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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第二話 銀の指名

春の建国祭の朝、王宮の大広間は花と人で埋め尽くされていた。



 高い天蓋から零れ落ちる陽の光が、磨き抜かれた大理石の床に黄金の帯を作っている。回廊の柱には白百合と紅薔薇の花綱が巻かれ、楽士たちは控えめな弦の音色で広間の隅を彩っていた。建国を祝う鐘の余韻が、まだ天井のどこかに残っているかのようだった。

 今日この広間で、王族と大公家が候補令嬢を指名する。婚約者選定の儀。私の、いや、ローゼリア王国に住む十六歳の貴族令嬢たちにとって、人生でただ一度の朝。



 私は壁際に並ぶ令嬢の列の中ほどに立っていた。

 身に纏うのは銀のドレス。胸元は控えめに、肩にはレースの霞だけ。耳朶に下げたのは母の遺した小粒の真珠ひとつ。

 ティルダが「お嬢さまの今日のお装いは、少し大人びすぎませぬか」と心配そうに言ったので、私は微笑んで返した。「派手な羽根は、今日の私には要らないわ」。

 あの控室で見た銀の冠も、白薔薇の花嫁衣装も、頭の隅にこびりついて剥がれない。だから今朝は、敢えて静かな銀を選んだ。十九歳で死んだ女が、十六歳の体に着せたい色。それだけのつもりだった。



