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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第二十話 廃嫡

# 第二十話 廃嫡



 翌朝の王宮は、奇妙なほど静まり返っていた。



 昨日の婚礼の祭壇で起きたことは、夜のうちに王都中に駆け巡った。けれど、それを声高に語る者は、まだ誰もいなかった。語っていいかどうか、貴族たちにも市民たちにも、判じかねていたのだ。

 王宮広間の高い窓から差し込む朝の光は、白く、冷たく、誰の頬にも血の色を加えなかった。



 緊急評議会。

 国王陛下臨席のもと、王宮序列上位の貴族と教会代表、そして近衛騎士団長が円卓を囲んでいる。

 その円卓の片隅、ローゼンクロイツ家の席に、私は座っていた。

 兄ライナスが当主代行として隣に控え、父侯爵はその一段後ろの椅子に深く座っていた。

 父の顔は、十年分老けて見えた。



 円卓の正面、玉座に近い席で、国王陛下が苦悶の表情のまま署名簿を開いた。

 羊皮紙の上を進む羽根ペンの音が、広間の壁に大きく反射した。



「第一王太子ヴィクトール・ローゼリア」



 国王陛下の声は嗄れていた。



「敵国諜報員と通謀し、王国の機密を漏洩せしめ、領土の一部を私的譲渡せんとした罪状により、王位継承権を剥奪する。今日この時より、王太子の称号を取り上げ、王城北の塔に終身、これを幽閉する」



 羽根ペンが止まった。

 国王陛下は、署名簿を閉じることもできずに、しばらくただ羊皮紙の文字を見つめていた。父親としての顔と、王としての顔が、その横顔の中で何度も入れ替わるのを、私は見ていた。

 けれど、最後には王の顔が勝った。

 国王陛下は、璽を押し込んだ。



 勅令、発布。

 円卓の貴族たちが、一同に頭を下げた。



 その中に、つい先月まで誰よりも熱心にヴィクトール殿下へ取り入っていた侯爵の姿があった。夜会のたびに彼の傍らに侍り、猟犬の血統だの葡萄酒の年代だのを大げさに褒めそやしていた男だった。

 その侯爵が、頭を下げたまま、隣の貴族に聞こえよがしに囁いた。

「……以前より、どこか危ういお方だとは思っておりましたがね」

 昨日までは、一度も口にしなかった台詞だった。誰も、彼を咎めなかった。円卓の空気そのものが、すでにその掌返しを許容していた。

 権力を失うということは、こういうことなのだと、私はその囁きを聞きながら思った。



 私も頭を下げた。下げながら、心の奥でただひとつだけ思った。

 お母さま、ご覧になっていらっしゃいますか。



 円卓の隅で、近衛騎士団長が小さく咳払いをした。北の塔の警備配備、面会許可者の一覧、塔番の人選、そうした実務の細目が、淡々と読み上げられていく。一夜のうちに準備されたとは思えないほど、文面は整然としていた。誰が、いつから、これらを書いていたのか。私は問わなかった。重臣たちの中の幾人かは、おそらく半年以上前から、ヴィクトール時代の終わりに備えて筆を準備していたのだろう。そういう貴族の老獪さを、二度目の私はもう疎みはしなかった。



 *



 午後、私は証人として召喚された。



 白い大広間の中央に、簡素な木の椅子が一つ置かれている。

 その椅子に、私は腰掛けた。

 円卓の貴族たち全員の視線を浴びる位置だった。けれど、もう怖くはなかった。

 控室の鏡の前で、自分の銀の髪を結い上げてもらいながら、私は深く息を吸って、深く吐いた。それだけで十分だった。



「ローゼンクロイツ侯爵令嬢、証言を願う」



 審議官の声に、私は頷いた。



 証拠はすべて、すでに机の上に積まれている。

 ヴィクトールの魔脈使用許可証。侯爵領の鉱山に勝手に発行されようとしていた、王太子印の押された羊皮紙だった。

 リリスとヴィクトールが交わした密書の束。「冬至までに義姉を片付けよ」「義妹の妊娠は次の春で計画」。そうした文言が、彼ら自身の筆跡で残っていた。

 男爵令嬢ミレイユほか複数の不貞の相手の証言。彼女たちは王太子から下賜された宝石箱を、それぞれ自発的に証拠として提出していた。リリスへの怨みが、ここで思わぬ役に立った。

 帝国白百合部隊司令官カイラの自白書。冬の国境でノクトが捕らえ、シュヴァルツヴァルト大公国法廷で記録された自白の写し。

 そして、大聖堂古文書庫のベルナール師が独自に見つけた、聖女覚醒の儀の典礼手順に関する矛盾点の報告書。教会内部からの証言として、これが最後の一押しになった。



「これらの証拠は、すべて私が、シュヴァルツヴァルト大公国の協力を得て、過去半年のうちに収集したものでございます」



 私は、淡々と告げた。



「私怨は、ございません。ただ、ローゼリア王国の臣民として、王宮派閥の腐敗が国境の向こう側まで漏れていることを看過できなかった、それだけです」


 嘘だった。

 私怨がすべてだった。あの控室の絨毯の上で死んだ十九歳の私のための、ただそれだけの戦いだった。けれど、この円卓で必要なのは、証言者としての正しさであって、花嫁を奪われた娘の恨み言ではない。私怨を最後まで表に出さないことも、また、私の戦い方の一部だった。



