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第42話「取り返しのつかない音」


---



夜明け前の森を、三人は走っていた。


コウタが先頭を切り、カナがそのすぐ後ろを、聖女がやや遅れて続く。『安物』は鞘の中で断続的に震え、カナの杖先には既に魔力が集まり、聖女の杖はかすかな光を放っている。


「コウタ、どこに向かってるのよ!」


カナの声に、コウタは振り返らずに答えた。


「わからない。でも、剣が震えてる方に」


それは説明になっていなかった。でも、カナはそれ以上聞かなかった。コウタの背中が、かつてないほど切迫していたからだ。


(あのゴブリンに、何かあったのね)


カナの中で、牙はまだ「すごく強いゴブリン」のままだ。それでも、コウタがここまで必死になる相手なら──ただ事ではないことだけは、理解できた。


聖女は走りながら、森の空気を感じ取っていた。


(この魔力の残滓──今朝方、この森で複数の人間が死んだ)


彼女の光魔法は、生命の消えた痕跡に敏感だ。前方から流れてくる死の気配に、聖女は無意識に杖を握りしめた。


嫌な予感が、三人を包み込んでいた。


---



ギルドでは、異変が表面化し始めていた。


「ガルドたちが戻らない」


ギルドマスターが難しい顔でカウンターに立っている。


「おかしい。ゴブリン討伐に一晩かかるはずがない」

「何かあったんでしょうか」

「……調査隊を編成する。だが、まずは状況確認だ。誰か、森の様子を見てきてくれる者はいないか」


周りの冒険者たちはざわついていたが、誰も名乗り出ようとはしなかった。ガルドはギルドでも上位ランクの戦士だ。その彼が戻らないということの意味を、誰もが察していた。


「……まずいな」


ギルドマスターは、壁に掛けられた地図を見つめた。森の奥、谷間の洞窟。あそこには、何がいるのか。


彼は、カナたちがいないことに気づいていなかった。


---



朝日が、森の谷を照らし始めていた。


洞窟に、朝の光が差し込む。それは本来ならば、新しい一日の始まりを告げるはずの光だった。


でも、洞窟の中には、血の匂いと死体の山があった。


五人の死体の真ん中に、牙は座り込んでいた。


彼は一睡もしていなかった。メスゴブリンの亡骸を膝の上に横たえ、その冷たい額を撫で続けている。毛の生えた小さな手は、もう動かない。胸に刺さった矢は、牙が引き抜いた。傷口を手で押さえたが、血はとうに止まっていた。


「……ギ」


牙の唇から、かすれた声が漏れる。


彼は立ち上がった。


洞窟の隅から蔓を集め、メスゴブリンの体を自分の背中に縛り付ける。落ちないように、何重にも巻いて。


(──行こう)


どこへ?


彼は、考えていなかった。ただ、この洞窟にはもういられない。ここは、彼女が死んだ場所だから。


牙は、洞窟を出た。


朝日が眩しい。小川は昨日と変わらずせせらぎ、鳥は平和にさえずっている。なのに、世界は昨日とはまるで違っていた。


牙は歩き出した。


どこへ行くのか、自分でもわからない。


でも、彼の足は──なぜか、街の方角へ向かっていた。


---



「……見つけた」


コウタが、谷の入り口で立ち止まった。


地面に、血痕がある。新しいものだ。それも、ひとりぶんじゃない。複数の人間の血が、点々と続いている。


「これは」


聖女が血痕に手をかざした。


「……死んでいます。この血の主は、全員」


カナが顔をこわばらせた。


「全員って、五人も?」

「ええ。しかも、これは人間の血です。ゴブリンのものではない」


三人は無言で顔を見合わせた。


──ガルドたちだ。

──牙が、殺ったのか。


「……急ごう」


コウタは、血痕を追って走り出した。カナと聖女も続く。


やがて、洞窟の入り口に着いた。


中は暗い。コウタがランタンを灯し、足を踏み入れると──。


「……うっ」


カナが息を呑んだ。聖女が、目を伏せる。


洞窟の中は、地獄だった。


五人の死体が、原形を留めないほど破壊されている。壁には血しぶきが飛び散り、臓物が床に散らばっている。冒険者のものだった装備は、へし折られ、引き裂かれ、あちこちに散乱していた。


