第十九話 婚礼の祭壇
# 第十九話 婚礼の祭壇
春の朝、王宮大聖堂は白薔薇に埋もれていた。
石柱に絡みつくタペストリーも、祭壇の左右に積み上げられた花籠も、すべてが純白で統一されている。蜜蝋の太い蝋燭が燭台に並び、淡い光が高い天井のステンドグラスを下から照らしていた。
私はその光景を、招待客席の中ほどから静かに眺めていた。
ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ、十六歳と七月。
二度目の春の私は、花嫁ではない。
花嫁は別の娘で、祭壇の脇の控室で、最後の支度を整えているはずだった。
「アデリーヌ」
隣に座るノクトが、低く名を呼んだ。
黒い儀礼服に、銀の肩章。血赤の瞳が、わずかに私の横顔へ向けられている。今日の彼は、シュヴァルツヴァルト大公として国賓席に座る立場だった。隣に私を伴うことが、どれほどの示威であるか、この大聖堂の半分以上の人間は、すでに察しているだろう。
「大丈夫よ」
私は囁いた。
膝の上で重ねた手は、自分でも驚くほど冷たく、けれど震えてはいなかった。
空気の匂いが、鼻の奥にこびりつくほどに濃かった。蜜蝋。白薔薇。そして、わずかに、神官の薫く乳香。
あの日、控室にも同じ匂いが満ちていた。
花嫁の私が、銀の冠を被って鏡台の前に座っていた、あの控室に。
石柱の影に立つ侍女頭の姿が、視界の隅に映る。
ティルダ。生きている。今日は私の警護のためだけに同行を願い出てくれた。
彼女と目が合うと、皺の刻まれた頬がほんのわずかに緩んだ。
「お嬢さま、よろしいのですね」と、唇だけが動く。
私は、ええ、と頷いた。
数列前には、父侯爵が背筋を伸ばして座っていた。隣に後妻イザベラの席はない。彼女は今朝、ようやく事の重さを察して床に伏せ、王宮への参列を許されなかった。
兄ライナスは父の隣で、紋章付きの黒い式服を整えている。その一つ後ろには、義妹リリスの侍女として登録されている娘が控えていた。実際には、大公国情報部から借り受けた女だった。
すべての配置が、ほぼ完璧だった。
大鐘が、三度鳴った。
大聖堂の奥、祭壇に通じる扉が開いた。
まず、新郎が現れた。
ヴィクトール・ローゼリア第一王太子。
白絹の儀礼服、金の肩飾り、剣帯には王家の宝剣。完璧に整えられた金色の髪、整った頬に張りついた、柔らかな微笑。
あの日と、同じ顔だ。
控室の扉を開け、床の杯を一瞥し、リリスの肩を抱いて「ご苦労」と告げたあの男と、寸分違わぬ顔。
私の喉の奥で、何かが小さく軋んだ。けれど、それだけだった。
神官が祭壇の前に立ち、一同に起立を促す。
厳かな笛の音が天井を撫でていく。
そして、奥の扉から、花嫁が現れた。
白絹のドレス。胸元に一輪の白薔薇。長い裾を二人の侍女が支えている。
桃色の髪は緩く編み上げられ、首筋は青白く、頬には薄く紅。レースの被り布の下から覗く緑の瞳は、潤んで、わずかに伏せられていた。
あの日、控室で私が鏡に映していた花嫁姿と、構図がまったく同じだった。
ただ、銀髪が桃色に変わっただけ。
ご一緒に、どうぞ。
私は心の中で、もう一度、その台詞を呟いた。
リリスは王太子のもとへ進み、二人は祭壇の前で並んだ。
神官が誓いの言葉を読み上げ始める。
国の繁栄、王家の安泰、両家の連結。長く、形式ばった、けれど美しい祈り。
私はその祈りを、半分も聞いていなかった。
待っていたのは、別の音だった。
神官が、銀盆に載せた水晶の杯を運んできた。
誓いの杯。
あの日、私の控室にリリスが運んできた、あの形そのものの杯。
澄んだ水が満たされ、上から金の薄片が振りかけられている。
私の喉が、また軋んだ。
ノクトの手が、テーブルの下で私の手を覆った。指の温度が、骨の奥まで沁みる。
大丈夫だ、と血赤の瞳が告げていた。
神官が、「新郎殿下、新婦どの、誓いの杯を」と告げる。
ヴィクトールが先に杯を受け取り、口許へ運んだ。
次に、リリスが両手で杯を受け取った。
白い指、薄い緑の爪。あの日、私の手に水晶の杯を握らせた、あの手。
彼女がレースの被り布越しに、わずかに微笑むのが見えた。
その微笑が、最後の演技になった。
大聖堂の正面扉が、轟音と共に開いた。
外光が一気に内陣を照らし、白薔薇のタペストリーがざわりと揺れた。
