第二十三話 宣戦布告
# 第二十三話 宣戦布告
立太子の儀から十日も経たないうちに、メルクリウス帝国の使者が、両国の国境に同時に現れた。
帝国皇帝レックスの紋章――黒地に金の双頭鷲――を掲げた使節団は、ローゼリア王国国境の砦と、シュヴァルツヴァルト大公国の北西国境の砦に、まったく同じ文面の親書を投擲した。
その親書は、それぞれの国の早馬で、二日後にはレアンドル新王太子と、ノクト大公の手元に届いた。
文面は、儀礼的な前置きをほとんど省いた、剥き出しの脅迫文だった。
〈我が忠実なる白百合部隊士官カイラ嬢、ならびに親愛なる養女リリスを、即時、メルクリウス帝国に返還せよ。期限を一ヶ月とする〉
〈期限内に応じざる場合、我は両国に対し、皇帝の名において宣戦を布告する〉
*
親書が届いた夜、私は王宮の小広間で、レアンドル王太子とノクト、兄ライナス、王宮序列上位の重臣たちと共に、その文面を読み上げる場に立ち会った。
暖炉の火だけが、室内を照らしていた。
誰一人、声を上げて驚かなかった。すでに想定の範囲だった。
ただ、レアンドルの灰青の瞳が、文末の「期限を一ヶ月とする」の一行で、わずかに長く止まった。
文末には、レックス皇帝の血印が押されていた。黒地の羊皮紙に滲む鮮やかな赤が、夜の暖炉の火を反射して、生き物のように見えた。
使者の口上書には、ご丁寧に「リリス・フォン・ローゼンクロイツ嬢を皇帝陛下は実娘の如く愛しておられる」という一文まで添えられていた。実娘の如く、という一語が、白百合部隊の任務を再確認する暗号でもあることを、私はもう知っていた。冬の国境でノクトが捕縛したカイラ司令官の自白の中に、その符牒は出てきていた。
帝国は、リリスを返せ、と本気で言っているわけではなかった。リリスを口実に、戦端を開きたいだけだった。
「拒否、ですね」
レアンドルが、低く言った。
「カイラもリリスも、帝国の正規士官にも準士官にも当たる立場にない。両人とも、一国の主権内で行われた裁判を経て、合法に拘束されている。これを返還することは、王国の司法主権そのものを否定することになる」
「同意する」
ノクトが、暖炉の脇から答えた。
「シュヴァルツヴァルトも、同じ判断だ。カイラの身柄は大公国軍法廷の収監下にある。これも返還しない。返答は、両国同時に、明日の朝の早馬で」
席の重臣たちが、深く頷いた。
誰も、戦争を喜んではいなかった。けれど、誰一人、屈する選択肢を口にしなかった。
ヴィクトール時代であれば、おそらくこの広間の半分以上は、密かに「リリスだけは返してやれば」と耳打ちしていただろう。
二度目の王宮には、その声がもう、なかった。
「アデリーヌ嬢」
レアンドルが、私の方を見た。
「両国共同の戦線になります。あなたは、どうされる」
私は、暖炉の火を見つめてから、答えた。
「私は、シュヴァルツヴァルト大公国軍の本営に同行します」
声は、思っていたよりずっと低く出た。
「私には《見極めの瞳》があります。完全に覚醒したわけではありませんが、敵の魂の歪みを読む程度のことは、すでにできるようになりました。古代魔術師クロイツ家の最後の血脈として、戦線に出ないという選択肢は、もうありません」
レアンドルが、何か言いかけた。
けれど、その口許の動きを、ノクトの低い声が引き取った。
「俺が、彼女を守る」
短く、それだけだった。
その一語で、広間の全員が、それ以上の議論を畳んだ。
*
帝国の親書が示した一ヶ月の期限のうち、半分は両国の軍備再編に費やされた。
ローゼリア王国軍は、北部国境ヴァルダール峠に主力を配置することを決めた。
シュヴァルツヴァルト大公国軍は、北西国境から東に大きく回り込み、ヴァルダール峠でローゼリア王国軍と合流する。両国軍の合同陣営として、雪の峠に春の終わりの陣が敷かれることになった。
ヴァルダール峠。