「牙が……やったのか」

「……間違いないわね。この傷跡、爪よ」


カナの声は冷静だったが、その顔色は青ざめている。


聖女は、洞窟の奥を見た。


「……ここに、もうひとり、死んでいた跡があります。小さな体。おそらく──ゴブリンです」

「メスゴブリン……!」


コウタの声が、洞窟に響いた。


彼は、その場に膝をついた。ランタンが床に落ちて、灯りが揺れる。


(──牙のメスが、死んだ)

(──だから、牙は)


「……俺のせいだ」


コウタは、両手で顔を覆った。


「俺が、あの時、あいつを止められなかったから。依頼を、止められなかったから──」


カナは何も言えなかった。

聖女も、杖を握りしめたまま、黙って目を閉じていた。


「牙は……どこだ」


コウタは立ち上がった。その目に、迷いはなかった。


「追うぞ」

「追って、どうするのよ」

「わからない。でも、このままじゃダメなんだ。牙は──今、ひとりだ」


ひとりだ。


その言葉の重みを、カナはようやく理解した。あのゴブリンは、守る者を失った。守る者のために戦う者が、守る者を失ったら──どうなるのか。


「……行こう」


カナは、杖を構えた。


「アタシも行く。あいつが危険なのは言うまでもないわ」

「カナ」

「でも、コウタが行くなら、アタシも行くしかないでしょ」


聖女も、うなずいた。


「私も参ります。これほどの殺戮を行った存在を、放置するわけにはいきません。それに──」


彼女は、少しだけ言いよどんだ。


「TL本に、似たような場面がありました。『運命の双璧』の八十二ページ。友を殺された戦士が、復讐の鬼と化す章です」

「……それ、どうなるのよ」

「主人公が、戦士を止めるんです。自分の命と引き換えに」


聖女は、無表情のまま付け加えた。


「あくまで、物語の話です」


---



牙は、森を抜けていた。


街道に出ると、朝の商人たちが行き交っている。馬車が通り、子供が走り、犬が吠える。普通の、平和な朝だった。


「……うわっ!」


誰かが悲鳴を上げた。


通行人が、牙を見たのだ。


ゴブリンが、街道を歩いている。それだけでも異常なのに、その両手は真っ赤に染まり、全身に返り血を浴びている。何より、背中に縛り付けたメスゴブリンの亡骸が、道行く人々を恐怖させた。


「ゴブリンだ!」

「誰か、誰か兵を!」

「あの背中……死体か? 仲間の?」


人々は逃げ惑い、露天の品物が散乱する。牙は、人々の反応をものともせず、ただ真っ直ぐに進んだ。


マトモに牙を視認した者は、誰もいない。あまりに異常な光景に、理解が追いつかなかったのだ。


「止まれ、ゴブリン!」


自警団の若者が、槍を構えて立ち塞がった。牙は、その若者を一瞥もせず、振り抜いた爪で彼の槍ごと吹き飛ばす。


若者は壁に叩きつけられて動かなくなった。死んではない。でも、もう立てない。


牙は、それでも足を止めなかった。


彼の目には、もう何も映っていない。ただ、人間たちへの憎悪だけが、空洞になった心を満たしていた。


(──みんな、殺す)

(──俺のメスを殺した、お前たちを)