深紅の十字を縫い込んだ黒い外套。教皇庁直属の異端審問官団。
先頭に立つのは、銀髪を短く刈った長身の男だった。腰に提げた剣には、教皇の紋章が刻まれている。
神官の祈りが、ぴたりと止まった。
貴族たちの間で、身を硬くする気配が、波のように後方へ伝わっていった。
「神聖宗教法廷の名のもと、儀の中断を命ずる」
審問官の声が、石壁を打って響いた。
ヴィクトールが何かを叫ぼうとして、口を開きかけたまま固まった。リリスは杯を持ったまま動かない。緑の瞳が、ゆっくりと正面扉へ向けられた。
その瞳から、潤みがすっと引いていくのを、私は招待客席から見ていた。
あの控室の鏡で見た、あの瞳の変わり方と、まったく同じだった。
「リリス・フォン・ローゼンクロイツ嬢」
審問官は、祭壇に向かって階を上り始めた。背後の二人の審問官が、それぞれ祭壇の左右へ回り込む。
「メルクリウス帝国白百合部隊所属の諜報員として、ならびに聖女偽装陰謀の主犯として、神聖宗教法廷の名のもと、その身柄を拘束する」
声は乾いていた。けれど、その乾いた声が大聖堂の隅々まで届いた。
貴族たちの席が、波打つように騒めき始めた。
白百合。その名を聞いた瞬間、私の隣でノクトの肩が、ほんの一瞬だけ動いた。冬の国境で彼が捕らえた、あの女の所属部隊の名前だった。
同時に、別の足音が後方から流れ込んできた。
王国騎士団の制服。剣を佩いた壮年の騎士たち。先頭の者が宝石の付いた巻物を高く掲げている。
「ヴィクトール第一王太子殿下に申し上げる」
その声は、王宮序列三位、近衛騎士団長その人のものだった。
「国家機密漏洩の疑い、ならびに敵国諜報員との通謀の疑いにより、王城北の塔への召喚状である。直ちに同行を」
大聖堂の空気が、一瞬で凍った。
ヴィクトールの整った顔に、初めて感情らしい感情が走った。
怒りでも恐怖でもない、ただの困惑。
「何の、ことだ」と呟くようなその唇の動きを、私は見ていた。
だが、その困惑は、瞬く間に別のものへ変わった。
彼は近衛騎士団長の手を振り払うようにして、祭壇の上のリリスを指差した。
「待て、待ってくれ。俺は、何も知らなかった! すべて彼女が――リリスが仕組んだことだ、俺は騙されていただけだ!」
声は、大聖堂の高い天井に、みっともなく上擦って響いた。
招待客席のあちこちで、貴族たちが顔を見合わせた。たった今まで完璧な王太子だと信じていた男の、初めて見る顔だった。
リリスは、その叫びを一顧だにしなかった。ただ、被り布の下でわずかに唇の端を上げただけだった。守るつもりのない男に守られる価値を、最初から見出していなかったかのように。
あの日、控室で私の杯を見下ろしながら「ご苦労、リリス」と言った男が、初めて自分の足元の床が抜けたことに気づいた瞬間だった。
一方、リリスの動きは速かった。
被り布の下から、長い溜息のような呼吸がひとつ漏れた。
握っていた水晶の杯が、ゆっくりと祭壇の白布の上に置かれた。中身の水は、揺れて、金の薄片が螺旋を描いた。
彼女は、両手を胸の前で握り、肩を震わせた。
潤んだ緑の瞳を上げて、招待客席の私の方を、まっすぐ見た。
「お姉さま」
甘い声だった。
あの日、控室で「お父さまの安心のために」と言ったときと、まったく同じ声だった。
「お姉さま、これは何かの間違いです、助けてください」
白い指が、被り布をかすかにかき抱く。涙が頬を伝う。十一年仕込まれた、最後の演技。
大聖堂の何人かの貴族が、思わず立ち上がりかけたほど、それは完璧な一枚絵だった。
私は静かに席を立った。
ノクトの手から、自分の手をそっと抜いた。彼は止めなかった。血赤の瞳が、行け、と告げていた。
石の床の上を、銀の靴音が一定の間隔で進んでいく。
貴族たちの視線が、私の銀髪に集まっていく。
祭壇の前まで来て、私は階を上る前に立ち止まった。
そこからリリスを見上げる構図ではない。私は花嫁の彼女を、観客席から見下ろす構図のままだった。
あの日、控室で私が見上げていた角度と、ちょうど反対の角度。
立ち位置だけが、入れ替わっていた。
「リリス」
声を、抑えた。
大聖堂の高い天井に、驚くほどよく響いた。
「十一年、ずっとお姉さまが早く死ぬのを待っていたのよ」
リリスの肩が、わずかに止まった。