その名を、私は黙って受け止めた。
一度目の人生で、兄ライナスが死んだ場所だった。
ローゼンクロイツ侯爵邸の書斎で、地図を広げる兄の前に立って、私は告げた。
「兄さま。ヴァルダール峠の北側、低い谷を辿って奇襲が来ます。風向きが朝に変わる日に、必ず」
兄は、地図から顔を上げた。
「アデリーヌ、なぜそれを」
私は、答えなかった。
ただ、地図の北の谷の上に、自分の指を一度だけ置いた。
兄は、しばらく私の指先を見ていた。
それから、深く頷いた。
二度目の兄は、もう私の言葉を疑わなかった。
書斎の壁の銀燭台の炎が、地図の上で揺れた。羊皮紙の北谷の輪郭の上に、私の指の小さな影が一度落ちて、すぐに退いた。それだけのことが、この戦線の何百人かの命を、もしかしたら救うかもしれなかった。
覚えているだけ、伝えるだけ。手を汚さない流儀のまま、二度目の私は、戦の地図にも、わずかにだけ触れた。
「分かった。北谷に伏兵を置く。お前の指で示された場所に」
「兄さまを、二度死なせない」
声は、自分でも驚くほど低く出た。
一度目の人生で、兄は、まさにこの北の谷から差し向けられた帝国軽騎兵の一隊に、本陣の側面を切り裂かれて死んだ。報告書が侯爵邸に届いたのは、あの祭壇から二年ほど後のことだったという。もっとも、そのころの「私」は義妹に成り代わられていた身代わりで、兄の死をただの遠い訃報として受け取っただけだった。十九歳で死んだ本物の私は、その正式な報告書を読むことさえできなかった。
けれど、死の間際に見たあの欠片の中でだけは、なぜかその谷の名と、風の向きと、伏兵を置くべき岩棚の位置だけが、ひどく鮮明だった。ほかの何もかもが霧の向こうにあるのに、兄の死だけは、どうしても手放せなかったからかもしれない。
二度目の私は、その欠片を、覚えているだけのことを、するだけだった。
兄が、初めて困ったように笑った。
「アデリーヌ、お前」
「言葉どおりです」
私は、それだけ答えた。
兄は、それ以上問わなかった。
書斎の窓の向こうで、王都の街並みが、初夏の白い光に縁取られていた。
*
出陣前夜、私はシュヴァルツヴァルト大公国の野営地、ノクトの天幕にいた。
雪解けの北部高地に張られた、黒い大公旗の天幕。
外には焚き火の音、見張りの歩哨の足音、馬の遠い嘶き。明朝には、両軍がヴァルダール峠の本陣へと最終進軍を始める。
ノクトは、地図を広げた机の前で、長い髪を後ろに払いながら、最後の伝令の書状に目を通していた。
黒い軍装の肩に、銀の縁取り。腰に佩いた剣は、もう祝祭用ではなく、実戦用の重い長剣だった。
「ノクト」
私は、彼の机の脇に立った。
彼が顔を上げた。血赤の瞳に、ランプの火が低く映った。
黒い軍装の襟元のホックは、まだ外れたままだった。机の隅には、地図の上に置かれた一枚の小さな書付。私が来るまでの彼の作業の名残だった。
「眠れないか」
「眠るために来たのではありません」
私は、自分の左手の腕輪に触れた。
銀の腕輪。シュヴァルツヴァルト家に代々伝わる、当主から伴侶へ贈られる魂の縁の証。半月前に、ノクトが私の腕に着けた。
その腕輪に、私は唇を寄せた。
古い儀礼の所作だった。シュヴァルツヴァルトでは、戦の前夜、伴侶が腕輪に唇を寄せて誓いを立てる風習があった。
「私は」
息を吸った。
「二度目の人生を、あなたと終わらせると、誓います」
ノクトの瞳が、静かに、けれど確かに動いた。
「今度こそ、最後まで」
私の声は、震えなかった。
最後まで、と告げたのは、私の意思だった。
ノクトは、机から立ち上がった。
長い指が、私の腕輪に触れた。指の温度が、銀越しに、私の脈に届く。
彼は、しばらくその指の感触の中で、何かを探していた。
やがて、言った。
「俺もだ」
血赤の瞳が、私を捉えた。
