第二十六話 終戦と凱旋
# 第二十六話 終戦と凱旋
雪解けの音が、ヴァルダール峠の岩の隙間で鳴り始めた。
停戦協定の署名は、戦の終結から三日目の朝に行われた。
簡素な天幕の中、雪原を渡ってきた光が、地図卓に並べられた羊皮紙の上に淡く落ちていた。
左に並んだのは、ローゼリア王国の特使と、新王太子レアンドル殿下の代理。中央に大公国の当主ノクト。右に、メルクリウス帝国の特使と、私が初めて顔を見る皇帝レックス本人。
皇帝は、思っていたよりも若かった。三十を少し過ぎたほどの、黒髪の生真面目そうな男だった。瞳の色は深い緑で、宰相と軍部に振り回されてきた者の、独特の疲労が顔の輪郭に残っていた。
「白百合部隊は、本日付で解散」
皇帝が、自らの声で読み上げた。
「諜報網の名簿、および古代魔獣兵召喚術式に関わる文書の一切を、ローゼリア・大公国両国に開示する」
羊皮紙の文字が、ノクトの目の前で乾いていく音さえ聞こえそうな静けさだった。
「賠償金については、五年の分割にて支払う。ヴァルダール以南二十里を、両国共同管理の緩衝地帯とする」
皇帝はそこまで読み終えると、言葉を止めて、ノクトを見た。
「シュヴァルツヴァルト大公」
「何だ」
「我が宰相は私の幼少より仕えた男だ。私はその男に、長く嘘をつかれていた。恥ずべきことだ」
「皇帝の弁明としては、軽い」
「軽い、と承知している」
「自国の臣下を制御できない君主は、戦の前にまず自国の城下を見直すべきだ」
ノクトの低い声が、天幕の縫い目を震わせなかった。
皇帝の口元が、苦そうに歪んだ。
「重い言葉だ」
「重いと承知の上で、私は申し上げている」
皇帝は深く頭を下げた。冠を頂いたまま、頭を下げた。
帝国の正史に、これまで一度もなかった姿だった。
「だが、軽いと承知の上で、私は頭を下げる。私の名で侵略を許した代償は、私の名で払う」
ノクトはしばし沈黙し、それから羽根ペンを取った。
彼の署名が、羊皮紙の上で、銀の冬の終わりを綴った。
ペン先のかすかな引っ掻き音が、天幕の中で、思いのほか長く尾を引いた。
その音を、私は外套の中で深く息をしながら聞いていた。
あの控室の絨毯に染みていく薄紅色の音。雪原に倒れた兄の鎧の音。それらと、まったく違う音だった。
今、私の耳に届いているのは、終わりの音だった。
*
協定の場の隅で、私はティルダの隣に立っていた。
帝国側の文官の中から、若い書記官が一人、おずおずと私のほうを見ていた。
彼は皇帝の合図を受けて、こちらに歩み寄り、深々と腰を折った。
「お初にお目にかかります、シュヴァルツヴァルト大公妃殿下」
「妃ではなく、まだローゼンクロイツ侯爵令嬢ですわ」
「失礼致しました。ですが、我が国では」
書記官は、震える声で続けた。
「あの夜、ヴァルダールで雪原を覆った銀の光を、兵たちが『銀の聖女の御業』と語っております」
私の頬が、ほのかに熱くなった。
「お聞き間違いですわ。私は、ただの侯爵令嬢ですもの」
「ですが」
「ですが、ではございません」
私はゆっくりと首を振った。
「私が雪原で銀の光を放ったのは、聖女の力ではありません。クロイツ家に元から流れていた古い血が、ようやく私の中で目を覚ましただけのこと。聖女と呼ぶには、私はあまりに人間ですわ。お返事は、お控えくださいませ」
書記官は深く頭を下げて、下がっていった。
帝国の特使が、苦笑のような表情で皇帝を見て、皇帝が、わずかに頷いた。
彼らの間で、《銀の聖女》という呼び名が、これからどう転んでいくのか、私にはまだ見えなかった。
ティルダが、背中越しに、ほんの小さな声で囁いた。
「お嬢さま。あの呼び名、すぐには消えませんよ」
「ええ。承知しております」
「お嬢さまが、この呼び名で召喚されないようにすることが、今度の私の仕事でございますね」
白髪の侍女頭の口元に、ほんの一瞬、悪戯っぽい皺が刻まれた。
一周目の控室の前で殺された、あの侍女の、戦の終わりの笑い方だった。
私は、彼女の手をそっと取って、頷きだけを返した。
*
その夜、本陣の天幕でノクトと向かい合って夕食を取った。
