第一話 祭壇の毒杯
王宮大聖堂の控室には、白薔薇の香りと蜜蝋の匂いが満ちていた。
壁を覆う薔薇のタペストリーも、頭上で揺れる金細工のシャンデリアも、私の十九年の人生で見た中で最も豪奢な調度だった。三年がかりの婚約期間を経て、今日、私は王太子妃となる。
ローゼリア王国の第一王太子ヴィクトール・ローゼリア殿下と、ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ。神官による誓いの儀式まで、あと半刻もない。
鏡の前で、私は自分の姿をぼんやり眺めていた。
銀の髪は結い上げられ、母の形見である氷青の瞳に合わせた銀の冠が乗っている。レースで覆われた首筋は青白く、頬には少しの紅が刷かれていた。十九歳の花嫁としては、悪くない仕上がりだと思う。
ただ、心臓が嫌に重かった。
昨日から胸の奥で、誰かが「やめなさい」と囁き続けているような感覚があった。婚礼前の花嫁にはよくあること、と侍女頭のティルダは笑ったけれど、その彼女も今日に限って表情が冴えなかった。
「お姉さま」
扉が静かに開いて、義妹のリリスが入ってきた。
桃色の髪、大きな緑の瞳、白いサテンのドレス。十九歳の彼女は、相変わらず人形めいて愛らしい。両手で銀の盆を捧げ持ち、その上には水晶の杯が一つ載せられている。
「神官さまが、お姉さまの緊張をほどくお茶をと。お父さまがどうしてもとおっしゃって……。私が運ばせていただきました」
リリスは小走りに近づき、盆をテーブルに置いた。
杯の中身は薄紅色の温かいお茶のように見えた。立ちのぼる湯気には、見覚えのない甘い香りが混じっている。
「ありがとう、リリス。でも、もうじきお酒の儀があるのだから、今は」
「お姉さま」
リリスが私の手を取った。小さくて温かい手だった。十一年前、後妻として侯爵家に来たイザベラ夫人が、八歳のリリスを連れて私の前に立った日。あの日もリリスは私の手を取り、「お姉さまになってくれてうれしい」と微笑んだ。
あれからずっと、この手は私の手を握ってきた。
涙の夜も、母の墓参りも、社交界デビューも。
「お父さまは、お姉さまが王宮で気を張ってお倒れになるのを心配しておいでなのです。一口だけでも、私の安心のために。お願いします、お姉さま」
潤んだ緑の瞳。震える唇。十一年連れ添った妹が、こんな顔で頼んでいる。
私は微笑んで、杯を受け取った。
「お前の言うことなら、聞かないわけにはいかないわね」
水晶の縁に唇をつけた瞬間、香りが鼻の奥に広がった。
甘い。けれど、その奥に金属に似た匂いがあった。
飲んでしまってから、私はその違和感に気づいた。
体の芯が、急に冷たくなった。
杯がするりと指から落ちて、絨毯の上で派手な音を立てて転がった。薄紅色の液体が花嫁衣装の裾を汚していく。私はそれを見ていることしかできなかった。
「リリス、これは……」
声が、出なかった。
膝が崩れて、私は鏡台の前に座り込んだ。視界が二重に揺れて、シャンデリアの光が無数の星のように散った。
「お姉さま」
リリスは動かなかった。涙ぐんでいた緑の瞳から、すっと水の膜が引いていった。
代わりに浮かび上がってきたのは、ひどく静かな笑みだった。
「お別れですわ、お姉さま。十一年、ずっとお姉さまが早く死ぬのを待っていたのよ」
声が違う。さっきまでの甘やかな少女のものではなかった。低く、滑らかで、訓練された声。
扉が、再び開いた。
白い儀礼服に身を包んだヴィクトール殿下が、何の感情もない顔で入ってきた。私の婚約者。三年前、王宮の春の儀で私を選び、「あなただけが私の運命の人だ」と言った男。
「ご苦労、リリス。もう良い」
殿下は床に転がる杯を一瞥し、それからリリスの肩を抱いた。リリスは満足そうに身を寄せた。
「お父さまには事故と説明を。おまえと結婚するための半年は、長すぎないようにしないと」
「ご心配なく、ヴィクトール。お姉さまの代役は、私が完璧に務められますもの。声も、所作も、好みも、十一年かけて全部覚えておりますから」
二人が囁き合っている。
私の死を、当然のように。
ああ、と思った。
ああ、そうなのか。
これが結末だったのか。
胸がはじけるように痛んで、私は床に倒れた。誰かが叫んでいるような気がした。ティルダかもしれない。けれど、その声はすぐに遠くなった。
最後に見えたのは、絨毯に滲んでいく薄紅色の液体と、そこに映り込んだ自分の銀の髪だった。
ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ、十九歳。
婚礼の祭壇に立つことなく、控室の絨毯の上で死んだ。
――そのはずだった。
*
「お嬢さま」
誰かが、肩を揺すっている。
懐かしい、低い声。
「お嬢さま、起きてくださいませ。今日は建国祭、儀のお支度がございます」
目を、開けた。
飛び込んできたのは、見慣れた天井の薔薇模様だった。
壁の薔薇模様。ローゼンクロイツ侯爵邸、私の自室の天井だった。
王宮大聖堂の控室ではない。
体を起こすと、心臓が信じられない速さで打っていた。鏡台の前にあったはずの花嫁衣装は影も形もなく、私は寝間着で寝台に座っていた。窓の外には、春の柔らかな朝の光。