彼の足は、ギルドの方角へと向かっていた。


無意識だった。

でも、彼は知っていた。あそこに、人間たちの拠点があることを。

あそこに──コウタがいることを。


---



ギルドは、緊迫した空気に包まれていた。


「街道にゴブリンが現れた!」

「自警団がやられた!」

「街中に向かってる!」


ギルドマスターが立ち上がる。


「総員、戦闘準備! ランクC以上の者は迎撃に出ろ!」


冒険者たちが武装を始める。剣を抜き、盾を構え、魔法使いが詠唱を始める。ギルド全体が、戦場と化そうとしていた。


「……来たか」


ギルドマスターが、窓の外を見た。


街道の向こうから、ゆっくりと歩いてくる影がある。


ゴブリンだ。目が赤い。両手は血で染まり、背中には亡骸を背負っている。


「一匹か? たった一匹でギルドに乗り込むだと?」

「なめやがって!」


冒険者たちが飛び出した。若い戦士が三人、剣を抜いて牙に斬りかかる。


牙は、最初の一人の剣をかわし、その顔面を爪で砕く。

二人目の脇腹を蹴り抜き、三人目の腕をもぎ取る。


「グギャッ」


牙は、瞬く間に三人を地に伏せた。止めは刺さない。でも、それは慈悲じゃなかった。ただ、相手をする価値もないというように、彼らを踏み越えて進む。


「ひ、ひいっ!」


見物していた他の冒険者たちが、後ずさる。こんなゴブリンは見たことがない。強さが、常識を超えている。


「おいおい、冗談だろ……」

「あいつ、本当にゴブリンかよ……」

「あの目……正気じゃねえ……」


牙は、ギルドの入り口に立った。


巨大な扉を見上げ、彼は拳を振り上げた。


──ドゴンッ!!!


轟音と共に、扉が内側に吹き飛んだ。


---



「来た!」


カナが杖を構えたのは、扉が吹き飛んだのとほぼ同時だった。


三人は、洞窟から急いで街へ戻っていた。だが、牙の方が先に着いていたのだ。


「牙!」


コウタが叫ぶ。


牙は、ゆっくりと三人の方を向いた。その目が、コウタを捉える。


「……コウ……タ……」


かすれた声が、漏れた。


(コウタ──お前も、人間だ)


