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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第二十八話 春の朝に

# 第二十八話 春の朝に



 三年が経った。



 シュヴァルツヴァルト大公領、本城の南翼にある温室は、雪の終わりの春の朝、いちばん明るい場所だった。

 ガラス張りの天井から、淡い金色の光が降りてくる。室内では、北の山では決して育たない南国の蘭、雪解けの泉のそばで咲く水仙、そして、母が好きだった白百合が、季節を超えて同居していた。

 白百合は、いつの頃からか、ノクトが密かに庭師に植えさせたものだった。

 あの王宮大聖堂の控室を覆っていたタペストリーは、白薔薇だった。ノクトは、その花ではなく、母の好んだ白百合を選んでくれたのだった。



 私はその温室の籐椅子に深く腰掛け、膝の上で、銀色に光る一本の編み針を動かしていた。

 お腹は、ふっくらと丸くなっていた。二人目の子は、夏の終わりに生まれる予定だった。

 籠の中の毛糸は、淡い若草色。男の子でも女の子でも構わないように、と選んだ色だった。



「お母さま」



 幼い声が、温室の入口で響いた。

 私の長女、エリザ・フォン・シュヴァルツヴァルトが、二歳の小さな足で、銀色の蝶を追って駆けてきた。

 黒髪。父譲りの黒髪に、母譲りの氷青の瞳。私とノクトの両方を、ちょうど半分ずつ受け継いだ娘だった。



「エリザ、温室の中では走らないのよ」

「だって、銀の蝶なの、お母さま、銀の蝶」



 彼女が指さした先で、確かに、一匹の銀色の蝶が水仙の花の上を漂っていた。

 大公領の春先にだけ姿を見せる、雪解け蝶。母の代の侍女たちが「春を運ぶ精霊」と呼んでいた虫だった。

 エリザは私の膝に飛びつくようにして、銀の蝶をじっと見つめた。



 その瞬間。

 私の中の《見極めの瞳》が、ほんの一拍だけ、ひとりでに目を覚ました。

 磁針盤を介さずに、私の目の奥でクロイツ家の血が脈打つのを感じた。



 エリザの氷青の瞳の奥に、ほんの一瞬。

 銀色の輪が、すっと走るのが見えた。



 私の指が、編み針を取り落としかけた。

 《見極めの瞳》。

 クロイツ家の血脈が呼び覚ます、魂を視る古い力。

 私の代で目を覚ましたその力は、私が想っていたよりも早く、次の世代に渡されていた。



 エリザは、銀の蝶を真剣に追っていた。

 彼女の瞳の銀の輪は、すぐに消えた。けれど、確かに、そこにあった。



 私は息を吐き、編み針を膝の上に戻した。

 驚きより先に、深い、温かい感慨が、胸の奥に降りてきた。

 私は、独りではなかった。

 もう、独りで古代魔術の血を抱えてはいない。

 この娘が、私のあとを継いでいる。



 *



「アデリーヌ」



 書類の束を抱えた黒い人影が、温室の入口に立った。

 ノクトだった。

 戦場の黒鉄の鎧ではなく、領主の黒い上着姿。三年前の婚礼の日と同じ、銀糸の刺繍が袖口に走っている。

「執務の合間か」

「本日の決裁分は、もう兄上に渡したの?」

「ライナスに半分。レアンドルにもう半分」



 兄ライナスは今、両国の貴族院の橋渡し役として、季節の半分を大公領で過ごしていた。レアンドル新王太子の信頼は篤く、ローゼリアと大公国の橋は、年々頑丈になっていた。

 ノクトは温室の中央に進んできて、書類を低い卓に置き、エリザを見つけて、足を止めた。

「お父さま!」

 エリザが、銀の蝶を放り出して、ノクトに飛びついた。

 冷酷無比と呼ばれた「氷の戦神」が、二歳の娘を片腕で軽々と抱き上げ、頬に頬を寄せた。

 彼の血赤の瞳が、信じられないほど柔らかい色を浮かべていた。

 私は、その光景を見ていた。

 婚約者選定の儀の朝、王宮広間で「保留」の名を私に告げた、あの冷たい横顔と、今、目の前で娘に頬ずりをしている男が、同じ人物だとは、初めて見る者には絶対に分からないだろう。



