第二十一話 外戚一掃
# 第二十一話 外戚一掃
公開裁判の朝、王宮広場には王都の人間の大半が集まっていた。
石畳を埋め尽くす民衆。広場を囲む建物の窓という窓、そこから身を乗り出す市民たち。広場の中央には急ごしらえの法廷が組まれ、紅のビロードを掛けた長机に、神聖宗教法廷と国家法廷の判事が並んで腰を下ろしていた。
空は、雲ひとつなかった。
春の終わりの、白く乾いた光が、広場全体を平らに照らしていた。
私は、貴族の見守り席の中ほどに座っていた。
隣にはノクト。後ろの席に兄ライナスとティルダ。父侯爵は今日、参列していない。エリスタの離宮への移動が、昨日のうちに静かに済まされていた。
その代わり、白い喪服に近い灰の衣を纏った後妻イザベラが、被告人席の片隅に座らされていた。
手枷はしていなかった。けれど、両側を衛兵に挟まれている。
もう一人の被告人、リリス・フォン・ローゼンクロイツは、まだ姿を現していなかった。
大鐘が一度鳴って、判事席の上席に座る大判事が、開廷を告げた。
「神聖宗教法廷ならびにローゼリア国家法廷合同公開裁判、これより開廷とする。被告人入廷」
広場の脇の鉄柵が開いた。
そこから現れたのは、もう花嫁衣装ではなかった。
粗い麻の衣。素足。長く美しかった桃色の髪は、肩のあたりで雑に切られていた。両手と足首には鉄の枷。
けれど、彼女の歩みには、最後まで芯があった。
目を伏せず、誰の方も見ず、ただまっすぐ判事席の前まで歩いていった。
諜報員としての矜持だけが、最後に残されていた。
民衆の中から、何人かがざわめきを上げかけて、すぐに口を噤んだ。広場の空気は、興奮よりも静寂の方が勝っていた。
あの祭壇のとき、白絹のドレスの下から伸びていた白い指は、今、麻の衣の袖からそのまま晒されていた。手枷の鉄の重さが、彼女の手首にすでに赤い跡を残し始めていた。十一年、私の手を握り続けた指。十一年、王太子の頬に触れていた指。けれどその指は、本来は短剣の柄や、毒の粉や、暗号の符牒を握るための指だった。本来の用途に戻されたうえで、最後の場で晒されている。
「リリス・フォン・ローゼンクロイツ嬢」
大判事が呼ばわった。
「被告人として、これより罪状を読み上げる」
検事が立ち上がった。
羊皮紙の束が、長机に広げられる。
検事の声は、よく訓練された、感情を抑えた声だった。
罪状一。メルクリウス帝国白百合部隊への所属。
戸籍偽造によりローゼンクロイツ侯爵家連れ子として潜入、十一年にわたって諜報任務を遂行。
罪状二。聖女偽装陰謀。
レーヴェン枢機卿と共謀し、覚醒の儀を捏造、ローゼリア教会内部に親帝国派の聖女像を構築せんとした。
罪状三。国家機密漏洩。
第一王太子ヴィクトール・ローゼリアと密通し、国境配備、魔脈鉱山、王宮機密の数々をメルクリウス帝国側に漏洩。
罪状四。王太子妃陰謀の暗殺指令。
白百合部隊司令官カイラ嬢の自白書、ならびに被告人自身の筆跡による暗殺指示書、これを証拠として提示する。
検事が一つ一つ羊皮紙を掲げるたびに、広場のざわめきが波のように立ち、すぐに沈んだ。
民衆は、この一年あまりで、リリスを「次代の王太子妃」として何度も見ていた。あの可憐な姿のすべてが、最初から偽りであった。それを呑み込むのに、彼らは時間が必要だった。
けれど、誰も彼女を擁護しなかった。
リリスは、長机の前で、手枷の鎖を一度だけ短く鳴らした。
顔を上げて、判事席を見た。
「被告人、罪状を認めるか」
大判事の問いに、彼女は薄く微笑んだ。
それは、被害者の役を演じる微笑ではなかった。
もはや何も繕わない、訓練された諜報員としての、ただの薄笑い。
「すべて、認めます」
よく通る声だった。
彼女はそれだけ言って、また目を伏せた。
争うつもりはなかった。彼女が守るべき任務はもう失敗したのだから、最後まで「白百合の士官」として死ぬことだけが、彼女の選びうる唯一の体面だった。
*
次に、後妻イザベラが立たされた。
彼女は、リリスとは正反対だった。
「私は、何も知らなかったのです」
涙ながらに、彼女は判事席に向かって叫んだ。
「リリスはたしかに私の連れ子と偽って侯爵家に入りました。けれど、私はその事実を、つい昨年まで知らなかったのです。帝国の差し金で、無理やり子を押し付けられただけで――」
