第二十二話 立太子
# 第二十二話 立太子
廃嫡から半月のうちに、王宮の景色は驚くほど変わった。
ヴィクトール時代に幅を利かせていた中堅貴族たちの幾人かが、自ら家紋を伏せて領地に下がった。腐敗の枝葉を、王宮自身が静かに剪定し始めていた。代わって、王宮の控えの間には、長く議席を奪われていた古参貴族たちの顔が、再び並ぶようになった。
兄ライナス・フォン・ローゼンクロイツも、その一人だった。
ローゼンクロイツ侯爵家現当主として、兄は王宮顧問貴族の席を与えられた。父が長らく座ろうとしなかった、本来ならローゼンクロイツ家のものだった席である。
兄は最初の日、その椅子に座る前に、椅子の背を一度だけ撫でた、と聞いた。
一度目の人生で兄は、北部国境ヴァルダール峠で戦死している。私の言葉に耳を貸さないまま、王太子の命令で前線に送られて死んだ。
二度目の兄は、王宮の中で椅子の背を撫でていた。
それだけのことが、私には十分に嬉しかった。
ローゼンクロイツ家の本邸では、後妻イザベラが残していった居室の片付けが、ようやく済んだところだった。化粧台の引き出しから、十一年分の細々とした手紙の束が出てきた。差出人を分けると、王都の宝石商のものが半分、メルクリウス帝国側との連絡符が四分の一、残りはリリスの「教育」に関する偽の領収書だった。それらすべてを、兄は一度全部、書斎の机に広げた。十一年分を、兄は一日で読み切った。
夜更け、書斎の扉を閉めて出てきた兄の表情は、ひどく疲れていた。けれど、その疲れの中に、もう自責はなかった。
「アデリーヌ、お前は、よく我慢した」
兄はそれだけ言って、自分の額に手を当てた。
私は何も答えなかった。一度目の兄は、私が何も言えないまま死んだ。二度目の兄は、私を見て泣きそうな顔をしていた。それで、十分に違った。
*
立太子の儀は、初夏の日に決まった。
その前夜のことである。
王宮の奥の間、王族専用の私室の一室に、私とノクトは内々に呼ばれていた。
扉を開けて、小姓に案内された先には、煉瓦造りの暖炉。火は弱く、薪は細く爆ぜる音だけを立てていた。
暖炉の前の長椅子に、若い男が一人、すでに座って待っていた。
第二王子レアンドル・ローゼリア。
明日、王太子に立てられることになる十九歳の青年は、儀式の日を翌日に控えながら、ひどく落ち着いて見えた。
「アデリーヌ嬢」
彼は立ち上がって、私とノクトに向かって、深く頭を下げた。
王族としては異例なほど、深い辞儀だった。
「シュヴァルツヴァルト大公殿。お忙しい中、まことに申し訳ない」
「殿下」
ノクトが、わずかに首を傾けた。
「第二王子のお召し、断る理由は何もない」
レアンドルは、片手で長椅子の向かいの席を勧めた。
私は、ノクトの隣に腰を下ろした。
暖炉の火が、青年の灰青の瞳を低く照らした。
ヴィクトールの整った美貌とはまったく違う、控えめで品のある顔立ち。十九歳というよりも、ずっと年上に見える落ち着き。
婚約者選定の儀のとき、私は確かにこの青年と一度だけ言葉を交わしている。彼が次男として、儀の進行を補佐していた、あの春の朝。
あれから一年あまりで、彼の影は、ずいぶん深くなった。
婚礼の祭壇から半月、レアンドル殿下は王宮で起きたほとんどすべての場に立ち会われた。兄ヴィクトールの北の塔への移送、リリスの公開裁判、レーヴェン枢機卿の破門の儀、そして父王陛下の譲位準備。十九歳の青年が、同じ春のうちにこれらすべてを受け取らされた、と思うと、私は彼を一人の少年として労わりたくなった。けれど、彼自身がそれを望まないだろう、ということも私には分かっていた。
