第二十五話 戦地の覚醒
# 第二十五話 戦地の覚醒
北の国境で目覚めかけていたものが、ついに、その姿を現そうとしていた。
六年間くすぶり続けた両国の緊張は、今夜、ヴァルダール峠での本格的な激突として動き出そうとしている。
ヴァルダール峠の夜は、雪と血の匂いがした。
北方国境を分かつ岩の屏風の上に、メルクリウス帝国の旗が並んでいた。黒地に金の双頭鷲が、月のない空の下で黒く滲んでいる。その手前、雪原に深く塹壕を掘ったローゼリア王国軍とシュヴァルツヴァルト大公国軍の篝火が、無数の橙の点となって連なっていた。
私はその篝火の連なりを、本陣の天幕の入口から見下ろしていた。
「お嬢さま、お風邪を召されますわ」
肩に毛皮の外套を掛けてくれたのは、白髪のティルダだった。彼女がここまで付いてきたのは、私がどうしても止められなかったからだ。
大公の伴侶となる者として戦場に同行する。それは大公国の伝統には沿わない振る舞いだった。けれど、ノクトはひと言、「連れて行く」とだけ言った。
「お前の瞳が要る場面が、今度は来るかもしれない」と。
私は、頷いた。
「ティルダ、ありがとう。でも、もう少しだけここで見ていたいの」
「では、せめて杯を」
差し出された銀の杯には、湯気の立つ蜂蜜酒が満たされていた。
唇をつけてから、ふと喉が詰まった。
杯。湯気。湯気の奥にある甘い香り。
あの控室の薄紅色の液体と、まったく違う匂いだと、私は何度も自分に言い聞かせなければならなかった。
あれから、長い道を歩いた。
婚約者選定の儀の朝から、約七年。
義妹リリスは公開裁判の末、王都北の地下石牢に幽閉された。元婚約者ヴィクトールも、廃嫡されたまま北の塔で生涯を終える身だ。後妻イザベラは離縁され、レーヴェン枢機卿は失脚し、レアンドル殿下が新王太子として立てられた。
ローゼリアの祭壇は、もう私を毒では呼ばない。
けれど、私たちが穏やかに眠れる日は、まだ来ていなかった。
メルクリウス帝国は、義妹の捕縛を「白百合部隊員の不当拘束」と歪めて宣戦布告した。その本心が領土と魔脈であることは、戦線に立つ全ての貴族が察していた。
そして、この峠こそが、その最前線だった。
ヴァルダール峠。
一周目の私が、十九で死んだ二年後の冬、兄ライナスが戦死した戦線。
あのとき、紙片は侯爵邸の朝の食卓に届いた。義妹に成り代わられた偽物の私が、何の感慨もなく茶碗を口に運んでいた。その光景は、あの死の間際に見た欠片の中にあった。誰かに聞かせてもらった話ではない。けれど、その紙片の冷たさだけは、はっきりと覚えていた。
あの紙片は、二度と来させない。
誰の朝の食卓にも、誰の祭壇にも。
「お嬢さま」
ティルダの声が低くなった。
私が振り返るより早く、天幕の入口の幕が一気にひるがえった。
黒い軍服。血赤の瞳。雪と硝煙の匂いを纏ったまま、ノクトが入ってきた。
「敵が動いた」
彼の低い声に、本陣全体が引き締まる音がした。地図を広げた卓に、参謀の伯爵たちが寄ってくる。私はノクトの背の後ろに立ち、視線だけで卓を覗いた。
「中央に氷竜、左翼に闇狼、右翼に鋼の蜘蛛。古代魔獣兵だ」
「皇帝レックスは、本気で大陸を割る気のようですわね」
私の口から、自分でも乾いた声が出た。
ノクトの視線が一瞬だけ私に流れた。
血赤の瞳の奥に、いつもの「お前は下がっていろ」という色は、もう見えなかった。代わりにあったのは、「下がらなくていい」と告げる眼差しだった。
二人で大公領で冬を過ごした夜から、彼の眼差しは少しずつ変わってきていた。私を守る、ではなく、共に立つ、と告げる眼差しに。
「兄上は」
「ローゼンクロイツ騎士団は左翼に展開済みだ。闇狼を引き受けてもらう」
左翼。
私の指が、卓の地図の縁を強く撫でた。
兄ライナスは、あの一周目で、左翼の第三梯団の包囲下で落ちた。第三梯団。鞍上で兄が最後に振った剣の角度まで、私の中の十九歳の女は覚えていた。
「ノクト」
「言え」
「兄さまの担当は、闇狼の三梯団でなく、二梯団に変えられませんこと?」
参謀の幾人かが、咎めるように私を見た。
けれど、ノクトは私の目を見て、ひと呼吸の間で、はっきりと頷いた。