「ティ……ルダ?」
声が震えた。
寝台の傍らに立っていたのは、白髪の老侍女だった。背筋を伸ばし、皺の刻まれた手で銀の盆を持っている。
ティルダ。母の代から仕えてくれている、私の侍女頭。
毒に倒れた私を救おうとして、控室の前で殺された。
私はその胸に、わけもわからず飛びついた。
「お嬢さま、いかがされました? 悪い夢でも」
白髪に頬を埋めて、私は声を殺して泣いた。生きている。温かい。皺の刻まれた手が私の背を優しく撫でている。
体に力が入らないのは死の余韻だろうか、それとも安堵だろうか。自分でもわからなかった。
「夢を、見たの。とても、長い」
「悪夢でございましたか」
「ええ。ええ、悪夢」
ようやく身を離して、私はあらためて部屋を見回した。
壁に飾られた絵は十六歳までよく眺めていたもの。鏡台の上には母の遺した銀の櫛。窓辺の花瓶には、毎年この時期に庭師が活ける紅梅。
すべて、見覚えがある。
すべて、十六歳のあの日までの私の部屋だった。
「ティルダ。今日は」
「春の建国祭でございます、お嬢さま。王宮広間にて、婚約者選定の儀。お嬢さまの社交界デビューでもございます」
婚約者選定の儀。
建国祭の朝、王族と大公家が候補令嬢を指名する伝統の場。
私が、王太子ヴィクトールに選ばれて婚約することになる、その日だ。
私は鏡台に駆け寄り、自分の顔を見た。
銀の髪、氷青の瞳。あの控室で見た花嫁の私ではない。少しふっくらとした頬、まだあどけなさの残る面差し。十六歳の私が、そこにいた。
「夢じゃ、ない」
唇から漏れたのは、自分でも信じられない言葉だった。
あれが夢ではなかった、ということは、これが夢ではないということでもある。
私は、戻ってきたのだ。
あの絨毯の上で死んだはずの、十九歳の自分の意識のまま。三年前、十六歳のこの朝に。
もうひとつ、確かなことがあった。
絨毯の上で息が止まったあの瞬間から、この朝目覚めるまでの間、私は完全な闇の中にいたわけではなかった。
何年分もの歳月が、途切れ途切れの光景となって、頭上を通り過ぎていった。誰かの葬列。遠い戦場の喧騒。書状の封蝋が切られる音。ちゃんと筋の通った記憶ではない。順番もばらばらで、誰の、いつの、何の光景なのか、輪郭のほとんどは霧の向こうにあるようにぼやけていた。
それでも、ある光景だけは妙に鮮明で、ある光景はただの影の揺らめきでしかなかった。まるで、私の心が強く引かれたものだけが、かろうじて像を結んだかのように。
母の家系、クロイツの血が死者に見せる最後の悪あがきなのか。それとも、もっと別の何かなのか。私自身にも分からなかった。
ただ、その断片は、消えることなく、この身に焼き付いていた。
膝が震えた。鏡台に手をついて、私はようやく自分を支えた。
心臓は速いままだった。けれど、それは怯えからではなかった。
――ヴィクトール殿下。
――義妹リリス。
二人の最後の声が、鼓膜の奥で繰り返されていた。
《十一年、ずっとお姉さまが早く死ぬのを待っていたのよ》
《お姉さまの代役は、私が完璧に務められますもの》
あれは、私が招いた結末ではなかった。最初から仕組まれていた。
私の母が死んでからの十一年、後妻イザベラと連れ子のリリスが侯爵家に入り込んだあの日からの、長い長い算段の終着点。
それを私は、まったく知らずに、王宮の祭壇までのこのこ歩いていったのだ。
もう一度、鏡を見た。
十六歳の私が、そこに立っていた。
頬には、十九歳で死んだ女の冷たい目が宿っていた。
「ティルダ」
声は、もう震えていなかった。
「お支度を頼みます。婚約者選定の儀に、相応しい装いを」
「かしこまりました」
ティルダは深く頭を下げた。彼女の目に、ほんの一瞬、安堵に似た光が走った気がした。
この老侍女は、どこまで知っていたのだろう。あの控室の前で殺された彼女が、何を見て、何を諦めて死んだのか。
今度は、聞こう。何度でも。
私は鏡の前で、深く息を吐いた。
十一年、私を「お姉さま」と呼んだ人形めいた妹が、心の底でどんな顔をしていたのか。
三年前、王宮の春の儀で私を選び、「あなただけが運命の人」と告げた婚約者が、そのとき何を計算していたのか。
今の私は、知っている。
二人とも、よく似合いの人ではないか。
無垢を装える義妹と、誠実を装える王太子。
唇の端が、自然と上がった。
控室の絨毯の上で死んだ女のものではない、別の表情だった。
「リリス。あなたが王太子妃になりたかったのなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」
鏡の中の自分に向けて、私は静かに告げた。
「いいわ、二度目は私が整えてあげる。あなたとあの方、お似合いの二人だもの。ご一緒に、どうぞ」
春の朝の光が、銀の髪に淡く落ちていた。
窓の外で、建国祭を告げる遠い鐘の音が鳴り始めた。
ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ、十六歳。
鐘の音は、まだ静かに尾を引いていた。
(第一話 了 / 約4,900字)




