第二十七話 二度目の祭壇
# 第二十七話 二度目の祭壇
雪の礼拝堂は、シュヴァルツヴァルト大公領の北端、樅の森の中にひっそりと建っていた。
古い石造りの、小さな堂だった。入口の扉は飴色に磨かれた樫の一枚板、内陣の窓は曇りガラスで、夜明けの光がそこを通って、淡い銀色になって石の床に落ちる。
壁に薔薇のタペストリーは無い。シャンデリアも掛かっていない。
代わりに、内陣の柱という柱に、雪の中で咲く野花が小さな束となって括り付けられていた。先日、沿道の子どもらが私に手渡してくれたあの花だ。村々から、この日のために、わざわざ届けられていた。
控室は、堂の脇の小さな石の部屋だった。
窓は一つだけ、樅の枝を映す細い縦長の窓。床は石造りで、白い羊毛の絨毯が一枚だけ敷かれている。
私は、その羊毛の絨毯の上に立っていた。
控室の絨毯。
体の芯がほんの少しだけ冷えた気がして、私は深く息を吸った。
「お嬢さま」
ティルダが、銀の杯ではなく、銀の冠を捧げ持って近づいてきた。
母の形見の銀の冠。一周目の婚礼で、私の頭に乗っていたのと、同じ冠だった。
「お母上が、お喜びでございましょう」
「ええ。きっと」
白いドレス。
一周目は、王太子の趣味で華美に過ぎる金糸の刺繍が裾まで覆っていた。今回は、私自身が選んだ、装飾のほとんど無い銀のドレスだった。袖口にだけ、雪の野花を刺した銀糸の刺繍が一筋。それだけで、十分だと思えた。
胸元の銀糸の小さな縫い取りも、私自身が指先で一針一針入れた。婚礼の前夜、城の暖炉のそばで、ノクトが書類を読んでいる隣で、私は針を動かしていた。彼が時折、私の針の動きを横目で確かめる仕草が、ひどく愛おしかった。
胸の奥で、十九歳の私が、深く深く息を吸う気配があった。
あの控室で、私は誰の手も借りずに花嫁衣装を着付けてもらえなかった。義妹リリスの「お手伝いします、お姉さま」の声が、私の最後の支度の音だった。
今、私の支度を手伝うのは、白髪のティルダと、一周目で死んだはずのこの皺の刻まれた手だ。
私は、自分のドレスの袖口に、ほんの一瞬だけ唇を寄せた。
雪の野花の銀糸が、頬に冷たく当たった。それだけで、もう、十分だった。
扉が、軽く叩かれた。
「アデリーヌ」
兄ライナスの声だった。
ティルダが扉を開けると、ローゼンクロイツ侯爵家の家紋を肩に縫い込んだ礼服姿の兄が、深く息を吐きながら立っていた。
「父上が、廊下で泣きそうになっておられる」
「まあ」
「俺が、引き受ける役だな」
兄が、私の前に立った。
一周目で、私の言葉に耳を貸さずに後悔の中で死んだ兄。二周目で、私の最大の味方となり、戦場で私の手を取った兄。
彼の灰青の瞳が、ほんのわずかに濡れていた。
「すまない」
彼は、もう一度、戦場のときと同じ言葉を呟いた。
「いいえ、兄さま。今度こそ、ご一緒に祭壇まで歩いてくださいませ」
「ああ。今度こそ」
「お父さまには、廊下でゆっくり泣いていただいて構いませんわ。私は、もう、お父さまの涙を恐れませんから」
兄は、ほんの一瞬、不思議そうに私を見て、それから、深く頷いた。
私は、兄の腕に手を添えた。
彼の腕が、戦場のときよりもずっと細く震えた気がした。
*
堂内の参列者は、五十人ほどだった。
一周目の王宮大聖堂は、数千の貴族が席に並び、参道の両側に金細工の燭台が果てしなく続いていた。
今、目の前にあるのは、石造りの内陣に並ぶ、ほんの数列の素朴な木の長椅子。
席に着いているのは、大切な人たちだけだった。
最前列、右に父侯爵。
彼は、私が一周目で遠ざけてしまった父だった。後妻イザベラに気を取られ、私の声を聞きそびれ続けた父。けれど、二周目で、私はもう一度彼に手を伸ばし、父はその手を握り返した。今、彼の老いた肩は、堂内の冷気に震えていた。
その隣に、白髪のティルダ。
二列目に、レアンドル新王太子と王妃殿下。レアンドル殿下は王の冠ではなく、深い紺の旅装に身を包んでいた。「個人として参列したい」という彼の言葉を、ノクトは受け入れた。