「一度目の俺は、お前を救えなかった。北の野営地で控室の急報を受け取り、間に合わなかった俺だ。それから二年後、兄上と同じ北の戦地で死ぬまで、夢の中で何度もお前の銀の髪を見ていた」
彼の指が、私の頬に動いた。
「二度目の俺は、お前と共に死ぬか、共に生きるかのどちらかだ。それ以外の終わり方を、俺は許さない」
私は、頷いた。
頬の上の彼の指の温度は、ランプの火よりも低く、けれど確かに人の温度だった。
ノクトの腕が、私の肩に回された。
黒い大公の外套に、銀の髪が埋もれた。
唇が、額の上に落ちた。
それから、目尻に。
最後に、唇の上に、ほんの一瞬。
深いものではなかった。けれど、最後まで生きると誓った夜の口づけは、深い必要などなかった。
「行こう」
ノクトが、低く言った。
私は頷いた。
彼の腕の中で、私はもう一度、自分の左の腕輪に触れた。あの控室で死んだ十九歳の私の指の冷たさを、思い出そうとして、思い出せなかった。二度目の手は、もうあの冷たさを覚えていなかった。代わりに、ノクトの外套の襟元の温度を、皮膚が覚えていた。
それで、よかった。
天幕の入口に立つと、外の焚き火の煙が、北の空へ細く昇っていくのが見えた。
夜空には、薄く、雲がかかっていた。
雪の予報は、当たっていた。
明け方には、ヴァルダール峠に、季節外れの雪が降り始めるだろう、と斥候が告げていた。
ノクトの背に手を添えて、私は天幕の入口の布をくぐった。
外の冷気が、銀の髪に絡んだ。焚き火の橙が、彼の血赤の瞳の上で一度だけ揺れた。明日の角笛が鳴る前の、二人だけの夜の景色。私はその景色を、しばらく目に焼き付けた。
お母さま、と、心の中だけで呼んだ。
二度目の私は、ここまで来ました。
あとは、最後まで。
雪が、北の山の稜線から、ゆっくりと降りてきていた。
明け方の角笛の音は、もう、遠くではなかった。
*
夜明け前、両軍が動いた。
白く凍った息が、騎士たちの鎧の上で粉になって舞った。蹄鉄の音、銅鑼の音、号令の声。長い行軍の列が、北部高地から雪のヴァルダール峠へと、白い帯のように進んでいく。
ローゼリア王国軍の先頭には、兄ライナスの黒い軍装。胸には、ローゼンクロイツ家の薔薇紋章。
シュヴァルツヴァルト大公国軍の先頭には、ノクトの黒い大公旗。私を乗せた一頭の馬が、その傍らに並んでいた。
私は、銀の鎧帷子の上に、白い外套を纏っていた。腕には、ノクトの腕輪。胸の奥には、もう、震えはなかった。
雪が、降り始めていた。
あの日、控室で死んだ十九歳の私が、もし今この行軍の列を見たら、何と言うだろう。
信じない、と言うだろうか。
それとも、よかった、と泣くだろうか。
どちらでもよかった。
私はもう、彼女の続きを生きている。
「アデリーヌ」
ノクトが、馬上から私を呼んだ。
「ヴァルダールの峠は、長い」
「ええ」
「だが、終わりまで一緒に行く」
「ええ」
雪片が、銀の髪の上に静かに乗った。
遠く、峠の向こうから、帝国軍の朝の角笛が、初めて響いた。
角笛の音は、低く、長く、二度目の私の鼓膜の奥にまで届いた。
一度目の私は、この音を聞かないまま、王宮の控室で死んだ。
二度目の私は、この音を、自分の馬上で受け取っている。
兄ライナスは、隣の列で、自身の馬の手綱を握り直していた。ティルダはローゼンクロイツ侯爵邸で兄の留守を守っている。父はエリスタの離宮で、母の墓を守っている。すべての人が、それぞれの場所で、それぞれの仕事をしていた。
私の場所は、ここだった。
ノクトの隣の馬上、銀の鎧帷子の上に白い外套、左の腕に銀の腕輪。
それで、もう、何も足りなかった。
いや。足りないものは、ひとつもなかった。
二度目の人生の、最後の戦が、始まろうとしていた。
角笛の音は、まだ長く尾を引いていた。この戦いが本当の意味で決着するまで、まだいくつもの季節がかかることを、このときの私は知らない。
(第二十三話 了 / 約4,900字)