戦の終わりの夕食はいつも静かだ。塩漬けの肉と、湯気の立つ豆の煮物と、雪解け水で淹れた麦の粥。それでも、生きて食べられるということが、これほど贅沢なのだと、私はようやく知り始めていた。
杯に湯気の立つ温かい蜂蜜酒が注がれた。
ノクトが私を見た。
「《銀の聖女》だそうだな」
「お聞きになりましたのね」
「南の街道筋まで、もう噂が回っている」
私は杯を両手で包んで、湯気を見つめた。
「ノクト。私は、聖女ではありませんわ」
「分かっている」
「私は、絨毯の上で死んだ女ですもの。聖女と呼ぶには、心の中が冷たすぎますの」
彼の血赤の瞳が、じっと私の顔を見ていた。
「お前は、二度の人生で、二度自分の名を取り戻した」
ノクトは、淡々と言った。
「それで十分だ」
杯の縁に唇をつけたまま、私はしばらく動けなかった。
二度の人生で、二度自分の名を取り戻した。
あの控室の絨毯の上に置き去りにされた、十九歳のアデリーヌ・フォン・ローゼンクロイツ。婚礼前の朝に毒の杯を渡された侯爵令嬢。
その名を、私はもう一度、自分の手で握り直した。
《銀の聖女》とどこかで呼ばれてもいい。けれど、私を私と呼ぶ声は、ただ一つで足りた。
「アデリーヌ」
彼が、もう一度呼んだ。
「はい、ノクト」
「凱旋の式の段取りについて、王宮から書状が届いている」
「拝見致しますわ」
卓に置かれた書状を取り、私は文面に目を通した。
ローゼリアの新王太子レアンドル殿下からのものだった。
《貴国の大公とローゼンクロイツ家の令嬢を、ローゼリア王国の英雄として王宮広間にお迎えしたい》
《また、両者の婚礼につきましては、ご希望に従い王宮大聖堂ではなく、シュヴァルツヴァルト大公領にて執り行うこと、王家正式に承認致す》
《我が国の祭壇は、もはや令嬢を迎えるに値する場ではないと、王家として深く反省している》
最後の一行に、私は目を伏せた。
王宮大聖堂。
あの控室の隣にあった、白薔薇のタペストリーで飾られた祭壇。
あの場所で、もう一度、私の婚礼が行われることはない。
誰よりもそれを認めてくれたのは、王家のほうだった。
「レアンドル殿下に、感謝の返書を差し上げますわ」
「俺の名でも添えておけ」
「ええ」
ノクトの杯と私の杯が、軽く触れ合った。
澄んだ音が、雪解けの天幕の中で、長く尾を引いた。
彼の血赤の瞳が、湯気の向こうで、私の目をじっと見ていた。
「アデリーヌ」
「はい、ノクト」
「《銀の聖女》と、雪原の村の子の言う《銀のおねえさん》。お前は、どちらに呼ばれたい」
私は、ほんの少しだけ考えてから、答えた。
「どちらにも、呼ばれずに済むのが理想ですけれど、もし選ばなければならないなら、《銀のおねえさん》のほうですわ」
「理由は」
「聖女と呼ばれると、私は祭壇の上の人になりますもの。あの祭壇に、もう、私は戻りたくありませんわ」
ノクトの目元が、ほんのわずかに、和らいだ。
「次の祭壇は、雪の礼拝堂だけだ」
「ええ」
「あれは、お前のための祭壇だ」
その言葉に、私はゆっくり頷いた。
杯の湯気が、二人の間で淡く立ちのぼっていた。
*
ローゼリア王宮、凱旋式は雪解けの最初の春の日に行われた。
王宮広間に絨毯が敷かれ、両国の旗が並び、新王太子レアンドル殿下と、王太子妃となった控えめな伯爵令嬢が並んで席に着いていた。広間に集まった貴族の数は、私が一周目に祭壇に上がった日よりは少なく、しかし、二周目で婚約者選定の儀に臨んだ日よりは、ずっと多かった。
ノクトの隣に立って絨毯の上を歩いていく途中、私の目の端に、見覚えのある絨毯の縁の刺繍が映った。
白薔薇。
胸の奥が、一瞬だけ縮んだ。
けれど、それは縮んだだけで、もう倒れなかった。
私の指は、ノクトの腕に静かに添えられていた。冷たくて、硬くて、けれど、決して離れない腕。
「ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ」
レアンドル殿下が、私の名を呼んだ。
「ヴァルダール峠における銀の光の御業、ローゼリア王国は永く忘れぬ」
「殿下、過分なお言葉ですわ」
「シュヴァルツヴァルト大公ノクト。卿の剣がなければ、我が国は今日この場にはなかった」