「変える。理由は問わない」
「ありがとう存じます」
私は深く頭を下げた。
胸の奥で、十九歳の私が、十六歳の私が、そして二十三歳の私が、同時に肩を強張らせていた。
あの紙片は、二度と来させない。
*
夜半、最初の鬨の声が雪原に上がった。
古代魔獣兵が動き出すと、戦場の音は人の戦のものではなくなった。氷竜の咆哮は天幕の縫い目を震わせ、闇狼の遠吠えは骨の芯を冷やし、鋼の蜘蛛の脚が雪を踏む音は、何百もの剣をいっぺんに研いでいるように響いた。
「アデリーヌ」
ノクトが私の名を呼んだ。出陣の号令の代わりに。
「《見極めの瞳》を頼む」
「ええ。お任せくださいませ」
私は本陣の中央、銀の磁針盤の上に手を置いた。
磁針盤は、クロイツ家の血脈の者だけが起動できる古代の道具だ。盤の表面に、戦場の魂の流れが、銀の光の筋として浮かび上がる。
目を閉じて、深く息を吸う。
胸の奥に、銀の光が滴る感覚があった。
光が背骨を伝って、両眼の裏側に集まる。
目を、開いた。
視界が、変わった。
雪原の地形は薄く透けて、その上に、無数の銀色の流線が走っていた。一本一本が、人の魂、獣の魂、そして魔獣兵の核となる古代の魂の筋。
大公国軍の流線は、深い藍。ローゼンクロイツ騎士団の流線は、銀色がかった青。帝国軍は、濁った臙脂。古代魔獣兵だけは、人とは違う、黒く渦を巻く核を持っていた。
「左翼」
私は呟いた。
「闇狼の二梯団、東に旋回。ローゼンクロイツ騎士団、第三波で受けます」
伝令官が走った。
磁針盤の光が、私の声と同期して脈打っていた。
戦場の流れが、刻一刻と書き換わっていく。
中央の氷竜の咆哮が、大公国軍の盾衛を一つ砕く。すぐにノクト直率の黒鉄騎兵が回り込んで、咆哮の合間に氷竜の喉に刃を立てる。右翼では、鋼の蜘蛛の鋏脚が王国弓兵の列を裂きそうになる手前で、罠の落とし穴が連鎖する。
いずれも、私の磁針盤に「次の三歩先」が銀の筋として浮かんでいた。
しかし、左翼で異変が起きた。
「兄、上……」
声が、勝手に喉から漏れた。
磁針盤の銀の筋の中で、兄ライナスの青い流線が、急に細くなった。
闇狼の二梯団は退いたはずだった。けれど、その後ろの茂みから、別の流線が湧き上がっていた。臙脂よりも濃い、濁った闇色の渦。
梯団より小さい、けれど、強い。
白百合部隊の残党。義妹リリスを失った彼らが、最後の見せ場として、兄を狙ったのだ。
あの日と、まったく同じ角度。
兄の鞍上の傾きも、剣を振る腕の高さも、私の十九歳の中の女が「これは見たことのある絵だ」と告げてくる。
既視感の冷たさが、磁針盤の磁針より先に、私の胸の真ん中を突き刺した。
兄の青い流線が、闇に飲まれかけている。
包囲の形だ。一周目と、同じ形。
「行きます」
私は磁針盤から手を離した。
「お嬢さま!」とティルダが、私の袖を掴もうとして、その手を宙で止めた。
ノクトはもう発っていて、本陣にいるのは私とティルダと、最後の伝令と、護衛の兵だけだった。
馬を引きなさい、と私は伝令に告げた。
「夫の許しは、出陣のとき既にいただいております」
ノクトの「下がらなくていい」眼差しに、私は今、賭ける。
*
雪を蹴って、馬は飛んだ。
外套が雪片に叩かれて鳴る。耳の奥で、磁針盤の脈動が続いていた。私の胸の奥にも、同じ脈が響いている。クロイツ家の血脈の音だ。
左翼の闇狼の二梯団を抜けると、目の前に、まさに包囲の形があった。
兄ライナスが、銀色の馬上で、剣を握ったまま膝をつきかけていた。彼を取り囲むのは、黒装束の人影。十二、十三、いや十四。白百合の紋様が肩に縫い込まれている。
「兄さま!」
兄が顔を上げた。
兄の灰青の瞳が、雪と火の中で、信じられないものを見るように見開かれた。
「アデリーヌ……お前、なぜ」
「兄さまをここで死なせるためでは、ありませんわよ」
私は鞍上から両手をかざした。
雪原に、銀の光が、私の指先から扇のように広がった。
古代魔術。
《見極めの瞳》だけではない。
クロイツ家の血脈に眠っていた、魂を直接掴む術。
六年かけて、ノクトと共に、北の図書庫の禁書を読み解き、私の中の血が思い出していた力。
扇のように広がった銀の光は、白百合部隊員の身体ではなく、彼らの魂の核に触れた。
