表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/28

第三話 ローゼンクロイツの朝

# 第三話 ローゼンクロイツの朝



 馬車の窓から見える街路樹は、建国祭のために飾られた金糸の花綱を、まだ枝先にぶら下げていた。



 春の風が、若葉と花綱を一緒に揺らしている。広場の噴水の水音、子どもの歓声、菓子売りの呼び声。何もかも、十六歳の朝に見たままの景色だった。

 車輪の音だけが、私の頭の中で奇妙に大きく響いた。

 王宮広間で起きたばかりの一切が、まだ夢のように現実離れしていて、けれど胸の奥には、はっきりと熱の残り火があった。



「お嬢さま」



 向かいに座ったティルダが、控えめに声を落とした。皺の刻まれた手が、膝の上で銀の祈祷書をきつく握っている。

「お疲れではございませぬか。少しお休みくださいまし」

「いいえ。大丈夫よ、ティルダ」



 私は微笑んで、窓の外に目を戻した。

 王宮を出てからずっと、ティルダの目はこちらに向けられていた。私の動揺を、震えを、あるいは涙を、いつでも受け止められるように。

 私はもう、震えなかった。

 大公の保留指名を受け、義妹を王太子に推し、列に戻って宴の終いまで立ち通した私の体は、思いがけずまっすぐに保たれていた。

 控室の絨毯の上で死んだ十九歳の私が、十六歳の私の背骨に、そっと一本の鉄の芯を入れていったかのようだった。



 馬車がローゼンクロイツ侯爵邸の門をくぐった。

 白い石造りの門柱、薔薇の蔓が絡む鉄の柵、敷石の通路。母が植えさせた紅梅の老木が、屋敷の左手に控えめな花を残していた。

 車寄せに着くなり、玄関扉が勢いよく開いた。

 駆け出してきたのは、ローゼンクロイツ侯爵夫人イザベラだった。



「アデリーヌ! いったいどういうこと?」



 茶色の髪を高く結い、肩を露わにした花柄のドレス。後妻として侯爵家に入って十一年、けれど未だに「侯爵夫人」の貫禄が身についていない女性だった。普段は澄ました顔を作るのが上手い人なのに、今日は化粧の上から赤みがにじんでいる。



「お母さま、ただ今戻りました」



 馬車から降りた私は、丁寧に頭を下げた。

 イザベラ夫人は答礼もせず、私の腕を掴んだ。



「シュヴァルツヴァルト大公の保留指名? あんなお話、聞いておりませんでしたよ。王太子殿下があなたを御指名なさるはずだったのに――それを、それを、よりによってあのリリスが」



