第三話 ローゼンクロイツの朝
# 第三話 ローゼンクロイツの朝
馬車の窓から見える街路樹は、建国祭のために飾られた金糸の花綱を、まだ枝先にぶら下げていた。
春の風が、若葉と花綱を一緒に揺らしている。広場の噴水の水音、子どもの歓声、菓子売りの呼び声。何もかも、十六歳の朝に見たままの景色だった。
車輪の音だけが、私の頭の中で奇妙に大きく響いた。
王宮広間で起きたばかりの一切が、まだ夢のように現実離れしていて、けれど胸の奥には、はっきりと熱の残り火があった。
「お嬢さま」
向かいに座ったティルダが、控えめに声を落とした。皺の刻まれた手が、膝の上で銀の祈祷書をきつく握っている。
「お疲れではございませぬか。少しお休みくださいまし」
「いいえ。大丈夫よ、ティルダ」
私は微笑んで、窓の外に目を戻した。
王宮を出てからずっと、ティルダの目はこちらに向けられていた。私の動揺を、震えを、あるいは涙を、いつでも受け止められるように。
私はもう、震えなかった。
大公の保留指名を受け、義妹を王太子に推し、列に戻って宴の終いまで立ち通した私の体は、思いがけずまっすぐに保たれていた。
控室の絨毯の上で死んだ十九歳の私が、十六歳の私の背骨に、そっと一本の鉄の芯を入れていったかのようだった。
馬車がローゼンクロイツ侯爵邸の門をくぐった。
白い石造りの門柱、薔薇の蔓が絡む鉄の柵、敷石の通路。母が植えさせた紅梅の老木が、屋敷の左手に控えめな花を残していた。
車寄せに着くなり、玄関扉が勢いよく開いた。
駆け出してきたのは、ローゼンクロイツ侯爵夫人イザベラだった。
「アデリーヌ! いったいどういうこと?」
茶色の髪を高く結い、肩を露わにした花柄のドレス。後妻として侯爵家に入って十一年、けれど未だに「侯爵夫人」の貫禄が身についていない女性だった。普段は澄ました顔を作るのが上手い人なのに、今日は化粧の上から赤みがにじんでいる。
「お母さま、ただ今戻りました」
馬車から降りた私は、丁寧に頭を下げた。
イザベラ夫人は答礼もせず、私の腕を掴んだ。
「シュヴァルツヴァルト大公の保留指名? あんなお話、聞いておりませんでしたよ。王太子殿下があなたを御指名なさるはずだったのに――それを、それを、よりによってあのリリスが」
言葉の最後で、彼女は声を呑んだ。
慌てて口を押さえ、辺りを見回す。けれど屋敷の使用人はもう退散していて、玄関の中で耳を澄ます者はいない。
「お母さま、リリスが王太子殿下の御指名を頂いたのは、ローゼンクロイツの家にとってこの上ない誉れではございませんか」
私は穏やかに言った。
イザベラ夫人の眉が震えた。
「……それは、それはそうですよ、もちろん。けれど、あなたがあのお方に……大公閣下に、保留指名されたのはまた別のお話で」
「ええ、保留指名でございますもの。三年か四年か、あちらの大公領との交流を経て、正式な縁談がまとまるかどうか。まだ何も決まったわけではございません」
「そんな悠長な話を……あの方は氷の戦神とまで呼ばれるお方ですよ。何を考えていらっしゃるのか」
イザベラ夫人の目に、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
彼女が描いていた絵図は、おそらくこうだ。
建国祭の朝、王太子が私を選び、王宮派の侯爵令嬢として婚約。三年後に祭壇で「事故死」させられ、リリスが代わりに王太子妃となる。
そうして侯爵家は王宮派の中枢に上り、ローゼンクロイツの魔脈鉱山は王太子のものに、リリスの「無垢な聖女」の評判は教会のものに。
その絵図の中央に、真っ黒な楔が打ち込まれた朝。
夫人がここまで露骨に動揺するということは、彼女は単なる馬鹿な後妻ではなく、絵図のかなり深いところまで承知していたということ。
心のどこかが冷えるのを感じながら、私は微笑みを保った。
「ご心配なさらないでくださいませ、お母さま。大公閣下の御意向は、これから少しずつ伝わってまいりましょう。私も、リリスのことを精一杯陰ながら支えて参りますわ」
「リリスの……?」
夫人が眉根を寄せたとき、屋敷の奥から軽やかな足音が近づいてきた。
「お姉さま!」
桃色の髪を背に流したリリスが、両手を広げて駆け寄ってきた。
私は一瞬、息を止めた。
ほんの数刻前、王宮広間の人込みの向こうで「ありがとう、お姉さま」と唇だけで告げてきた義妹。
今は、無垢な少女の顔に戻っている。
「お姉さま、本当にありがとうございました。私のような者を、王太子殿下にお薦めくださるなんて」
リリスが私の両手を、自分の小さな手で包み込んだ。
あの控室で、薄紅色のお茶の杯を私に押しつけた、温かい小さな手。
私はそれを、振りほどかなかった。