影の中から、悲鳴のような気配が立ち上った。武器を取り落とす者、膝をつく者、闇に飲まれた目から濁った霧が引いていく者。
私は、彼らの命を奪うのではなく、彼らに憑いていた帝国の禁呪――古代魔獣兵に魂を縛り付ける術式の鎖――を解いた。
縛りが解けた瞬間、白百合の彼らはただの人間に戻った。戦場で見るその顔は、ひどく若かった。
兄が、私を見ていた。
剣を構えたまま、けれど、振り下ろすのを忘れたまま。
兄の灰青の瞳が、雪の照り返しの中で、ひどく濡れていた。
あの一周目で、彼が紙片を受け取って息子の死を悔やむ前に、彼自身が紙片の側になってしまった戦場。
今、その兄の前で、生きた妹が銀の光を扇のように広げている。
兄の喉が、何度か上下した。声を出そうとして、それでも、出せない様子だった。
「兄さま」
私は馬を寄せて、兄に手を伸ばした。
「もう一度だけ、立ってくださいませ。私は、兄さまを二度死なせはしませんから」
兄の喉が、上下した。
一周目で、私の言葉に耳を貸さなかった兄。義妹を疑う私を「妹を悪く言うものではない」と叱った兄。
その兄が、血の付いた手で、私の手を強く取った。
「すまない、アデリーヌ」
声が、震えていた。
「お前の言葉を、もっと早く信じていれば」
「いいえ。今、信じてくださっておいでですわ」
「ああ。今は、信じている。お前の言うとおりにする」
涙の代わりに、兄の頬を雪が滑り落ちた。
私の頬を滑り落ちたのも、雪だったのか涙だったのか、自分でもわからなかった。
*
磁針盤越しに私の動きを見ていたノクトは、自ら本陣を捨てて、敵の中央を貫いた。
左翼の異変に呼応して敵中央の連繋が乱れた瞬間、彼の黒鉄騎兵は氷竜を切り裂き、その勢いのまま、敵本陣まで雪原を蹴り抜けた。
あとで聞いた話では、彼が氷竜の喉に刃を立てた瞬間、磁針盤の銀の筋の中で、私の流線と彼の流線が、初めて、二本の銀の縄のように撚り合わさったらしい。本陣の奥で磁針盤を見ていた老臣の一人が、震える声で「あれが古代魔術師の縁の糸だ」と呟いたという。
メルクリウス皇帝レックスの天幕の前に、ノクトの剣が突き立った。
夜が明ける前に、白旗が立った。
帝国の特使が雪を踏んで本陣に来た。停戦交渉の申し入れだった。皇帝は、自らは「知らされていなかった」と弁明し、宰相と軍部の独走として彼らの首を差し出すと申し出た。
地図を挟んでノクトと向かい合った特使の顔は、夜のない人のように青ざめていた。
私は本陣に戻り、磁針盤の前に座っていた。
磁針盤の銀の光は、もう脈打っていなかった。戦場の流線は、雪原の表に静かに沈んでいた。
兄が、扉のところに立っていた。
「アデリーヌ」
「兄さま」
「礼を言うのは、戦が終わってからにする」
「ええ。生きて、礼を言ってくださいませ」
兄は深く頭を下げて、出ていった。
天幕の外で、夜明けの光が雪原を撫で始めていた。
ノクトが入ってきた。雪を払いながら、静かに私の隣に膝をついた。
「お前、跳ね出しただろう」
「ええ」
「次は、出る前に俺に言え」
「ええ。次は、必ず」
彼の血赤の瞳に、ほんの一瞬だけ、笑みに似た光が宿った。
「銀の光が雪原を覆ったとき、敵中央が震えた。お前の魔術が、戦そのものを動かした」
「兄さまを、二度死なせなかっただけですわ」
「それでいい」
「ノクト」
「言え」
「あの紙片が、二度と、誰の朝の食卓にも届かないのなら、それで良いのですわ」
彼は、答えなかった。
答えの代わりに、私の額に、自分の額を、ほんの一瞬だけ重ねた。
それは、誓いの口づけよりも、ずっと素朴な仕草だった。
戦場の天幕の中、銀の聖水も、白薔薇も、神官の祝詞も無い場所で、私たちはただ、生き残ったということを、額の温度で確かめ合っていた。
ノクトの冷たい指が、私の頬の雪片を払った。
あの控室で死んだ十九歳の女の頬には、誰の指も触れずに終わった。
今の私の頬には、彼の指がある。
私は目を閉じて、その指の冷たさを、長く長く頬で感じていた。
窓外、ヴァルダール峠の雪が、夜明けに静かに白く染まっていった。
(第二十五話 了 / 約5,000字)