「アデリーヌ嬢。私は、王太子の器ではないかもしれません」
レアンドルは、いきなりそう切り出した。
火明かりの中で、彼は自分の手を見つめていた。
白い指、長い指。剣を握り慣れた指ではない。書斎の机で羽根ペンを持つ手だった。
「兄上の不始末を片付けるために、急ごしらえで王太子に立てられる。父上はそれをお望みになっておいでです。けれど、私はずっと、自分が王宮の表舞台に立つ日が来るとは思っていませんでした」
「殿下」
「だが、姉のように頼れる方がそばにいてくれれば、と思うのです」
レアンドルが、顔を上げた。
まっすぐ私を見ていた。
その視線は、私を女として見ているわけではなかった。妹が姉を見るような、生真面目な切実さだった。
「あなたの差配は、王宮の誰もが知っております。あの婚礼の祭壇のことを、誰もが見ました。あなたが私怨ではなく国の利益で動いた方であることも、評議会の重臣全員が証言しております。私は、あなたの意見を、王太子として、ときどき伺う立場でありたい」
火の音が、しばらく続いた。
私は、膝の上で指を組み直した。
「殿下、ありがたいお言葉です」
声が、自分でも整い始めていた。
「ですが、私はもうローゼリアの王宮には属しません。シュヴァルツヴァルト大公国に嫁ぐ身でございます。王宮の決定の中に、王国の臣民として声を入れ続けることは、本来であれば許されない立場です」
「分かっております」
レアンドルは、頷いた。
「ですから、王宮の正式な顧問ではなく、両国の友好の象徴として、ときどき王宮に下って助言を頂きたい、という形ではいかがでしょうか。年に数回、儀式の時期に合わせて。それくらいなら、シュヴァルツヴァルト大公殿のご許可を得られるならば」
彼の灰青の瞳が、ノクトに向けられた。
ノクトはしばらく、暖炉の火を見ていた。
血赤の瞳が、火明かりに沁みて、どこか深い色をしていた。
「アデリーヌが望むのなら、止めない」
彼は、低く答えた。
「俺の妃になるということは、彼女自身を閉じ込めるということではない。ローゼリア王国に残してきた縁を、彼女が大切にする限り、俺はその往復を支える」
レアンドルが、深く頷いた。
私は、自分の指を、もう一度、長椅子の絹の上で組み直した。
そして、レアンドルにまっすぐ向き直った。
「殿下、それでしたら、喜んで」
声は、迷いなく出た。
「両国の友好の橋渡しという形で、年に数度、王宮に上がらせて頂きます。私の知るかぎりのことで、お役に立てるならば」
レアンドルの肩から、ようやく力が抜けた。
彼が深い息を吐いた音を、暖炉の火が拾った。
「ありがたい」
彼は、もう一度頭を下げた。
ヴィクトールが決して見せなかった種類の、深い辞儀だった。
*
話が一段落したあと、レアンドルが小姓に酒を運ばせた。
三人で、ささやかに杯を合わせた。
果実酒の杯は、水晶ではなく、銀の縁取りの硝子だった。中身は薔薇色の清涼な酒。
あの日の毒杯とは、形も色も違っていた。
それでも、私はその杯を、しばらく両手で包んでいた。掌の温度が、薄い硝子越しに、酒に伝わっていく感覚を、ゆっくり味わってから、ようやく口許へ運んだ。
ノクトは、その様子を一度だけ横目で見て、何も言わなかった。
ただ、自分の杯を私の杯に、低く触れさせた。
硝子と硝子が、控えめな音を立てた。
「ノクト殿」
レアンドルが、改まって彼に向き直った。
「シュヴァルツヴァルト大公国との正式同盟を、私の代で結びたい。父の代では、王宮派閥の事情でできなかった。私は、それを、最初の仕事にしたい」
ノクトの口角が、ほんのわずかに上がった。
「歓迎する」
短く、それだけ答えた。