むしろ、優しく握り返した。
「ええ、リリス。あなたの今日のお姿は、それは見事でしたよ。王太子殿下も心を奪われたお顔をしていらっしゃったわ」
「お姉さま……」
「これからは妃候補として、何かと忙しくなるでしょう。立ち振る舞い、教養、王宮の作法。お母さまと共に、しっかりお励みなさい。私もシュヴァルツヴァルト大公家の縁談に向けて、あちらのお国のことを勉強しないといけないわ」
義妹の長い睫毛が、ほんの一瞬震えた。
私の言葉に、何か違和感を覚えた目だった。
もう一周目の私のように、震えながらリリスにすがる姉ではない。
しかし、すぐに彼女は微笑みを取り戻した。
「お姉さまの分まで、私が幸せになります。お姉さまをこんなに長く見てきたのですもの。お姉さまが愛されるはずだった場所で、私もきっと愛され方を覚えてみせます」
お姉さまの分まで。
お姉さまが愛されるはずだった場所で。
なんと美しい言葉を選ぶこと。
私はまっすぐに、義妹の緑の瞳を見て微笑んだ。
「ええ、せいぜいお幸せに。あなたなら、きっと立派にお務めできましてよ」
リリスの瞳の奥が、ほんの一瞬、淀んだ。
私の声色の中の何かを、彼女は嗅ぎ取ったのかもしれない。けれどそれを表に出すには、十一年の擬態の訓練は完璧すぎた。彼女は天使のように頷き、母のもとへと戻っていった。
*
居間の重い樫の扉を、私は押した。
窓の傍らで本を膝に乗せていた青年が、こちらを振り向いた。
ローゼンクロイツ侯爵家嫡男、ライナス・フォン・ローゼンクロイツ。私の三つ年上の兄。
亜麻色の髪に、母譲りの優しい灰青の瞳。剣を取らせれば騎士団の若手を抑え込み、机に向かわせれば古典をすらすら読みこなす、頼もしい兄。
一周目では、結婚を控えた私の不安を「考えすぎだ」と笑って退けた人。
そして、あの死の間際に見た欠片の中では、二年後の北方戦線で、還らぬ人になっていた。
「アデリーヌ。儀は……無事に済んだのか」
兄は本を脇に置いて立ち上がり、私の銀のドレスを見るなり、何かを察したような顔をした。
扉を後ろ手に閉めながら、私は深く息を吐いた。
「兄さま。少し、お話があります」
「ああ」
「他の誰にも聞かせたくない話です」
ライナス兄さまは、即座に私の意図を汲んだ。
窓の鍵を確認し、廊下に通じる扉の前まで戻り、自ら閂をかけた。それから私の向かいに腰を下ろし、組んだ手の上に顎を乗せた。
「聞こう」
私は、王宮広間で起きたことを、淡々と語った。
ヴィクトール殿下が私の名を呼ぶ寸前、ノクト大公が立ち上がって保留指名をしたこと。私が義妹リリスを王太子に推したこと。リリスがその場で進み出て、王太子妃候補となったこと。
兄の灰青の瞳が、最初は驚きに、それから困惑に、最後には懸念に染まっていった。
「アデリーヌ。お前はそれを……自分から進んで、義妹を王太子の側に押しやったのか」
「ええ、兄さま」
「なぜだ。王太子殿下はお前の……お前のことを、随分と気にかけておいでだったろう。お前自身も、殿下のお人柄を悪くは思っていなかったはずだ」
兄の声には、私を責める色はなかった。ただ、純粋に困惑があった。
私は、それに正面から答える代わりに、少しだけ脇道を選んだ。
「兄さま。私、お父さまのことが心配なのです」
「父上の?」
「ええ。お父さまは、近頃、王宮派閥のお歴々と、お屋敷でも王宮でも、随分とお話しになっていらっしゃいます。鉱山のこと、税のこと、騎士団の編成のこと」
「……それは、王太子殿下とお前の縁談を見越してのお話だろう」
「縁談が前提だったお話のすべてが、今朝、私からは外れました。お父さまがそれでも王宮派閥に深入りなさっていれば、これから何が起きても、お父さまは責めを負わされる側になってしまいます」
ライナス兄さまは、しばらく黙って私を見つめた。
灰青の瞳の奥で、何かが慎重に動いている気配があった。
私は、まだ全部を言うつもりはなかった。
一周目の祭壇のことも、薄紅色のお茶のことも、毒杯のことも。
今この場で兄に訴えたところで、それを彼が信じるかどうかは別の話だ。
一周目の彼は、結婚式の前夜、私が「理由もなく、胸騒ぎがしてならないのです」と洩らしたとき、「花嫁前は誰でもそうだ」と笑って取り合わなかった。あの優しい笑い方が、私はずっと忘れられなかった。
だから今度は、信じるべき形で、信じてもらえる質量で、ひとつずつ渡す。
「兄さまは、これからお父さまの相談相手として、もう少しご自分の意見をはっきり仰ってくださいませんか」
「私の意見?」
「ええ。お父さまを王宮派閥に深入りさせない。それだけで結構です」