「しかし、戸籍偽造の主犯はあなただ」
検事が、淡々と紙束を掲げた。
羊皮紙の束は、十一年分の蓄積だった。継母として侯爵家に入った日からの家計簿、宝飾品の領収書、王都の偽書工房との取引帳簿、メルクリウス帝国側との金銭授受の記録。
どれも、後妻イザベラ自身の筆跡で残されていた。共犯の自覚がなくとも、共犯としての記録は、本人の手で着実に積み上げられていた。本人だけがそのことに気づかず、十一年を過ごしていただけだった。
「ローゼンクロイツ侯爵家入家届に押された血判、これはあなた自身のもの。連れ子の出生地証明、これもあなた自身が手配し、王都の偽書工房に金貨二十枚を支払った帳簿が確認されている」
イザベラの言葉が、ぴたりと止まった。
検事は、続けて、彼女の宝飾品の仕入れ帳簿を提示した。
夫である侯爵家から得た年金のうち、三割以上が、リリスの「教育費」名目で帝国の口座に流れていた記録があった。
彼女は、共犯であった。完全な共犯であった。
ただ、リリスのように覚悟を決めていなかっただけ。
検事は最後にもう一件、十一年前の記録にも触れた。
先代侯爵夫人、私の母の急逝の前後、帝国側の医術師を名乗る者が短期間だけ屋敷に出入りしていたという証言が、当時の使用人名簿から掘り起こされていた。証拠として立件するには古すぎ、罪には問えない。けれど、それは、私が十一年間押し殺してきた小さな疑いに、初めて外からの裏付けを与えてくれた。
母は、やはり、独りで何かと戦っていたのだ。
「私は、ただ、娘の幸せを願っただけで」
検事が、最後の一葉を掲げた。
王都随一の宝飾商から仕入れた、真珠の首飾りと指輪の購入記録。宛先は、すべてイザベラ自身の名だった。
「娘のための金だと仰るなら、何故これらの品は、あなたご自身の宝石箱に収められていたのですか」
検事の声は、静かに、しかし容赦なく続いた。
広間の空気が、わずかに冷えた。
イザベラの声は、もう誰の耳にも届かなかった。
大判事は、二人の判決を、それぞれ別の羊皮紙に記した。
リリス・フォン・ローゼンクロイツ。
罪状の重さに鑑み、本来であれば極刑相当。ただし、被告人はメルクリウス帝国白百合部隊の正規士官であり、かつ皇帝の血を引かない外国人諜報員であるため、メルクリウス帝国への送還は拒否。両国間の人質協定に基づき、王都北の岩盤地下、終身石牢に収監とする。
以後、面会、書状、教会儀式、すべてを禁ずる。
後妻イザベラ・フォン・ローゼンクロイツ。
ローゼンクロイツ侯爵家との婚姻を即時離縁。爵位を剥奪、平民身分への降格。王都への居住を生涯禁止し、王国南端の小さな修道院付属農地での労役を命ずる。
レーヴェン枢機卿。
神聖宗教法廷より、教会からの破門、神官位剥奪、内陸部修道院への終身追放。
大判事が璽を押した瞬間、広場のあちこちから、ようやく息を吐く音が聞こえた。
歓声には、まだ遠かった。けれど、群衆の後方から、抑えきれない安堵の呟きがいくつも漏れ聞こえてきた。
「これで、王都も少しは眠れるな」
「あの聖女様とやらに、随分と献金させられたものだが」
誰かの皮肉混じりの声に、近くの人垣から低い笑いが起きた。侮蔑と安堵が入り混じった、飾らない民衆の声だった。
貴族の見守り席は、最後まで静かなままだった。けれど広場の外周では確かに、十一年分の毒が、ようやく王宮と侯爵家から抜け終わった、その音が響いていた。
リリスは、判決を聞いても、表情を変えなかった。
ただ、判決文を読み上げ終えた大判事の方へ、わずかに目を上げた。
その緑の瞳は、もう私を捜していなかった。
最後まで、私には何の言葉も残さなかった。それが彼女のけじめだった。
私もまた、見守り席から立ち上がりも、声をかけもしなかった。
ただ、彼女が衛兵に囲まれて広場の鉄柵の向こうに消えていく後ろ姿を、最後まで黙って見ていた。
桃色の髪が、雑に切られた肩のあたりで、春の風に揺れた。
あの日、控室で私の手に水晶の杯を握らせた指は、もう私を傷つけることはない。