 言葉の最後で、彼女は声を呑んだ。

 慌てて口を押さえ、辺りを見回す。けれど屋敷の使用人はもう退散していて、玄関の中で耳を澄ます者はいない。



「お母さま、リリスが王太子殿下の御指名を頂いたのは、ローゼンクロイツの家にとってこの上ない誉れではございませんか」



 私は穏やかに言った。

 イザベラ夫人の眉が震えた。

「……それは、それはそうですよ、もちろん。けれど、あなたがあのお方に……大公閣下に、保留指名されたのはまた別のお話で」

「ええ、保留指名でございますもの。三年か四年か、あちらの大公領との交流を経て、正式な縁談がまとまるかどうか。まだ何も決まったわけではございません」

「そんな悠長な話を……あの方は氷の戦神とまで呼ばれるお方ですよ。何を考えていらっしゃるのか」



 イザベラ夫人の目に、明らかな苛立ちが浮かんでいた。

 彼女が描いていた絵図は、おそらくこうだ。

 建国祭の朝、王太子が私を選び、王宮派の侯爵令嬢として婚約。三年後に祭壇で「事故死」させられ、リリスが代わりに王太子妃となる。

 そうして侯爵家は王宮派の中枢に上り、ローゼンクロイツの魔脈鉱山は王太子のものに、リリスの「無垢な聖女」の評判は教会のものに。

 その絵図の中央に、真っ黒な楔が打ち込まれた朝。

 夫人がここまで露骨に動揺するということは、彼女は単なる馬鹿な後妻ではなく、絵図のかなり深いところまで承知していたということ。

 心のどこかが冷えるのを感じながら、私は微笑みを保った。



「ご心配なさらないでくださいませ、お母さま。大公閣下の御意向は、これから少しずつ伝わってまいりましょう。私も、リリスのことを精一杯陰ながら支えて参りますわ」

「リリスの……?」



 夫人が眉根を寄せたとき、屋敷の奥から軽やかな足音が近づいてきた。



「お姉さま!」



 桃色の髪を背に流したリリスが、両手を広げて駆け寄ってきた。

 私は一瞬、息を止めた。

 ほんの数刻前、王宮広間の人込みの向こうで「ありがとう、お姉さま」と唇だけで告げてきた義妹。

 今は、無垢な少女の顔に戻っている。



「お姉さま、本当にありがとうございました。私のような者を、王太子殿下にお薦めくださるなんて」



 リリスが私の両手を、自分の小さな手で包み込んだ。

 あの控室で、薄紅色のお茶の杯を私に押しつけた、温かい小さな手。

 私はそれを、振りほどかなかった。

 むしろ、優しく握り返した。



「ええ、リリス。あなたの今日のお姿は、それは見事でしたよ。王太子殿下も心を奪われたお顔をしていらっしゃったわ」

「お姉さま……」

「これからは妃候補として、何かと忙しくなるでしょう。立ち振る舞い、教養、王宮の作法。お母さまと共に、しっかりお励みなさい。私もシュヴァルツヴァルト大公家の縁談に向けて、あちらのお国のことを勉強しないといけないわ」



 義妹の長い睫毛が、ほんの一瞬震えた。

 私の言葉に、何か違和感を覚えた目だった。

 もう一周目の私のように、震えながらリリスにすがる姉ではない。

 しかし、すぐに彼女は微笑みを取り戻した。



「お姉さまの分まで、私が幸せになります。お姉さまをこんなに長く見てきたのですもの。お姉さまが愛されるはずだった場所で、私もきっと愛され方を覚えてみせます」



 お姉さまの分まで。

 お姉さまが愛されるはずだった場所で。

 なんと美しい言葉を選ぶこと。

 私はまっすぐに、義妹の緑の瞳を見て微笑んだ。



「ええ、せいぜいお幸せに。あなたなら、きっと立派にお務めできましてよ」



 リリスの瞳の奥が、ほんの一瞬、淀んだ。

 私の声色の中の何かを、彼女は嗅ぎ取ったのかもしれない。けれどそれを表に出すには、十一年の擬態の訓練は完璧すぎた。彼女は天使のように頷き、母のもとへと戻っていった。