「謝意は、共に戦った両軍に」
「卿らしい返答だ」
殿下が、笑った。一周目の王宮で、私が彼の笑顔を見た記憶はほとんどなかった。
あの頃の彼は、兄であるヴィクトールの陰でただ本を読んでいる弟だった。
今、王太子の冠を頂いた彼は、私と兄ライナスに、新しい時代の挨拶をしてくれていた。
式の終わり、レアンドル殿下が広間に向けてはっきりと宣告した。
「シュヴァルツヴァルト大公とローゼンクロイツ侯爵令嬢の婚礼は、当国王宮大聖堂ではなく、大公領の雪の礼拝堂にて執り行う。これは、ご令嬢ご自身の選択を、王家として全面的に支持するものである」
広間の空気が、わずかに揺れた。
古い貴族の中には、王宮大聖堂以外で王家所縁の婚礼が行われることを、まだ受け入れられない者もいる。けれど、誰の口からも、不平の声は上がらなかった。
ローゼリアの祭壇は、まだ私を呼べない。それを、誰よりも貴族たちが知っていた。
広間の隅で、兄ライナスが、深く頭を下げてくれた。
彼の隣に、父侯爵が並んで立っていた。
一周目では二度と並ぶことのなかった、この親子の姿を、私はじっと見つめた。
式のあと、父が一人、私のところへ歩み寄ってきた。
何か言おうとして、結局、言葉を選びきれずに口を閉じる。その様子を、私はしばらく黙って見ていた。
赦した、とは言えなかった。今も、言えない。
けれど、言葉を探して立ち尽くす父の姿を、以前のように顔を背けずに見ていられる自分に、私は気づいた。
赦しではない。ただ、憎しみだけで見ていた頃より、少しだけ、視界が広くなっただけのことだった。
「お父さま」
私から声をかけると、父の肩が、目に見えて緩んだ。
胸の奥で、十九歳の私が、ようやく長く息を吐いた気がした。
*
帰路、馬車の中で、私はノクトの隣に並んで雪景色を見ていた。
ローゼリアから大公領まで、馬車で六日。沿道の村々では、人々が雪解けの中、手に小さな銀色の野花を握って馬車を見送ってくれた。野花は、雪の合間にだけ咲く小さな星のような花だった。
ある村で、子どもが私に向かって声を上げた。
「銀のおねえさん、ありがとう!」
私は窓を開けて、子どもに手を振った。
馬車の中で、ノクトが小さく笑った気がした。
「銀のおねえさん、だそうだ」
「《銀の聖女》から少しは降格しましたのよ。これくらいで、ちょうどよろしいですわ」
ノクトの肩が、少し揺れた。
彼が笑うのを、私はまだ片手の指の数ほどしか見たことがない。けれど、その片手の指の数は、年々確実に増えてきていた。
馬車の窓外、雪解け水の小川がきらきらと流れていた。沿道の柳の枝が、新芽の銀緑色を覗かせていた。
ノクトが言った。
「あの控室のことは、もう、思い出すか」
「ええ、ときどき」
「言え」
「色は、薄紅でしたわ。水晶の杯」
「今度の杯は、銀だ」
「ええ。銀の杯ですわ」
「中身は」
「銀の聖水を、礼拝堂の井戸から汲むのだとか。神官さまから先日、ご教示いただきました」
彼の血赤の瞳が、私の横顔を、長く、静かに見ていた。
馬車の揺れに合わせて、私の銀の髪が、彼の肩に少しだけ触れた。彼は、その髪を払いもせず、ただ受け入れていた。
日が傾き、雪原の遠くに大公領の山並みが見えてきた頃、ノクトは窓外の白い稜線を指さした。
「あの稜線の麓に、雪の礼拝堂がある」
「ええ。覚えておりますわ」
「次に祭壇に立つのは、お前だ」
彼の声は、淡々としていた。
私は窓外の稜線を見たまま、唇を緩めて答えた。
「ええ。今度は、毒杯ではなく聖水ですわね」
ノクトが、ゆっくりと私のほうを向いた。
血赤の瞳の奥が、わずかに細くなった。
それから、彼は何も言わずに、私の手の甲に自分の手の甲をそっと重ねた。
冷たい手だった。けれど、もう、震えてはいなかった。
二人だけの、静かな笑いが、馬車の中に少しの間だけ満ちて、雪原の風に溶けていった。
窓外、夕暮れの最後の光が、稜線の向こうに沈んでいった。
その光の最後の一筋を、私は両眼に焼き付けるように見つめていた。
二度目の祭壇は、もうすぐ目の前にある。
今度こそ、私は、自分の足でそこに立つのだ。
(第二十六話 了 / 約4,900字)