貴族見守り席の隅で、私の代わりに泣いている娘がいた。リリスの侍女として登録されていた、大公国情報部から借り受けた女ではない、本物の侍女の一人だった。十一年、義妹に仕えてきた純朴な娘で、彼女もまた騙されていた側だった。
私は手を伸ばして、その娘の肩に一度だけ触れた。
「あなたが泣くことではないわ」
声をかけると、娘は唇を噛んで、深く頭を下げた。
彼女の涙は、私の涙ではなかった。けれど、彼女がここで泣いていてくれることが、十一年の後妻と義妹の物語に、ようやく釣り合う重みを加えてくれた気がした。
「アデリーヌ」
ノクトが、私の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
血赤の瞳が、お前は最後まで、ここで見届けたな、と告げていた。
「ええ」
私は、頷いた。
最後まで、見届けた。
*
その夜、私はエリスタの離宮を訪ねた。
父侯爵は、母の墓守をするための小さな屋敷で、すでに当主の指輪を外していた。
使用人は最少限。蝋燭一本の書斎で、父は私を迎えた。
「お父さま」
私は、机を挟んで父の正面に立った。
膝を折って礼をする代わりに、ただまっすぐ父の灰色の瞳を見つめた。
「もうあなたの娘は、自分で自分の人生を選びます」
父は、長く目を閉じた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「分かっている。今日の裁判のすべてを、私は使者の口から聞いた」
「お父さま、私は」
「アデリーヌ」
父が、私の言葉を遮った。
その声は、夜風よりも低かった。
「許してくれとは、もう言わぬ。ただ、お前の二度目の人生が、私の知っていた一度目と違うことを、私は嬉しく思う」
父の声は、嗄れていた。けれど、今夜の父は、機嫌を取り繕うための言葉を一つも口にしなかった。十一年、後妻の機嫌を取るために費やしてきた表情筋を、父はようやく休ませているように見えた。蝋燭の小さな炎が、父の頬の皺を、深く長く翳らせた。
……二度目。
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
父は、私の死に戻りを知っているわけではない。けれど、皺の深い、灰色の瞳は、何かを察していた。母の墓に通い続けたこの男は、自分の娘の魂が一度どこかで失われ、もう一度ここに帰ってきたことを、たぶん、肌で知っていた。
「……はい」
私は、それだけ答えた。
父の手が、机の上の母の遺髪入れの銀盒に、一度だけ触れた。
「お前の母さまも、きっと、嬉しく思っている」
その言葉だけは、私はまっすぐ受け取った。
父を許したわけではない。けれど、母の名前を間に置いて受け取ることだけはできた。
離宮を辞して、馬車に乗る前、私はエリスタの庭の奥にある小さな墓地に寄った。
月明かりの下、母マリアンヌ・フォン・ローゼンクロイツの墓石が、白く光っていた。
誰の目もいない場所で、私はようやく膝をついた。
「お母さま」
声が掠れた。
「終わりました。十一年、長くかかってしまって、ごめんなさい」
月光だけが、銀の髪の上に降りていた。
涙は、思っていたほど多く出なかった。けれど、出てきた一粒一粒が、十一年を一年ずつ削り落とすように、頬を伝った。
「お母さまの娘は、もう、誰にも騙されません」
風が、桜の枝を揺らした。
花弁が一枚、墓石の上に、軽く落ちた。
私は、その花弁を指の先で受け取って、そっと脇へ寄せた。
声に出してから、私は一度、自分の唇を引き締めた。
誓いというより、報告だった。母に言い訳をしに来たのでもなく、自分の二度目の人生を語って聞かせに来たのでもなく、ただ、十一年分の嘘がようやく終わったことを、家族の中で唯一信じられる人に伝えに来ただけだった。
花弁が、二枚、三枚と、墓石の上に音もなく重なっていった。
母の名だけが刻まれたその石を、私は指先でもう一度撫でた。
それから、膝についた土を払って、立ち上がった。
馬車に戻ると、ノクトが扉のそばで待っていた。
彼は何も尋ねなかった。
ただ、私の指が冷えていることを確かめて、自分の外套で私の肩を包んだ。
黒い大公の外套の温度の中で、私は深く息を吐いた。
月の光は、王都へ戻る街道の上に長く伸びていた。
(第二十一話 了 / 約5,200字)