 *



 居間の重い樫の扉を、私は押した。

 窓の傍らで本を膝に乗せていた青年が、こちらを振り向いた。

 ローゼンクロイツ侯爵家嫡男、ライナス・フォン・ローゼンクロイツ。私の三つ年上の兄。

 亜麻色の髪に、母譲りの優しい灰青の瞳。剣を取らせれば騎士団の若手を抑え込み、机に向かわせれば古典をすらすら読みこなす、頼もしい兄。

 一周目では、結婚を控えた私の不安を「考えすぎだ」と笑って退けた人。

 そして、あの死の間際に見た欠片の中では、二年後の北方戦線で、還らぬ人になっていた。



「アデリーヌ。儀は……無事に済んだのか」



 兄は本を脇に置いて立ち上がり、私の銀のドレスを見るなり、何かを察したような顔をした。

 扉を後ろ手に閉めながら、私は深く息を吐いた。



「兄さま。少し、お話があります」

「ああ」

「他の誰にも聞かせたくない話です」



 ライナス兄さまは、即座に私の意図を汲んだ。

 窓の鍵を確認し、廊下に通じる扉の前まで戻り、自ら閂をかけた。それから私の向かいに腰を下ろし、組んだ手の上に顎を乗せた。



「聞こう」



 私は、王宮広間で起きたことを、淡々と語った。

 ヴィクトール殿下が私の名を呼ぶ寸前、ノクト大公が立ち上がって保留指名をしたこと。私が義妹リリスを王太子に推したこと。リリスがその場で進み出て、王太子妃候補となったこと。

 兄の灰青の瞳が、最初は驚きに、それから困惑に、最後には懸念に染まっていった。



「アデリーヌ。お前はそれを……自分から進んで、義妹を王太子の側に押しやったのか」

「ええ、兄さま」

「なぜだ。王太子殿下はお前の……お前のことを、随分と気にかけておいでだったろう。お前自身も、殿下のお人柄を悪くは思っていなかったはずだ」



 兄の声には、私を責める色はなかった。ただ、純粋に困惑があった。

 私は、それに正面から答える代わりに、少しだけ脇道を選んだ。



「兄さま。私、お父さまのことが心配なのです」

「父上の?」

「ええ。お父さまは、近頃、王宮派閥のお歴々と、お屋敷でも王宮でも、随分とお話しになっていらっしゃいます。鉱山のこと、税のこと、騎士団の編成のこと」

「……それは、王太子殿下とお前の縁談を見越してのお話だろう」

「縁談が前提だったお話のすべてが、今朝、私からは外れました。お父さまがそれでも王宮派閥に深入りなさっていれば、これから何が起きても、お父さまは責めを負わされる側になってしまいます」



 ライナス兄さまは、しばらく黙って私を見つめた。

 灰青の瞳の奥で、何かが慎重に動いている気配があった。

 私は、まだ全部を言うつもりはなかった。

 一周目の祭壇のことも、薄紅色のお茶のことも、毒杯のことも。

 今この場で兄に訴えたところで、それを彼が信じるかどうかは別の話だ。

 一周目の彼は、結婚式の前夜、私が「理由もなく、胸騒ぎがしてならないのです」と洩らしたとき、「花嫁前は誰でもそうだ」と笑って取り合わなかった。あの優しい笑い方が、私はずっと忘れられなかった。