 義妹のリリスは、私から少し離れた場所に立っていた。

 白いドレス。袖口にあしらわれたのは銀糸の刺繍ではなく、淡い金。胸元には大ぶりの真珠の首飾り。桃色の髪は天使のように緩く編まれ、頬には初々しい紅。

「天使のような」と、近くの夫人がため息混じりに呟くのが聞こえた。

 ええ、天使のようですわね、と私は内心で頷いた。

 私の控室に銀の盆を運んできたあの夜と、寸分違わぬ顔。



 壇上の玉座の隣には、第一王太子ヴィクトール・ローゼリア殿下が立っていた。

 金髪に碧眼。白の儀礼服。三年後、私の婚約者として祭壇に立った男。

 今朝は、ただの第一王太子。

 その瞳が、私の上を一度滑り、止まり、そして笑みへと変わるのを、私は見た。

 覚えている。あの目だ。三年前のあの建国祭の朝、「あなただけが私の運命の人だ」と告げる前の、計算された優しい目。



 胃の奥が冷たくなった。

 けれど私は、口元に微かな微笑みを置いたまま、視線を逸らした。

 彼の目を、二度と私のほうへ留めてはいけない。



 壇上で、王の側近が一度咳払いをした。広間の楽士の音色が止まり、人々がさざめきを抑えた。

 いよいよ、儀式が始まる。

 王太子ヴィクトール殿下が一歩前に踏み出した。私のほうを真っ直ぐに見据え、息を吸い、口を開きかけた――その、寸前のことだった。



「お待ちいただきたい」



 低く、よく通る声だった。

 空気が固まる、というのは、こういうことを言うのだろう。

 壁際の貴族たちが、ぴたりと話をやめた。楽士の弓を持つ手が震え、王の側近が眉をひそめた。

 声の主は、玉座のすぐ左、大公家のために設えられた銀張りの椅子から、ゆっくりと立ち上がった。



 黒衣に黒髪。胸には大公家の紋章。背筋は刃のように真っ直ぐで、肩幅は広く、二十代半ばの若さに似合わぬ威厳が、立ち姿そのものから滲み出ていた。

 血のように赤い瞳が、広間を一度撫で、私の顔の上で止まった。



 ノクト・フォン・シュヴァルツヴァルト大公。

 大陸東の独立大公国、シュヴァルツヴァルトの若き当主。

 「氷の戦神」と呼ばれる男。



 そう、覚えていた。

 一周目では、ほとんど話したこともない人だった。建国祭の儀には毎年顔を出し、しかし誰の名も呼ばずに帰っていく男。あの年も、彼は何も言わずに帰っていったはず。

 名前だけは知っていた。ノクト・フォン・シュヴァルツヴァルト。「氷の戦神」と呼ばれる、ほぼ初対面に等しい隣国の大公。



 その男が、今朝は立ち上がっている。



「シュヴァルツヴァルト大公家、ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ嬢を、保留指名する」



 ノクト大公の声は、感情の起伏というものを知らないように平らだった。

 けれどその一言は、広間の隅々まで、一切の濁りなく届いた。



 保留指名。

 同国大公にのみ許される、数年の交流期間を経て正式婚約に進める指名。

 王族の指名よりも先んじて行われた瞬間、令嬢はその場で他家からの指名を受けられない。



 広間がざわめいた。

 扇を口元にあてた夫人たちが目を見交わし、回廊の柱の陰で誰かの喉がひくりと鳴った。

 壇上のヴィクトール殿下の表情から、笑みが消えた。

 ほんの一瞬、唇の端が固く引き結ばれ、それから急いで王者の柔らかな表情に戻された。

 けれど私は見た。

 私の婚約者になるはずだった男が、用意していた台詞を、根本から書き換えなければならなくなった、その視線の濁りを。



 もうひとつ、見た。

 広間の反対側で、義妹リリスの肩がほんの僅かに揺れた。

 潤んだ緑の瞳から、一瞬だけ、感情の膜が剥がれた。

 甘やかな少女の表情ではない、能面のように静かな顔が、半秒だけ覗いた。

 そしてすぐに、リリスはまた天使の微笑みに戻った。



 ああ、と私は思った。

 あなたも計算が狂ったのね、リリス。

 一周目で、私を毒杯で殺し、私になりすまして王太子妃になるはずだった。だから今朝、私が王太子に指名されることは、あなたの計画の前提だった。

 その前提を、今、知らない男が壇上から一言で潰した。



 うつむいて、私はゆっくりと頭を下げた。

 大公の指名を受けた令嬢の作法。

 体は震えていなかった。むしろ、長い間冷えていた指先に、温かいものが戻ってくるのを感じた。



「謹んで、お受けいたします、シュヴァルツヴァルト大公閣下」



 顔を上げて、私はノクト大公の血赤の瞳を真っ直ぐに見た。

 彼もこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、不思議な感覚が胸を貫いた。

 あの夜と違う。あの絨毯の上で、薄れていく意識の中で見たどの顔とも違う。

 そして同時に――どこかで、見たことがある。

 会ったこともない男のはずなのに。

 既視感、と呼ぶしかない、奇妙な熱が胸の奥で鈍く灯った。



 壇上で、ヴィクトール殿下が咳払いをした。

 この場の支配権を、もう一度こちらに引き寄せなければならない。彼の顔にはそう書いてあった。



「……シュヴァルツヴァルト大公閣下のご決断、王家として尊重いたします。さて、ローゼリア王家としても、今朝はぜひ祝福すべき縁を結びたい。候補令嬢の中で、いずれが我が妃に相応しいか――」



 殿下の言葉が宙に滑った。

 名前を挙げるべき相手が、もう自分の手の中にはない。彼の予定していた台本では、私の名前が書かれていた場所が、ぽっかりと空白になっている。

 その空白を、私は見上げた。



 ここで何もしなければ、殿下は別の侯爵令嬢を指名するだろう。それでもいい、と心のどこかが囁いた。私はもう関わらない。彼の手から離れ、大公国へ移り、後はすべてを忘れて生きていけばいい。

 けれど、それでは終わらない。

 あの控室の絨毯の上で、薄紅色の液体が滲んでいくのを見た私は、もう、知ってしまった。

 二人を、同じ船に乗せなければ。



 私は一歩、列の前に出た。

 令嬢が儀式の場で口を開くなど、本来は咎められる振る舞いだ。けれど大公の保留指名を受けたばかりの私には、ほんの一言だけ発言の余地がある。それを、私は使うつもりだった。



「畏れながら、王太子殿下に申し上げます」



 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 広間中の視線が、こちらに集まった。

 ノクト大公の血赤の瞳が、ほんの僅か細くなったのも、視界の端に映った。



「私の妹リリスは、まだ社交の場に不慣れな見習いの身ではございますが、心根の純真さにおいて、誰にも引けを取りませぬ。もしも王太子殿下のお気に召すことがございましたなら、ローゼンクロイツの家にとって、これに勝る誉れはございませぬ」