牙の目が、さらに濁る。


「牙、待ってくれ! 話を──」

「コウタ、下がってなさい!」


カナが前に出た。


最強クラスの魔女が、本気で杖を構える。彼女の周囲に、魔力が渦を巻いた。


「あんたが何をされたかは知らない。でも、これ以上街で暴れるなら、アタシが相手になるわよ」


牙は、カナを一瞥した。魔女。強い。コウタと行動を共にする者。


牙の中の憎悪が、カナを標的として定めた。


「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!」


咆哮が、ギルドを揺らした。


牙は、地を蹴ってカナに飛びかかる。


「『極光穿牙』!!!」


カナの魔法が、牙の肩を焼いた。肉が焦げる匂いがする。牙はひるまない。そのまま突っ込んでくる。


「なっ──!」


カナは二射目を放つより早く、牙の爪が彼女の腹を切り裂いた。


「────っ」


声にならない悲鳴が、カナの口から漏れる。


彼女の体が、壁に叩きつけられた。血が、床に広がっていく。


「カナ────ッ!!!」


コウタの絶叫が、ギルド中に響き渡った。


---



聖女が、素早くカナの前に立った。


「光よ……!」


彼女の杖から、眩い光が放たれる。閃光が牙の目を焼き、動きを一瞬止めた。


「コウタさん! 今です!」

「わかってる!」


コウタは剣を抜き、牙の前に立ち塞がった。


「牙……やめろ。頼む」


牙の目が、コウタをまっすぐに見つめている。


「……ナゼ」

「え?」

「ナゼ、止メル」


牙は、背中のメスゴブリンを指さした。


「俺ノ、メスハ。オ前タチ、人間ガ……殺シタ」


一言一言が、絞り出すような声だった。


「俺ハ……守レナカッタ」

「牙」

「守ル者ヲ失クシタラ……生キテイチャ、イケナイノカ」


コウタは唇を噛んだ。違う。生きていい。生きていいんだ。

でも──その言葉を、どうやって伝えればいいのか、わからない。


「牙、俺は──」


その時だった。


聖女が放った光が弱まり、牙の視界が回復した。


「邪魔……!」


牙の爪が、聖女を薙ぎ払った。聖女は吹き飛び、壁にぶつかって意識を失った。


「聖女様!」


残るは、コウタだけになった。


---



ギルドの中は、死の静けさに包まれていた。


倒れた冒険者たちは、誰も立てない。カナは壁に沈み、聖女は動かない。血の匂いが充満している。


牙とコウタは、互いに向き合った。


「……牙」

「コウタ」


かつてのように、火花を散らして睨み合う。


でも、違った。

以前の戦いは、互いに背負うものがある者同士の戦いだった。

今は──背負うものを失った者と、背負うものを奪われまいとする者の対峙だった。


「牙、お前は、俺の好敵手だ。だからこそ、言わせてくれ」


コウタは、剣を正眼に構えた。


「お前がメスゴブリンを守ろうとした気持ちも──失った痛みも、少しはわかる」

「……ウソダ」

「嘘じゃない。でも──だからって、こんなことは許されない。お前が傷つけた人たちにも、守るべき人たちがいたんだ」


牙は、何も言わなかった。、


「俺は……お前と戦いたくない。でも、これ以上誰かが傷つくなら──」


聖剣が、白銀の輝きを放ち始める。


「……俺は、お前を止める」


牙は、長い沈黙の後──。


「……戦エ」


コウタの目をまっすぐに見つめ返した。


「戦エ、コウタ。俺ハ……止マレナイ」

「牙」

「殺セ。デナケレバ──俺ガ、オ前ヲ殺ス」


ふたつの目の赤い輝きが、一瞬だけ揺らいだ。


それは怒りでも、憎しみでもなく──ただの、哀しみだった。


---



牙が、先に動いた。


爪が、コウタの胸を引き裂く。コウタの剣が、牙の脇腹を切り裂く。


血が飛び、肉が裂け、骨が軋む。


それは、もはや勝負ではなかった。ただ互いの痛みをぶつけ合うだけの、傷の連鎖だった。


牙の爪が、コウタの肩を抉る。

コウタの剣が、牙の腕を斬る。

牙の蹴りが、コウタの肋骨を砕く。

コウタの突きが、牙の胸を貫く。


それでも、二人は止まらなかった。


「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!」


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」


聖剣が光り、牙の全身が異様な気配を放つ。


ギルドの中が、光と闇に包まれた。


壁が砕け、天井が崩れ、床が抜ける。それでも、戦いは続く。


コウタの鎧『愛羅舞叶』は音を立てて裂け、ずたずたになった。

牙の全身の古傷が次々と開き、体中から血が噴き出す。


互いに、限界を超えていた。


それでも──戦わずにはいられなかった。


---


十一


戦いが始まってから、どれだけ時間が経ったのか。


もはや、誰にもわからなかった。


二人は、瓦礫の上で倒れていた。息も絶え絶えで、動くことすらできない。


コウタの手から、剣が落ちる。

牙の手から、力が抜ける。


「……牙」


コウタが、血を吐きながら言った。


「……お前は……俺の……友達だ」


牙の目が、微かに揺れた。


「……トモ……ダチ……」

「そうだ……だから……殺せない」


コウタは、動かない手を必死で伸ばした。届かない。でも、伸ばさずにはいられなかった。


「……お前の痛みは……俺の痛みだ」


牙の目から、一筋の液体がこぼれた。


血か、涙か、わからない。


「……コウタ……」


牙は、そう小さく呟いて──目を閉じた。


気絶だった。あるいは、心が限界を迎えたのかもしれない。


戦いは、終わった。


---


十二


コウタは、瓦礫の中で意識を手放す直前、誰かの声を聞いた。


「早く! 回復魔法を!」

「カナが……聖女が……!」


遠くで、騒がしい足音がする。ギルドの生き残りたちが、助けを呼んでいるのだ。


(……カナ……無事か)


彼は、横たわるカナの方を向いた。

聖女が、目を覚まして、かすかな光を放っている。カナの傷を癒やす光だ。


(……よかった)


