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第43話「報復」


地下牢に、朝日が差し込む。


といっても、牢の小さな窓からは指ほどの太さの光しか入らない。牙は、その光が壁に作る四角い模様を、ただ見つめていた。


朝が来たことも、昼になったことも、彼にはどうでもよかった。


コウタが去ってから丸一日が経った。差し入れの水と固いパンは手つかずのままだ。包帯は血が滲み、傷口はまだ塞がっていない。冒険者たちと戦った傷、コウタと戦った傷、そして聖剣に焼かれた背中の傷。そのすべてが、牙の体を内側から蝕んでいた。


でも、そんなことは、どうでもよかった。


牙は、手を見る。


メスゴブリンの冷たい頬を撫でた手だ。薬草を受け取った手だ。もう二度と、温もりを感じることはない。


「…………」


声は出なかった。出す理由もなかった。


---



ギルドの仮設医務室では、コウタが包帯を巻き直している最中だった。


「……ジッとしてなさいって言ってるでしょ」


カナが、隣のベッドから苛立った声を飛ばす。彼女はまだ起き上がれない。腹の傷が深く、聖女の回復魔法でも完全には塞がらなかったのだ。それでも意識を取り戻し、こうして口だけは達者だった。


「カナこそ安静にしてなよ」

「あんたに言われたくないわよ。自分の傷を見なさい、骨見えてるわよ」

「大丈夫だって」

「よく言うわ」


カナは天井を見上げて、ぼそりと言った。


「……あのゴブリン、どうするの」

「牙のこと?」

「他に誰がいるのよ」


コウタは、包帯を巻く手を止めた。


「……まだ生きてる」

「そうじゃなくて。ギルドがどうするかって話」


カナの声は低かった。


「城からも使いが来てるらしいわよ。『人語を解するゴブリン』『ギルドを半壊させた個体』。生かしておくはずがない」


コウタは黙っている。


「……処分されるわ。間違いなく」


「させない」


コウタの声が、静かに響いた。


「させないよ。絶対に」


カナは、そんなコウタの横顔をじっと見つめた。言いたいことは山ほどあった。どうやって? お前に何ができるの? あいつは何人も殺したんだよ? でも──言えなかった。


聖女が、医務室の入り口に立っていたからだ。


「……コウタさん。少し、お時間よろしいですか」


彼女の顔は、いつも以上に無表情だった。


---



「城から、正式な通達が届きました」


聖女は、廊下の隅で声を潜めて言った。


「牙さんの身柄を、王都に移送するようにと。そこで正式な裁判を行うそうです」

「裁判……?」

「ええ。人語を解する魔物の裁判は、百年ぶりだそうです」


コウタは、一瞬息を呑んだ。裁判という言葉に、わずかな希望が混じる。


「それって、もしかして──」

「ええ。極刑を免れる可能性も、理論上はあります」


聖女は、少しだけ言いよどんだ。


「──理論上は、ですが」

「どういうことですか」

「今回の件を、王都の教会も注視しています。人と魔物の境界を揺るがす事案ですから。教会としては、牙さんを『言葉を解する知性体』と認定すれば、殺処分ではなく幽閉で済む可能性がある。でも」


「でも?」


「ギルド側は、牙さんの即時処刑を求めています。犠牲者があまりに多いから、と」


コウタは拳を握った。


「……俺は、牙を助けたい」

「ええ、わかっています」

「どうすればいい。何をすれば、牙を助けられる」


聖女は、少しだけ口元を緩めた。


「珍しいですね。コウタさんが、そんなに必死になるなんて」

「……牙は、俺の友達です」


聖女はうなずいた。彼女の中では、もう「ゴブリンと友達」という言葉を疑わなかった。TL本『運命の双璧』の影響かもしれない。あるいは──あの洞窟で見た、死んだ仲間に寄り添う牙の姿が、彼女の何かを変えたのかもしれない。


「一つだけ、方法があります」


聖女は、声をさらに潜めた。


「──移送を、阻止するんです」


---



牙は、目を閉じていた。


閉じると、夢を見る。いや、夢ではない。記憶だ。


メスゴブリンが笑っている。洞窟の入り口で、薬草を摘みながら、小さな花を見つけて嬉しそうに差し出す。牙はそれを受け取って、無言で彼女の頭に手を置く。それだけの、なんでもない記憶。


「……ギ」


目を開ける。牢の中だ。花はない。メスゴブリンもいない。


その時だった。


「おい、ゴブリン」


牢の外に、見張りの男が立っていた。ギルドの職員ではない。王都から来た兵士だ。鉄の鎧に、長剣を帯びている。


「明日、王都に送られるそうだぜ。せいぜい見世物になるんだな」


牙は反応しない。言葉は理解できても、意味を考えようとはしなかった。


「お前が殺した冒険者の遺族が、みんな待ってるぜ。裁判で何を言われても、結局は死ぬんだ。わかってるか」


兵士は、嘲るように笑った。


「お前のメスも、向こうで待ってるかもな。地獄でな」


牙の指が、微かに動いた。


(──メス)


彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、かつての赤い輝きを取り戻していた。


兵士は、その目を見て一歩後退る。


「……な、なんだその目は」

「…………」


牙は立ち上がった。ゆっくりと、牢の鉄格子に近づく。


「さ、触るなよ! ここから出られないんだからな!」

「……ドケ」

「え?」

「ドケ……俺ハ……行カナケレバ」


行く。どこへ? 彼は、考えていなかった。でも、ここにいてはいけない。じっとしていると、メスゴブリンが死んだことを、頭が理解してしまう。


牙は、鉄格子に手をかけた。傷だらけの腕に、力がこもる。


「お、おい、やめろ!」


兵士が剣を抜くより早く、鉄格子が悲鳴を上げた。


──ギィイイイイイイイイインッ!!!