 ざわめきが、広間に広がった。

 義妹を王太子に推す姉。

 大公に保留指名された姉が、自分は身を退き、妹をどうかと申し上げる。

 その美しい構図に、夫人たちが感嘆のため息を漏らすのが聞こえた。

 なんと姉妹の情の深いこと、なんと家のために自らを差し出すことの厭わない令嬢か。

 ええ、いくらでも美談に仕立ててくださって構いません、と私は内心で頷いた。

 私はあなたたちに、お似合いのお膳立てをしているだけだ。



 ヴィクトール殿下の視線が、私の上から、列の少し先に立つリリスへと移った。

 その目に、僅かな苛立ちと、それを上回る安堵の色が浮かぶのを、私は見た。

 その喉が、ひとつ小さく上下した。彼の計算も、ここで狂ったらしい。

 大公の保留指名で私を奪われ、しかし王太子としてこの場で誰も指名せずに退くわけにはいかない。

 ちょうどそこに、無垢な妹が差し出された。

 しかも、あの妹は、すでに彼の秘密を共有している相手だ。



 リリスは、瞬時に動いた。

 桃色の髪をふわりと揺らし、潤んだ緑の瞳を大きく見開き、頬に紅を散らせて、両手を胸の前で組んだ。



「……お姉さま、私が……?」



 無垢に震える声。

 迷いと、戸惑いと、ほんの少しの期待。

 完璧な、十六歳の演技。

 あの控室で「お別れですわ、お姉さま」と告げたのと同じ唇から、まったく別の声が紡ぎ出されていた。

 十一年、私を見て学んだという通り、見事な擬態だった。



 ヴィクトール殿下は、もう迷わなかった。

「ローゼリア王家、第一王太子ヴィクトール・ローゼリアの名において。ローゼンクロイツ侯爵令嬢リリス嬢を、我が妃候補として指名する」



 広間に、波のような拍手が湧いた。

 リリスは恭しく一礼し、衣擦れの音を立てて壇上のほうへ進み出た。

 ヴィクトール殿下が手を差し伸べ、彼女の手を取った。

 二人が並んだその姿を、私は遠くから眺めた。

 白いドレスと白い儀礼服。金髪と桃色の髪。

 お似合いだ、と素直に思った。

 あなたたちは、お似合いの二人。



 拍手と祝福の声に包まれて、王太子と義妹が広間の奥へと進んでいった。リリスが一度だけ振り返り、私に微笑んだ。「ありがとう、お姉さま」とその唇が形作るのが、私には見えた。

 ええ、お幸せに。

 心の中で、私は返した。

 お二人で、仲良く、どうぞ。



 拍手が引いていく中、私はようやく息を吐いた。

 膝の力が、僅かに抜けそうになる。

 その瞬間、すぐ近くで、誰かが私を見ていることに気づいた。



 ノクト大公だった。

 壇のすぐ横、銀張りの椅子の前に立ったまま、彼は私のほうを見ていた。

 血赤の瞳が、静かにこちらを射ていた。



 目が合った。

 会釈を返そうと頭を下げかけて、私は途中で動きを止めた。

 彼の瞳の奥に、不思議な揺らぎが見えた気がしたからだ。

 驚きでも、好意でも、警戒でもない。

 もっと深く、もっと静かな、何かを思い出そうとしている人の目。

 既視感、という言葉が、もう一度胸の奥で鳴った。



 ノクト大公が、ほんの僅かに頭を下げた。

 貴公子としての挨拶。それ以上の感情は、表向きには何ひとつ示されなかった。

 けれど私には、それで十分だった。

 保留指名は、社交辞令ではなかった。

 彼は、私を、選んで立ち上がったのだ。

 知らない令嬢の、知らないはずの命を、なぜか引き上げるように。



 私は深く頭を下げ、列の元の位置に戻った。

 広間の楽士が再び弦を奏で始め、儀式は次の家の指名へと移っていった。

 宴の段になっても、私は壁際で、銀のドレスのまま、静かに微笑んでいた。

 声をかけてくる夫人には穏やかに、目配せを寄越す令嬢には控えめに。

 頭の奥は、奇妙なほど冷えていた。



 これで、二人を同じ船に載せた。

 あの王太子と、あの義妹。

 一周目で、私を控室の絨毯に倒した二人。

 二度目の私は、二人の手を取って、わざわざ船首に並ばせた。

 あとはこの船が、勝手に岩礁に向かって進んでいくのを、銀のドレスのまま見届けるだけだ。



 遠くで、王太子と義妹が、貴族たちに囲まれて笑っていた。

 義妹のほうが、ほんの一瞬、私のほうを見た。

 その緑の瞳に、もう「お姉さま」への甘さは欠片も残っていなかった。

 代わりに浮かんでいたのは、勝者の余裕に似た、薄い光だった。



 ええ、お似合いですわ。

 心の中で、私はもう一度、囁いた。

 どうぞ、お二人で仲良く、舳先までお進みくださいませ。



(第二話 了 / 約4,950字)



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