 ノクトはエリザを温室の隅の小さな椅子に下ろし、銀の蝶のことを娘に語って、彼女が水仙のほうへまた駆けていくのを見送った。

 それから、私の籐椅子の傍らに膝をついた。

「腹の子は、変わりないか」

「ええ」

「無理は、するな」

「致しませんわ」



 彼の手が、私の腹に添えられた。

 冷たい手。三年経っても、彼の指先はやはり冷たかった。

 けれど、私のお腹の中の二人目は、その冷たさをむしろ好むらしく、彼の手が触れたとき、必ずひと蹴り、小さな返事をくれるのだった。

 今日もそうだった。

 ノクトの口元が、ほんのわずかに緩んだ。



 私は、左の手首にはめた銀の腕輪を撫でた。

 婚礼の日に彼から贈られたものだ。彼の家の紋章の意匠と、ローゼンクロイツ家の薔薇の意匠が、半々に絡み合っている細工だった。



「ノクト」

「言え」

「あなたの夢の断片、もう一度聞かせてくださる?」



 彼の眉が、ほんの少し動いた。

 婚約者選定の儀の朝から、彼は決して、自分の見ていた夢のことを、はっきりとは語らなかった。

 断片、と彼が呼んでいたものを、私は何度か聞きそびれて、何度か聞き出そうとして、最後にはいつも、「お前にだけは黙っておきたい」と微笑まれて、引き下がってきた。

 今、私は腹の子の存在を抱えながら、もう一度、聞いた。



 ノクトは、長く、沈黙した。

 温室の窓ガラスの外で、雪解け水の流れる音が、ひそやかに響いていた。

 やがて、彼は、低く、しかし、はっきりと、語り始めた。



「夢の中で、俺は雪原を駆けていた」



 彼の血赤の瞳が、ガラス天井の遠くを見ていた。

 今ここではない、別の世界の遠くを。

「馬の背は、汗で濡れていた。風が雪を吹き付けて、視界が利かなかった。それでも、俺は王宮の方角に、ただ駆けていた」

「ノクト」

「黙って聞け」

「ええ」



 彼は、私の手を、自分の手で覆った。

「控室の前に着いたとき、お前は既に倒れていた」

 私の喉が、ひどく狭くなった。

 あの控室。あの絨毯。

 彼の夢が、今、私のあの瞬間と繋がった。

「お前の銀の髪が、絨毯の上に広がっていた。俺はその場から、一歩も動けなかった」

「……」

「それから二年、戦線で俺は死んだ。ヴァルダール峠ではない別の戦線だ。最後の瞬間、俺は『次は間に合わせろ』と祈った。何に祈ったのか、誰に祈ったのか、分からない。だが、目を覚ますと、お前の婚約者選定の儀の朝だった」



 温室の中の空気が、止まったように感じた。

 私の頬を、熱いものが伝った。

 拭わなかった。

 拭わなかったまま、私は、自分の側のことを語った。



「私も、同じです、ノクト」

「言え」

「あの絨毯から、目を開けたら、十六歳の自分の部屋でした」

「……」

「天井の薔薇模様。ティルダの声。鏡台の上の母の銀の櫛。あの春の朝に戻されていました」



 ノクトは、私の手を、もう一方の手でも包んだ。

 二人の手が重なって、銀の腕輪の上で、四つの指が絡まった。



 私たちが、なぜやり直せたのか。

 夢の断片は、なぜ彼にだけ残ったのか。

 あの絨毯の上で死んだ十九歳の私は、誰に祈って、十六歳の朝に戻されたのか。

 答えは、結局、二人とも持っていなかった。

 けれど、二人とも、知っていた。



 それは、《魂の縁》であったということ。

 大陸の伝承の中で、稀に語られる、運命のつがいに似た古い縁。

 私とノクトの間に、確かに、そういうものが、二度の人生を跨いで、繋がっていたということ。



「ノクト」

「言え」

「もしまた、何かの折に、私たちが死んだら」

「……」

「また、会えますか」



 彼は、しばらく、答えなかった。

 彼の血赤の瞳の奥が、わずかに揺れた。

 やがて、彼は答えた。

「会えると、俺は信じる」

「ええ」

「お前は」

「ええ。三度目があったら」



 私は、籐椅子の上で、彼の手を強く握った。

「私はあなたと、最初から、雪の礼拝堂で出会いたいですわ。婚約者選定の儀の広間でも、控室の絨毯の上でもなく、雪の礼拝堂の石の床の上で」



 ノクトは、身を起こした。

 彼の唇が、私の額に、静かに触れた。

 冷たくて、硬くて、決して震えない唇。

 それは、二度目の祭壇で誓いを封じたあの口づけと、まったく同じ温度だった。



 *



 温室の入口で、エリザがまた銀の蝶を追っていた。

 今度は両手を伸ばして、けれど、もう、握ろうとはしなかった。

 ただ、手のひらの上に、蝶が止まる場所を作っているだけだった。

 二歳の小さな手の上で、銀の蝶が一瞬、羽を休めた。

 その瞬間、エリザの瞳の奥で、銀色の輪が、もう一度、すっと走った。



 春の朝の光が、ガラス天井の高みから降りてきて、温室の白薔薇の根元を照らした。

 私は、自分のお腹の中の二人目が、また、ひと蹴り返事をくれるのを感じた。

 兄ライナスの、戦場の手のぬくもり。父侯爵の、ようやく握り返してくれた老いた手。ティルダの、皺の刻まれた背中。

 雪の礼拝堂の石の床。銀の聖水の杯。ノクトの、決して震えない手。

 そして、控室の絨毯の上で、たった一人で死んだ、十九歳のアデリーヌ・フォン・ローゼンクロイツ。

 すべてが、今、ここに、繋がっていた。



 私は、心の中で唱えた。



 私の名前は、アデリーヌ・フォン・シュヴァルツヴァルト。

 十九歳で死んで、十六歳に戻り、二十六歳の今、ここに生きている女です。



 春の朝の光が、白薔薇の根元から、温室の床の石を伝って、ゆっくりと滲んでいくように見えた。

 その滲みの先で、エリザの手のひらの上の銀の蝶が、また、淡い銀の光をひと筋、雪の樅の森の向こうへ、北の山脈の高みのほうへと、静かに送った。

 ずっと遠く、まだ眠ったままの古代魔術師の血を引く誰かが、その光を、ふと夢の中で受け取ったのかもしれない。

 その誰かの物語は、もう、私たちのものではない。

 けれど、銀の縁は、一度繋がったなら、二度と切れはしないのだ。



 ノクトの手が、私の肩に回された。

 私は、彼の肩に、頭を預けた。

 温室の外で、春の鳥が、初めての歌を歌い始めていた。



(第二十八話 了 / 全二十八話完結 / 約4,400字)



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