左の最前列に、シュヴァルツヴァルト大公国の臣下たち。古参の老臣の頬が既に濡れていた。彼らは、ノクトを子どもの頃から知る家臣たちだった。
その後ろに、雪の礼拝堂を維持してきた小さな村の代表。子どもたちが二人、母の膝の上で行儀よく座っていた。
数千ではなく、五十。
けれど、ここにいる五十人は、私が二度の人生をかけて、この場所に呼び寄せた人たちだった。
一周目の祭壇で、私の死を見届けてくれる人は、誰もいなかった。
二周目の祭壇で、私の生を見届けてくれる人が、五十人。
数の多寡ではなく、温度の違いだった。
内陣の正面に、ノクトが立っていた。
黒の礼服に、銀糸の刺繍。腰に細身の儀礼剣。血赤の瞳が、扉の向こうから歩いてくる私を、ただ見ていた。
一周目の祭壇に立っていた金髪碧眼の王太子の姿はどこにもない。
代わりにそこにいるのは、雪と森の国の冷たい当主だった。
兄に伴われて参道を歩く私の歩幅が、礼拝堂の中央でわずかに乱れた。
石の床。羊毛の絨毯ではなく、冷たい石の床。
あの控室の絨毯とは、まったく違う踏み心地。
その違いが、私の足に、確かに「ここは違う」と告げてくれていた。
「アデリーヌ」
ノクトが、私の名を呼んだ。
兄が、私の手をそっとノクトの手に渡した。
「妹を、頼む」
「預かる」
ノクトの低い声が、堂内の静寂を震わせなかった。
兄は深く頭を下げて、左の最前列に下がった。
大公国の臣下たちと、ローゼリア王国の貴族と、雪の礼拝堂の村人と。
それぞれの席で、それぞれが息を整えていた。
*
神官が、銀の盆を運んできた。
盆の上には、銀の杯が一つ。
水晶ではなく、銀。
中身は、銀の聖水。
杯を見た瞬間、私の指が、ほんの一瞬だけ震えた。
あの控室の薄紅色の液体と、目の前の透き通った銀の聖水。
香りも、温度も、色も、ぜんぶ違う。
それでも、十九歳の私が、私の中で、ひどく深く息を吸った。
ノクトの手が、私の右手を包んだ。
冷たくて、硬くて、けれど、決して震えない手。
彼の指の温度が、私の指の震えを、ゆっくり、ひと指ずつ、止めていった。
「アデリーヌ」
彼は、唇を私の耳元に寄せた。
「これは、二度目の杯だ」
二度目の。
その響きが、私の耳の奥で、長く長く尾を引いた。
「ええ」
私は、自分の声が戻ってきたのを感じた。
「ええ、二度目の杯ですわ」
ノクトの手が、私の手を取って、共に杯の柄を握った。
二人の手で、ひとつの銀の杯を、ゆっくりと持ち上げた。
澄んだ銀の聖水が、わずかに揺れて、堂内の銀色の光を二重に反射した。
私が先に、唇をつけた。
冷たかった。
けれど、その冷たさは、あの夜の冷たさとは、質の違う冷たさだった。
雪解けの泉から汲まれた、命の冷たさ。
飲み下した瞬間、胸の奥にあった氷の塊のようなものが、初めて、温度のない水に変わって流れていくのを感じた。
杯を、ノクトに渡した。
彼が、同じ縁に唇をつけた。私が口づけた、まさにその縁に。
彼の喉が、静かに上下した。
杯を盆に戻すとき、彼の指が、ほんの一瞬、私の指の腹に触れた。
冷たい。けれど、震えない指。
その触れ方が、控室の絨毯の上で散った銀の髪を、雪の礼拝堂の石床ですくい上げてくれているかのように感じた。
控室の絨毯の上で、たった一人で死んだ十九歳の私。
二周目の礼拝堂の石床の上で、彼と杯を分かち合う二十三歳の私。
二つの私が、銀の聖水の中で、ようやく、ひとつに溶け合った気がした。
胸の奥で、長い間ずっと縮こまっていた何かが、ほどけていくのを感じた。
*
「私はあなたを最期まで離しません」
誓いの言葉を、私が先に告げた。
「私が先に死んでも、雪の下で待ちます」
堂内が、しん、と静まった。
ティルダが、白髪を震わせながら、目元を押さえた。
父侯爵が、深く深く頭を下げた。
ノクトの順番だった。
彼は、私の両手を、両手で握り直した。
「俺は」