 円卓の重臣のうち、白髪の老侯爵が、深く頷いた。

 もう一人、王宮序列二位の宰相は、口許に手を当てたまま長く目を閉じた。私のことを、ようやく一人の貴族として認めてくれた瞬間だった。

 誰一人、私を花嫁を奪われた哀れな娘として扱わなかった。それが、私が一番欲しかった視線だった。



 円卓の白髪の老侯爵が、口を開いた。

「ローゼンクロイツのご令嬢に申し上げる。あなたが半年のあいだ、王宮の片隅で何を見ておられたのか、我らはほとんど知らずに過ごしてしまった。これは、我ら古参貴族の怠慢である」

「過分なお言葉でございます」

 私は、軽く頭を下げた。

「ですが、お言葉を返すようですが、見ようとしなければ見えないものを、私はたまたま、見える位置に居ただけのことでございます。ローゼンクロイツの娘として、ヴィクトール殿下の婚約者として、義妹リリスの姉として――そのいずれの立場も、敢えて捨てずに保ち続けたことの結果でございます」

 老侯爵は、しばし目を伏せた。

 立場は捨てなくてよかった、と私は今、ようやく言える。十一年、姉として後妻の娘の手を取り続けたこと。三年、王太子の婚約者として春の儀の薔薇園を歩き続けたこと。あの時間のすべてが、二度目の私が証拠を集めるための座席になっていた。一度目は、その座席に座ったまま殺された。二度目は、同じ座席から、盤面のすべてを見張っていた。



「リリス・フォン・ローゼンクロイツに関しては、神聖宗教法廷とローゼリア国家法廷の合同公開裁判が、来週、王宮広場にて行われる予定でございます。私もまた、そこで証言の場に立ちます」



 私は、それで証言を終えた。



 立ち上がろうとして、ふと、円卓の中ほどに座る父侯爵を見た。

 父は、私を見ていなかった。皺の刻まれた手を膝の上で組んで、目を伏せていた。

 その姿に、私は十一年分の何かを、ようやく振り落とせた気がした。

 お父さまも、今日でようやく、終わるのだ。



 *



 評議会の終わったあと、王宮の長い回廊を、私はノクトと並んで歩いた。

 窓の外には、王都の街並みが、春の光の下に静かに広がっていた。

 遠く、王宮の鐘楼の影が、白い石畳の上に長く伸びていた。歩を進めるたびに、その影の角度が少しずつ変わる。一度目の人生では、私はこの回廊をほとんど歩かなかった。婚約者の婚約者として、奥の私室と大広間の往復ばかりで、王宮の本来の骨格を、私は何も知らなかった。

 二度目の私は、この回廊の端から端まで、もう諳んじられた。

 市民たちは、すでに昨日のことを噂し始めているはずだった。「祭壇の花嫁は、敵国の諜報員だった」「王太子は北の塔に幽閉された」。それだけの事実が、酒場の隅でどう語られているのか、私は別に確かめなくてもよかった。



「ヴィクトールが、面会を申し込んできた」



 ノクトが、低く言った。

 黒い大公の外套が、回廊の床にわずかに音を立てた。



「お前にだ」



「……」



 私は、しばらく答えなかった。

 窓の向こうの春の光を見ていた。

 あの日、控室の絨毯の上で死んだ女が、もしまだ生きていたら、迷わず会いに行ったかもしれない。けれど、私はもうあの女ではなかった。



「お断りします」



 声は、自分でも驚くほど平らだった。



「私が彼に告げる言葉は、もう一つもありません。彼が私から聞きたい言葉も、本当はもう一つもないでしょう。それは、彼自身がよく知っているはずです」



「……俺が代わりに行く」



 ノクトの言葉に、私は彼を見上げた。

 血赤の瞳は、私を慰めるための優しさではなく、もっと冷たい、けれど確かな決意で満ちていた。



「あなたが?」



「お前の代わりに、ではない。俺自身として、だ。一度目の俺が、どうしてお前を救えなかったのか。そのことを、あの男に確認しに行く」



 私は、しばらく彼の血赤の瞳を見ていた。

 それから、小さく頷いた。

 ノクトには、ノクトのけじめがあるのだろう。私が立ち入る場所ではなかった。



「では、お任せします」



「ああ」



 彼の指が、私の銀の髪に一度だけ触れた。

 長い回廊の影が、互いの肩の上で揺れていた。

 ノクトの足取りは、いつもどおり静かだった。けれど、その静けさの中に、確かに彼自身の業の重さが含まれているのを、私はもう見抜けるようになっていた。一度目で間に合わなかった男が、二度目で塔の鉄扉の前に立つ。それは、私の復讐ではなく、彼自身の魂の落とし前の場面だった。