彼は、それだけを確認して、意識を手放した。


---


十三


夕暮れだった。


コウタが目を覚ましたのは、ギルドの片隅に用意された仮設の医務室だった。


「……カナ」


隣のベッドに、カナが横たわっている。包帯だらけだが、顔色は悪くない。寝息が聞こえる。一命は取り留めたのだ。


聖女が、椅子に座ってTL本を読んでいた。彼女も肩に包帯を巻いている。


「……聖女様」

「……お目覚めですか」


彼女は本を閉じて、コウタの顔を覗き込んだ。


「カナさんは大丈夫です。しばらく動けませんが」

「よかった……牙は?」


聖女は、少しだけ沈黙した。


「……地下牢にいます。まだ生きています。でも──」


「でも?」


「誰にも反応しません。目を開けたまま、壁を見つめて、何も話さなくて」


コウタは、ベッドから起き上がろうとした。全身の傷が悲鳴を上げるが、構わなかった。


「……会いに、行きます」


「無理ですよ、動けません」

「でも──」


聖女は、コウタの手を静かに押さえた。彼女の手が、かすかに震えていた。


「……先に、私から謝らせてください」


「聖女様、何を──」

「私は、あの時。光魔法で牙さんを止めたつもりでしたが、それがかえって彼を追い詰めて。それに」


聖女は、少しだけ声を詰まらせた。


「……私はずっと、コウタさんの剣が聖剣であることに、気づこうともしませんでした。『安物』だと、思い込んで」


コウタは、何も言えなかった。


「それから、牙さんの強さも。私は、ゴブリンには強い者がいるはずがないと──そう、決めつけていました。全て遅すぎた。牙さんは、もう」


聖女は、目を伏せた。


「彼は──魂が、壊れてしまったのかもしれません」


医務室に、沈黙が降りた。


窓の外では、夕焼けがギルドを赤く染めていた。


---


十四


地下牢は、静かだった。


牙は、牢の隅で膝を抱えていた。包帯が全身に巻かれているが、その隙間から無数の傷跡が覗いている。背中の火傷の痕は、治るどころか、さらに深く傷ついていた。


彼は、目を開けたまま、壁を見つめている。


何も言わない。何も食べない。ただ、生きているだけだった。


牢の外では、ギルドの職員たちがひそひそと話している。


「どうするんだ、こいつ」

「街に乗り込んできたゴブリンだぞ。処分は決まったも同然だろ」

「でもよ。聞いたか。あのコウタって冒険者が、友達だって」

「ゴブリンと友達? 頭おかしいんじゃねえか」


誰も、真実を知らない。


牙がなぜ戦ったのか。

メスゴブリンがなぜ殺されたのか。

そして──なぜ、牙はまだ生きているのか。


---


夜になった。


コウタは、包帯だらけの体を引きずって、地下牢へ向かった。


「……コウタさん、本当に行くんですか」

「はい」


聖女が、彼に寄り添って歩く。


「止めても無駄なんでしょうね」

「すみません」


地下牢の前に立つ。見張りの職員が、驚いた顔で二人を見た。


「……入れてもらえますか」

「お前、傷だらけじゃねえか」

「かまいません」


職員はため息をついて、鍵を開けた。


牢の中に入ると、牙は相変わらず壁を見つめていた。コウタが近づいても、反応しない。


「……牙」


返事はない。


「お前の、メスゴブリンのことだけど」


少しだけ、牙の肩が動いた。


「ギルドの墓地に、葬ったよ。ちゃんと」


牙の目が、ゆっくりとコウタに向けられた。


「……墓……」

「ああ。小さな墓だ。でも、花を供えた」


牙は、何も言わなかった。でも、その目から、もう涙は出なかった。


「……アリガトウ」


小さな声だった。人間が聞き取れるかどうか、ぎりぎりの声だった。


コウタは、牙の前に座った。


「俺は、お前を助けられなかった。止められなかった。だから──せめて、お前が殺されないようにはする」


牙は、首を振った。


「俺ハ……モウ……死ンダ」

「牙」

「守ル者ヲ失ッタ牙ハ……生キテイル意味ガ……ナイ」


コウタは、牙の手を握った。


「……俺がいる。お前には、俺がいる」


牙の手は、冷たかった。


「トモ……ダチ……カ」

「そうだ」


牙は、長い間コウタの手を見つめていた。


それから、ゆっくりと──本当に、ゆっくりと──


牙の手が、コウタの手を握り返した。


……


それ以上は、何も動かなかった。


牢の中で、コウタはずっと牙の隣にいた。


朝が来るまで、ずっと。


---


夜が明ける。


ギルドの片隅にある小さな墓地に、ふたつの影が立っていた。


コウタと聖女が、新しい墓の前に立っている。


メスゴブリンの墓には、今朝摘まれたばかりの花が供えられていた。


「……コウタさん。牙さんは?」

「地下牢に。でも、いつか──」


彼は、空を見上げた。


「いつか、ちゃんと話せる日が来ると思う」


聖女は、何も言わずにTL本を開いた。


『運命の双璧』の、友の死を受け入れる章だった。


「……これで、何かが変わるわけではありませんが」


聖女は、本を閉じて、墓に一礼した。


「それでも──こうして誰かが覚えていることは、きっと意味があるはずです」


コウタは、うなずいた。


遠くの空で、一羽の鳥が鳴いた。


それは、新しい一日の始まりを告げる、朝の声だった。


---


【第42話「取り返しのつかない音」──了】


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