 だから今度は、信じるべき形で、信じてもらえる質量で、ひとつずつ渡す。



「兄さまは、これからお父さまの相談相手として、もう少しご自分の意見をはっきり仰ってくださいませんか」

「私の意見?」

「ええ。お父さまを王宮派閥に深入りさせない。それだけで結構です」



 兄は、ゆっくりと頷いた。

「……分かった。父上に対して、私から少し意見を申し上げよう。お前の言うように、今朝の儀の結果はかなり予想外だ。家としても、もう一度足元を見直したほうが良い」

「ありがとうございます、兄さま」



 私は、立ち上がってドレスの裾を整えた。

 兄もまた立ち上がり、私の肩に軽く手を置いた。



「アデリーヌ。お前、何かあったのか」

「……何かあった顔をしていますか?」

「いや。何かを思い出した顔をしている」



 兄の灰青の瞳は、優しかった。

 ああ、と私は思った。

 この瞳は、二年後に、見られなくなるのだ。

 北の戦線で、私の言葉に一度も耳を貸さなかったことを後悔しながら、この人は死ぬ予定だった。

 今度は、死なせない。

 胸の奥で、私は深く誓った。



「兄さま。一度に、すべてはお話しできません。けれど、近いうちに、もう少しお話しさせてください。私の話を、馬鹿げていると思っても、最後まで聞いてくださいますか」

「もちろんだ」

「約束ですよ」



 兄は微笑み、私の頭を、子どもの頃のように軽く撫でた。



 *



 夜、自室。

 寝台の縁に座った私は、銀のドレスから簡素な室内着に着替え、暖炉の火を見つめていた。

 暖炉の前にティルダが膝を折って跪いていた。



「ティルダ。もう、立ってちょうだい」

「お嬢さま」

「跪かなくていいの。今日は、あなたに、聞いてほしい話があるの」



 ティルダは立ち上がり、暖炉の側の椅子に腰を下ろした。

 火明かりが、彼女の白髪を金色に染めた。皺の刻まれた頬。柔らかな目。

 控室の前で、毒に倒れた私を救おうとして殺された侍女頭。

 私の最後の声を聞いた人。

 今、彼女は生きて、私の前にいる。



「ティルダ。私には、あなたしか味方がいないの」



 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 ティルダの目に、ゆっくりと水の膜が張った。



「お嬢さま」

「お父さまもお兄さまも、まだ何もご存じない。お母さまは……お母さまは、私の味方ではいらっしゃらないわ。リリスも、もちろん。だから、ティルダ。あなただけが、私の唯一の味方」



 ティルダの肩が、小さく震えた。

 彼女は、暖炉の火に視線を落とし、それから顔を上げた。



「お嬢さま。年寄りの侍女が、こんなお話をしてもよろしゅうございますか」

「ええ、聞かせて」

「先代のローゼンクロイツ侯爵夫人――お嬢さまの、お母さまも、いつかこの居間で、私にだけ仰いました。『私には、あなたしか味方がいない』と」



 暖炉の火が、ぱちん、と音を立てた。

 私の胸の中で、何かがほろりと崩れた。

 母は、五歳の私を残して亡くなった。

 病気だと聞かされていた。けれど、後妻イザベラとリリスがやって来たのが、母が死んでからわずか三年後のことだった。

 その不自然さを、私は十一年、心の隅で押し殺して生きてきた。



「お母さまは、何をご存じだったの」

「全部ではございません。けれど、後妻のお方が侯爵家にお入りになる前から、お母さまはあのお方とリリスお嬢さまについて、お調べを進めておられました」

「……それで」

「お調べの内容を、私は今でも預かっております。お屋敷の地下、書庫の奥、お母さま専用の小箱の中に」



 暖炉の火が、ゆっくりと一段、明るくなった気がした。

 私は呼吸を、ゆっくり整えた。

 母も、戦っていたのだ。

 たぶん最後まで一人で。そして、たぶん、それが原因で。



「ティルダ。その小箱、見せてもらえる?」

「もちろんでございます、お嬢さま。私のような年寄りでよろしければ、何度でも、何度でも、お供仕ります」



 彼女の目から、小さな涙が一粒、落ちた。

 私は、椅子から立ち上がって、彼女の前に膝をついた。皺の刻まれた手を、両手で包んだ。



「ティルダ。あなたを、絶対に死なせないわ」



 ティルダの目が、大きく見開かれた。

 私は構わず続けた。



「あなたが、誰かに殺されそうになったときには、私が必ず逃がす。逃がせるように、これから動く。約束する」



 彼女は何も言わなかった。

 ただ、皺の刻まれた手で、私の頬を、長いこと、撫でていた。

 その温もりが、控室の絨毯の上で、最後に聞いた誰かの叫び声に、ゆっくりと重なった。

 あの叫びは、たしかにティルダの声だった。

 扉を抑えながら、「お嬢さま」と叫び続けた、白髪の侍女の声。

 その声が、今、私の頬を撫でる手の温度として、戻ってきている。



「お嬢さま。私もお約束しますよ」

「何を?」

「お嬢さまが、もう二度と、絨毯の上で泣かなくて済むように。この命に代えても、お守り申し上げます」



 暖炉の火が、色を変えていった。

 窓の外では、建国祭の名残の鐘が、遠くで小さく一度だけ鳴った。



(第三話 了 / 約4,950字)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