 私は何も言わずに、彼の歩調に合わせて回廊の終わりまで歩いた。



 *



 北の塔は、王城の最も冷たい一角にあった。



 この場面を、私は見ていない。あとでノクトが私に語ってくれた、彼自身の記憶の中の場面である。

 窓もない、ただ天井近くに細い通気孔だけがある独房。鎖に繋がれた木の椅子が一つ。鉄扉の小さな格子窓越しに、ヴィクトールはノクトを迎え入れた。

 白い儀礼服はもうなく、灰色の囚衣だけがその肩に乗っていた。整えられていた金の髪は乱れ、頬は一日で削げていた。けれど、彼の目はまだ、何かを諦めていなかった。



「シュヴァルツヴァルトの大公殿」



 ヴィクトールは、薄く笑った。



「お前が来るとは、思わなかった。アデリーヌが直接来るとばかり」



「来ない」



 ノクトは短く答えた。塔の冷気の中で、彼の血赤の瞳だけが温度を持っていた。



「アデリーヌは、お前にもう一語も使わない。それは彼女が選んだことだ」



 ヴィクトールは、椅子の上で身を捩った。鎖が短く鳴った。



「俺の、何が間違いだったのだ」



 その問いを、彼は本気で口にしていた。

 最後まで、その目は本当に分かっていなかった、とノクトは私に語った。

 領地の魔脈、義妹との密約、毒杯、それらの何が「間違い」だったのか――彼の頭の中では、それらはすべて「うまくいかなかった計画」として整理されていて、「やってはいけなかったこと」としては整理されていなかった。



 ノクトは、しばらく彼を見ていた。

 それから、ゆっくりと答えた。



「お前は、自分が彼女に自分を選ばせたと思っていただろう」



「……」



「だが、彼女は最初から、お前を選ばないと決めていたのだ」



 ヴィクトールが、口を開きかけた。



「一度死んでから、永遠に」



 ノクトの声は、塔の壁を打って、低く沈んだ。

 ヴィクトールには意味が分からない。当然、分からない。それでよかった。

 ノクトは、それ以上何も言わなかった。

 鉄扉の格子窓を閉め、振り返らずに塔の階段を下りた。

 背後で鉄扉の閂が深く落ちる音が、塔全体に長く反響したという。



 *



 夕刻、私はローゼンクロイツ侯爵邸の書斎で、父と二人になった。



 春の日が落ちるのは早い。窓の向こうで、庭の枝垂れ桜が暮色に滲み始めていた。

 父侯爵は、書斎の机の前に座り、長く沈黙していた。皺の深くなった手の上に、もう一方の手を重ねたまま、目を閉じていた。

 暖炉に薪が一つ、はぜた。



「お父さま」



 私は声をかけた。

 二度目の人生で、私が父にそう呼びかけるのは、何度目だったろう。



「ローゼンクロイツ家は、これで王宮派閥と縁を切ります」



 父が、目を開けた。曇った灰色の瞳が、私を見た。母とは違う色の、けれど今は静かな瞳。

 その瞳に映る私は、もう少女ではなかった。



「兄さまに当主の座を譲ってください。お父さまは、これより家政から退き、お母さまの墓のあるエリスタの離宮で、静かにお過ごしください」



 父は、しばらく何も言わなかった。

 それから、机の引き出しを開け、当主譲渡の決定書を取り出した。

 羊皮紙には、すでに父自身の手で兄ライナスの名が書かれていた。今朝、評議会の前に、すでに用意されていたのだ。

 父は、ペンを取り、震える手で署名した。



「アデリーヌ」



 父の声は、嗄れていた。



「お前は、いつから、私を許さないと決めていた」



 私は、しばらく考えた。

 答えは一つしかなかった。



「あの日、お母さまが亡くなった日からです」



 父の手が、ペンを置いた。

 返す言葉を探していた。けれど、見つけられないまま、ただ深く頭を下げた。

 その背は、私が憶えていた父より、ずいぶん小さく見えた。

 お父さま、と呼ぶ言葉を、私は最後まで返さなかった。返すべき言葉を、私は持っていなかった。

 ただ、机の隅に置かれた羊皮紙、兄ライナスへの当主譲渡の決定書に、もう一度、軽く指を触れた。羊皮紙の縁は、夜の冷気を含んで、ひんやりと冷たかった。けれど、その冷たさは、控室の絨毯の上の冷たさとはまったく別の冷たさだった。



 私は書斎の扉を閉めて、廊下に出た。

 廊下の窓越しに、暮れていく庭が見えた。母が好きだった枝垂れ桜が、薄紅の輪郭を空に滲ませていた。

 もうすぐ、夜が来る。

 けれど、もう恐ろしい夜ではなかった。



(第二十話 了 / 約5,500字)



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