潤んだ緑の瞳の奥で、何かが、不可逆に動いた音を私は聞いた気がした。
「あなたの台詞は、私が覚えていました」
淡々と、私は告げた。
リリスがあの日、控室で私の手を取って囁いた言葉を、十一年分、私は今も鼓膜の奥に貼り付けたまま生きていた。
お姉さまになってくれてうれしい。
お父さまの安心のために。
お別れですわ、お姉さま。
ぜんぶ覚えていた。
二度目は、私のものとして使わせてもらった。
リリスの仮面が、剥がれた。
潤みが引いた。涙が止まった。震えていた肩が、すっと整った。
白い指が、胸の前で組まれたまま、力を失わずに静止する。
被り布の下から覗いた緑の瞳には、訓練された諜報員の冷たさが、剥き出しになって現れていた。
あの日、控室で見た、最後の彼女の顔。
別人ではなかった。あれが、もとからの彼女だった。
「……お姉さま」
声が、低くなった。
甘やかさを失った、滑らかで乾いた、そういう声。
「いつから、知っておられたの」
大聖堂の、誰一人として、もう動かなかった。
神官の祈りも、貴族の囁きも、笛の音も、すべて消えていた。
審問官たちすらも、敢えて足を止めて、姉妹の最後の会話の場を譲っているように見えた。
私は、口角をわずかに上げた。
あの控室の鏡で、最後にリリスが浮かべた、あの静かな笑みと、同じ角度で。
「最初から、ですわ」
私は告げた。
「あなたが毒杯を運んできた、あの控室から」
リリスの緑の瞳が、ほんの一瞬だけ、揺れた。
控室。毒杯。意味を読みかねた表情だった。
けれど彼女は、聡い諜報員だった。それ以上は問わなかった。
ただ、薄く、唇の端だけで微笑んだ。
「そう」
それだけ言った。
その「そう」のひと言に、私は、確かに敵としての彼女を初めて認めた気がした。
審問官が、リリスの腕を取った。
彼女は抗わなかった。被り布が肩から落ちて、緩く編まれた桃色の髪が、白絹のドレスの上にこぼれた。花嫁の華やかさはもうなかった。連行される女囚の姿だけがあった。
反対側では、近衛騎士団長がヴィクトールに召喚状を読み上げていた。彼はまだ何かを呟いていたが、もう誰も聞いていなかった。
「アデリーヌ」
ヴィクトールが、ようやく私を見た。
三年前の春の儀で「あなただけが運命の人だ」と告げた目。
あの日、控室で私の死体を見下ろした目。
その目が、今、私に何かを訴えていた。
助けを求めているのか、釈明したいのか、罪を擦りつけたいのか。どれだったとしても、もう関係なかった。
私は、ただ一言だけ返した。
「運命の人は、最初から一人もいませんでしたわ、殿下」
三年前、王宮の春の儀で彼が告げた台詞を、そのまま彼に返した。
ヴィクトールの顔から、最後の色が抜けた。
私は彼を一度だけ見て、視線を外した。
目を合わせ続けるほどの価値も、もう感じなかった。
二人はそれぞれ別の方向へ連行されていった。
花嫁衣装のリリスは大聖堂正面の扉から審問官団に囲まれて。
白い儀礼服のヴィクトールは祭壇脇の通用口から騎士団に囲まれて。
白い衣装の二人が、左右に分かれて消えていく構図を、私は祭壇の前に立ったまま見送った。
あの日、私が一人で控室の絨毯に倒れた構図の、ちょうど反対だった。
「アデリーヌ」
いつの間にか、ノクトが背後に立っていた。
黒い儀礼服の袖が、私の銀の髪にわずかに触れる。
血赤の瞳には、誇らしさも憐れみもなく、ただ「行こうか」とだけ書かれていた。
彼の手が、私の手を取った。
大聖堂の高い天井を見上げて、私は深く息を吐いた。蜜蝋の匂いが、ようやく鼻の奥から薄れていく気がした。
二人で、白薔薇のタペストリーの間を歩いた。
貴族たちは誰も声をかけなかった。父侯爵だけが、すれ違いざまに目を伏せた。兄ライナスの目だけが、まっすぐ私を見ていた。
大聖堂の正面扉を出ると、空は晴れていた。
春の青が、嘘みたいに澄んでいた。
「歩けるか」
「ええ」
ノクトの手の中で、自分の指がわずかに震えていることに、私は今ようやく気づいた。
けれど、震えは恐怖ではなかった。
十一年分の、ようやく終わった、という体の震えだった。
私は彼の手を、ぎゅっと握り返した。
空の青を見上げて、控室の絨毯の上で死んだ女に、心の中で告げた。
――ほら。
――二度目は、ちゃんと帰れたわよ。
(第十九話 了 / 約5,500字)