けれど、その短い一語が、両国百年の事情を超えていた。
私は、暖炉の火を見ながら、深く息を吸った。
兄ライナスの椅子。レアンドル殿下の立太子。両国の同盟。
ヴィクトール時代の王宮では、どれ一つ、起きるはずのなかった景色だった。
二度目の人生は、本当にもう、別の地図の上を歩いている。
*
翌朝、立太子の儀は粛々と執り行われた。
大聖堂の祭壇――半月前にリリスとヴィクトールが立った、あの白薔薇の祭壇――に、今日はレアンドルが一人で立った。
彼の儀礼服は、あえて簡素だった。金の刺繍も最少限。胸元には、王家の紋章ではなく、白百合でもなく、白菫が一輪、控えめに留められていた。白百合は、もう国花としては避けられる気配だった。
大聖堂の入口には、貴族見守り席。中ほどに、私とノクト、そして兄ライナスの席が並んでいた。
ローゼンクロイツ家の席が、レアンドル殿下の立太子の場に置かれていることそのものが、王宮の派閥再編の証だった。ヴィクトール時代の中盤、ローゼンクロイツ家の席は祭壇から最も遠い列に追いやられていたのだ。
兄ライナスは、その席に座る前に、座席の縁を一度だけ撫でた。書斎の椅子のときと、まったく同じ仕草だった。
神官が冠を載せる瞬間、私はノクトの手を、ほんの少しだけ握った。
ノクトはそれに気づいて、自分の指で私の指を、一度だけ握り返した。
大聖堂の天井から差し込む光は、半月前と同じ青さだった。
けれど、その光の下に立つ人物が、別の人になっていた。
それで、もう、十分だった。
*
立太子の数日後、私はようやく一人の時間をとり、エリスタの母の墓地を再び訪れた。
今度は、誰も連れていなかった。
ティルダは、ローゼンクロイツ侯爵邸で兄の補佐に回っている。ノクトは大公国へ一度戻り、軍備の最終確認に入っていた。
春の終わりの陽射しは、もう初夏の色を帯びていた。
母の墓石の前に膝をついて、私は深く頭を下げた。
「お母さま」
言葉は、長く出てこなかった。
「あの十一年が、なかったことには、なりません」
声が、震えた。
私は、ようやく、誰の目もない場所で泣いた。
膝に置いた拳が、白くなるほど握り締められていた。
控室の絨毯の上で死んだ、十九歳の私のために。
あの日、王宮の階段を一人で上っていった、何も知らない花嫁の私のために。
兄ライナスのために、ティルダのために、そして母自身のために。
涙は、十一年分、滴った。
風が、桜の若葉を鳴らしていた。
花は、もうほとんど散っていた。
葉桜の影が、母の墓石の上を、淡く撫でていく。
ようやく、頬を拭って、私は立ち上がった。
涙の跡が、まだ皮膚に湿っていた。
けれど、口許は確かに、上がっていた。
「お母さま」
もう一度、私は呼んだ。
「私、もう、自分の脚で立てます」
葉桜の風が、銀の髪を撫でた。
遠く、王都の方角から、立太子を祝う鐘の音が、まだかすかに聞こえていた。
帰りの馬車に揺られながら、私は窓の外の景色を、ただ眺めていた。
街道沿いの麦畑は、もう穂を伸ばし始めている。あの春の朝、十六歳の私が建国祭の鐘の音で目覚めたあの日から、一年と数ヶ月。長くて短い、長くて短い、二度目の春だった。
立太子を祝う鐘の音は、遠ざかる馬車の中まで、まだかすかに追いかけてきていた。
私は窓の外の麦畑を眺めながら、自分の左手の指に触れた。母の銀の指輪。今朝、墓前から戻る前に、ようやく自分の指に嵌めた指輪だった。その冷たさが、皮膚の下まで届いた。
ノクトの腕輪が、左の手首で軽く揺れた。
指輪と腕輪、二つの銀の重さに、私はもう、怯みはしなかった。
(第二十二話 了 / 約5,000字)