兄は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。父上に対して、私から少し意見を申し上げよう。お前の言うように、今朝の儀の結果はかなり予想外だ。家としても、もう一度足元を見直したほうが良い」
「ありがとうございます、兄さま」
私は、立ち上がってドレスの裾を整えた。
兄もまた立ち上がり、私の肩に軽く手を置いた。
「アデリーヌ。お前、何かあったのか」
「……何かあった顔をしていますか?」
「いや。何かを思い出した顔をしている」
兄の灰青の瞳は、優しかった。
ああ、と私は思った。
この瞳は、二年後に、見られなくなるのだ。
北の戦線で、私の言葉に一度も耳を貸さなかったことを後悔しながら、この人は死ぬ予定だった。
今度は、死なせない。
胸の奥で、私は深く誓った。
「兄さま。一度に、すべてはお話しできません。けれど、近いうちに、もう少しお話しさせてください。私の話を、馬鹿げていると思っても、最後まで聞いてくださいますか」
「もちろんだ」
「約束ですよ」
兄は微笑み、私の頭を、子どもの頃のように軽く撫でた。
*
夜、自室。
寝台の縁に座った私は、銀のドレスから簡素な室内着に着替え、暖炉の火を見つめていた。
暖炉の前にティルダが膝を折って跪いていた。
「ティルダ。もう、立ってちょうだい」
「お嬢さま」
「跪かなくていいの。今日は、あなたに、聞いてほしい話があるの」
ティルダは立ち上がり、暖炉の側の椅子に腰を下ろした。
火明かりが、彼女の白髪を金色に染めた。皺の刻まれた頬。柔らかな目。
控室の前で、毒に倒れた私を救おうとして殺された侍女頭。
私の最後の声を聞いた人。
今、彼女は生きて、私の前にいる。
「ティルダ。私には、あなたしか味方がいないの」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
ティルダの目に、ゆっくりと水の膜が張った。
「お嬢さま」
「お父さまもお兄さまも、まだ何もご存じない。お母さまは……お母さまは、私の味方ではいらっしゃらないわ。リリスも、もちろん。だから、ティルダ。あなただけが、私の唯一の味方」
ティルダの肩が、小さく震えた。
彼女は、暖炉の火に視線を落とし、それから顔を上げた。
「お嬢さま。年寄りの侍女が、こんなお話をしてもよろしゅうございますか」
「ええ、聞かせて」
「先代のローゼンクロイツ侯爵夫人――お嬢さまの、お母さまも、いつかこの居間で、私にだけ仰いました。『私には、あなたしか味方がいない』と」
暖炉の火が、ぱちん、と音を立てた。
私の胸の中で、何かがほろりと崩れた。
母は、五歳の私を残して亡くなった。
病気だと聞かされていた。けれど、後妻イザベラとリリスがやって来たのが、母が死んでからわずか三年後のことだった。
その不自然さを、私は十一年、心の隅で押し殺して生きてきた。
「お母さまは、何をご存じだったの」
「全部ではございません。けれど、後妻のお方が侯爵家にお入りになる前から、お母さまはあのお方とリリスお嬢さまについて、お調べを進めておられました」
「……それで」
「お調べの内容を、私は今でも預かっております。お屋敷の地下、書庫の奥、お母さま専用の小箱の中に」
暖炉の火が、ゆっくりと一段、明るくなった気がした。
私は呼吸を、ゆっくり整えた。
母も、戦っていたのだ。
たぶん最後まで一人で。そして、たぶん、それが原因で。
「ティルダ。その小箱、見せてもらえる?」
「もちろんでございます、お嬢さま。私のような年寄りでよろしければ、何度でも、何度でも、お供仕ります」
彼女の目から、小さな涙が一粒、落ちた。
私は、椅子から立ち上がって、彼女の前に膝をついた。皺の刻まれた手を、両手で包んだ。
「ティルダ。あなたを、絶対に死なせないわ」
ティルダの目が、大きく見開かれた。
私は構わず続けた。
「あなたが、誰かに殺されそうになったときには、私が必ず逃がす。逃がせるように、これから動く。約束する」
彼女は何も言わなかった。
ただ、皺の刻まれた手で、私の頬を、長いこと、撫でていた。
その温もりが、控室の絨毯の上で、最後に聞いた誰かの叫び声に、ゆっくりと重なった。
あの叫びは、たしかにティルダの声だった。
扉を抑えながら、「お嬢さま」と叫び続けた、白髪の侍女の声。
その声が、今、私の頬を撫でる手の温度として、戻ってきている。
「お嬢さま。私もお約束しますよ」
「何を?」
「お嬢さまが、もう二度と、絨毯の上で泣かなくて済むように。この命に代えても、お守り申し上げます」
暖炉の火が、色を変えていった。
窓の外では、建国祭の名残の鐘が、遠くで小さく一度だけ鳴った。
(第三話 了 / 約4,950字)




