸分違わぬ場所に置かれていた。
彼の夢の断片と、私の記憶の連続は、ぴたりと縁が嵌まる二枚の絵のように繋がった。
応接の間の空気が、そのたびに、少しずつ重く、けれどどこか温かいものに変わっていった。
「閣下。なぜ、私を選ばれたのですか」
最後に、私はそれだけ尋ねた。
ノクト大公の血赤の瞳が、私を真っ直ぐに見た。
「夢の中の銀の髪が、あなたのものだと、目覚めたときに分かった」
「……ただ、それだけで?」
「それだけで十分だ。間に合わなかった日を、もう一度、間に合わせるためには」
短い答えだった。
飾りのない、剣のような答え。
胸の奥に、じわりと熱が戻ってきた。
この男だけは、信じられる。
理屈ではなかった。
控室の絨毯の上で、私を見送った誰よりも、この男のほうが、私の最後の景色を、深く知ってくれている。
信じる、と決めるのに、何かを精査する必要はもう、なかった。
「閣下」
「ノクト、で構わぬ」
「では……ノクト、さま」
彼は微かに、目を細めた。
笑いの形ではなかった。けれど、それは血赤の瞳の中で、確かに、何かが緩んだ瞬間だった。
「アデリーヌ嬢。次は間に合う。約束する」
次は、間に合う。
控室の絨毯の上ではなく、もっと手前で、すべてを止める。
二人で。
私は、両手を膝の上で固く組み、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ノクトさま。私からも、お約束いたします。私は、もう二度と、絨毯の上で死んだりはいたしません」
顔を上げると、ノクト大公の頬の輪郭が、僅かに緩んでいた。
氷の戦神、と呼ばれる男。
絶対零度の表情で広間を縦断し、王太子の御前で躊躇なく立ち上がった男。
その男が、目の前で、ほんの少しだけ、肩の力を抜いていた。
脆さ、という言葉が頭を過ぎった。
夢の断片を抱えて、間に合わなかった一夜を千回見続けた男の、その背骨の中に確かにあったはずの脆さ。
ティルダが、静かに茶器を温め直した。
応接の間に、湯気の柔らかな筋が立ち上った。
春先の陽は、まだ机の上に残っていた。
「ノクトさま。これから何をすべきか、お知恵を拝借いたしてもよろしゅうございますか」
「もちろんだ。ただし、今日のところは、互いの記憶の所在の確認まで。次の交流のときに、戦線をひとつずつ並べよう」
「次は、いつ?」
「七日後。シュヴァルツヴァルト大公領との文書のやり取りの体裁で、再びこの邸に上がる。あなたの邸内で、安全な場所と時刻を選んでくれ」
私は頷いた。
外の廊下からは、父と兄の遠い気配が伝わっていた。
二人とも、扉の中の声を、聞き取ろうとはしていない様子だった。
誇り高い人たち。
こちらが守らねばならない人たち。
ノクト大公が、立ち上がった。
長身を、ほんの僅か屈めて、私の前で頭を垂れた。
「では、本日はこれにて」
「お見送りに上がります」
「廊下までで結構だ」
ティルダが扉を開けた。父と兄が静かに姿を現した。
別れの挨拶は、十六歳の貴族令嬢らしい儀礼に戻った。
ノクト大公は、もう私の顔を見なかった。むしろ、それが彼なりの礼儀のように、廊下を歩き、馬車のほうへと姿を消していった。
馬車の音が、敷石の上で遠ざかった。
私は、玄関の段差の上で、銀のドレスの裾を整えた。
ティルダが、後ろから、震える小さな声で囁いた。
「お嬢さま」
「ええ、ティルダ」
「あの方は……お嬢さまの最後を、知っておられたのですね」
「夢として、断片を、ね」
ティルダは、頬を皺くちゃにして、声を出さずに泣いた。
私は、彼女の手を取り、ゆっくり屋敷の中に戻った。
胸の奥に、もう、控室の絨毯の冷たさだけはなかった。
代わりに、初めての温度がひとつ、灯っていた。
(第四話 了 / 約4,900字)