彼の声は、いつもより少しだけ低かった。
「俺は、お前が一度先に死んだあの日を、もう一度も繰り返させない」
彼の指が、私の手の甲を、強く、痛いほどに、握り直した。
「先に死ぬのは、俺の役だ」
私の喉の奥が、ひくりと震えた。
「もし、それでも先に死ぬのなら、雪の下で待つのは、こちらだ」
堂内の誰も、言葉の意味を完全には知らない。
あの控室の絨毯のことも、夢の断片のことも、二度目の人生のことも、ここにいる五十人のうち、知っているのは私とノクトの二人だけだった。
けれど、誓いの重さは、誰の胸にも届いた気がした。
兄ライナスが、唇を結んだまま、深く目を伏せた。
神官が、二人の頭上に銀の輪を翳した。
「では、口づけをもって、誓いを封じてください」
ノクトの手が、私の頬に添えられた。
冷たくて、硬くて、震えない手。
彼の血赤の瞳が、私の氷青の瞳を、じっと、長く、見つめた。
「アデリーヌ」
「はい、ノクト」
彼の唇が、静かに、私の唇に触れた。
雪の礼拝堂の戸口から、淡雪がほんの少し舞い込んだ。
高い窓を通って、夜明けの銀の月の最後の光が、二人の重なった肩に降りていた。
堂内の参列者の誰かが、ごく小さく、息を吐く音がした。
誰の音だったのかは、私には分からなかった。
唇が離れた。
私は、目を、ゆっくりと開けた。
彼の血赤の瞳が、すぐ目の前にあった。
その瞳の奥に、私は確かに、二人分の二度目の人生の重さを見た気がした。
*
誓いの儀の後、堂の外で、ささやかな祝宴が開かれた。
ティルダが、しゃくりあげながら私の手を取って、何度も「お嬢さま」と呼んだ。
白髪の侍女頭は、私の頬に皺の刻まれた指を当てて、ようやくひと言、絞り出すように告げた。
「お嬢さま、お嬢さまは、やはり、お母上にそっくりでございますね」
母の名を、私は何年も、自分から呼ぶことを避けてきた。あの控室で母の形見の冠を頭に乗せたまま死んでから、母の名は私の中で、長く触れられない場所に置かれていた。
今、その名が、白髪のティルダの口から、ようやく、自然に呼び戻された。
私は、彼女の皺の手に、自分の手を重ねた。
父侯爵が、私の前で深く頭を下げ、最後にひと言だけ、絞り出すように告げた。
「お前を娶せて、私は今日、ようやく父になれた」
兄ライナスは、ノクトと長く杯を交わしていた。
戦場で背中を預け合った男同士の、静かな酒だった。
レアンドル殿下と王妃殿下は、村の子どもたちに混じって、堂の前の小さな広場で雪の野花を摘んでいた。
私は、堂の入口の階段に、ノクトと並んで腰を下ろした。
外套の下で、私の指が、彼の指に絡まった。
雪の樅の森の向こうで、太陽が高く昇ろうとしていた。
「アデリーヌ」
ノクトが、私の名を呼んだ。
「はい、ノクト」
「あの絨毯のことは、もう、お前の中だけに置いておけ」
「ええ」
「お前以外の誰の中にも、もう置かなくていい」
「ええ。私の中だけで、十分ですわ」
「俺の夢の断片も、いずれ、薄れていくか」
「いいえ、ノクト」
私は、彼の指を、強く握り直した。
「あなたの夢の断片は、薄れさせませんわ。私が、覚えておりますもの」
彼の血赤の瞳が、わずかに細くなった。
それは、笑みに似た、何か。
幾度見ても、私の胸の奥で、銀の鈴が鳴るような何か。
私は、彼の肩に、頭を預けた。
あの控室の絨毯の上で死んだ十九歳の私が、今、雪の礼拝堂の石の階段の上で、生きている。
冷たい石の階段越しに、自分の腿の温かさが、はっきりと伝わってくる。
冷たさと温かさを、両方同時に感じられるのが、生きているということだった。
二度目の祭壇は、毒の杯ではなく、銀の聖水で結ばれた。
今度こそ、私は、誰の代役でもなく、誰の死の踏み台でもなく、私自身の名で、彼の隣に座っていた。
樅の森の向こうから、最初の春の鳥の声が、ひそやかに響いてきた。
雪は、もう、終わろうとしていた。
(第二十七話 了 / 約4,900字)