音を立てて、鉄が歪む。牙の腕が、ありえない力で格子をこじ開けていく。


「な、なんだこいつ──!」


兵士が剣を振り下ろす。牙はそれを片手で受け止め、へし折った。兵士は恐怖で腰を抜かし、その場に崩れ落ちる。


「……殺セ」

「ひ、ひいっ!」

「ドウシタ。俺ハ、オ前ノ仲間ヲ殺シタゾ。殺セ」


牙は、兵士の首に手をかけた。その手は震えている。殺したいのか、殺されたいのか──自分でもわからない。


「た、たすけ──」


兵士の悲鳴が、牢屋に響いた。


ギルド中に、警鐘が鳴り響く。


---



コウタと聖女が地下牢に駆けつけた時には、既にすべてが終わっていた。


牙は、地下牢の廊下に立っていた。


周囲には倒れた兵士が三人。全員、気絶している。誰一人殺されてはいなかった。首には手をかけても、最後の最後で力を抜いたようだ。


牙は、自分の手を見つめていた。殺せなかった手を。それとも──殺さなかった手を。


「牙!」


コウタの声に、牙は顔を上げた。


「……コウタ」

「逃げるんだ、牙。王都に送られる前に、今すぐ」


牙は、首を振った。


「……逃ゲル場所ガ……ナイ」

「ある。森がある。谷がある。お前の縄張りだ」

「森ニハ……モウ……メスガ……イナイ」


牙の声が、かすかに震えた。


「イナインダ。俺ノ守ル者ハ……モウ」


コウタは、その場に立ち尽くした。


聖女が、一歩前に出た。


「牙さん、あなたは──」


その時だった。


「そこまでだ」


重々しい声が響き、廊下の向こうからギルドマスターと、数人の重装備の冒険者たちが現れた。全員、武器を構えている。


「脱走とはいい度胸だな、ゴブリン」

「待ってください! 牙は誰も殺していません!」

「今はな。だが、これまでに何人殺した? ガルドたち五人、街の自警団、ギルドの冒険者たち──」


ギルドマスターの目は冷たかった。


「それに、そいつが逃げれば、また誰かが死ぬ。違うか?」


コウタは唇を噛んだ。反論できない。牙が殺したのは事実だ。でも──。


「殺したのは、人間のほうが先です」


聖女が、静かに言った。


「今回のことは、全て発端があります。依頼を受け、メスゴブリンを殺した冒険者たちが、最初の引き金です」


ギルドマスターは、聖女をじっと見た。


「……聖女様。あんた、本気で言ってるのか」

「本気です」

「たかがゴブリンのメス一匹のために、人間五人分の命が帳消しになると?」


聖女は、何も言えなかった。


牙は、そのやりとりを黙って聞いていた。そして──ゆっくりと口を開いた。


「……俺ハ」

「牙」

「俺ハ、死ヌベキダ」


コウタが、目を見開く。


「何言って──」


「守ル者ヲ守レナカッタ。同胞ヲ殺シタ。人間ヲ殺シタ。俺ハ──死ヌベキダ」


牙の目は、驚くほど穏やかだった。怒りも、憎しみも、もはやそこにはない。ただの、諦めだった。


「ダカラ──殺セ」


ギルドマスターは、ゆっくりと剣を抜いた。


「……わかった」


「待ってください!!」


コウタが、牙の前に立ち塞がる。


「どいてくれ、コウタ」

「いやだ!」

「これはギルドの決定だ。逆らえばお前もただでは済まないぞ」

「それでもいい! 牙は、俺が守る!」


ギルド中が静まり返った。


人間が──ゴブリンを守る。誰もが耳を疑う言葉だった。


「……コウタ」


牙が、背後から声をかけた。


「……ドイテクレ」

「牙」

「俺ハ……モウ、イイ」


その声があまりに静かで、コウタは言葉を失った。


(──牙は、本当に死にたいのか)

(──違う。違うだろ、牙)


コウタは、振り返って牙の目を見た。赤い目が、真っ直ぐに見つめ返す。死にたい目じゃない。死ぬべきだと思い込んでいる目だ。


「……どかない」


コウタは、剣を抜いた。


「俺は、お前を見捨てない。友達だからだ」


牙の目が、微かに揺れた。


---



にらみ合いが続く中、廊下の奥から、カナがふらふらと歩いてきた。包帯だらけで、杖を杖代わりにしている。腹の傷が痛むのか、一歩ごとに顔をしかめている。


「……なにやってんのよ、バカ」


彼女は、コウタの隣に立った。


「カナ、動いちゃダメだ!」

「うるさいわね。こんな騒ぎの中で寝てられるわけないでしょ」


彼女は、ギルドマスターを睨みつけた。


「マスター。アタシからもお願いするわ。そのゴブリンを、引き渡して」

「カナ、お前まで」

「こいつは、アタシが半殺しにされた相手よ。でも──」


カナは、一度だけコウタを見て、それからまたマスターに向き直った。


「アタシのバカが、こんなに入れ込んでるんだもの。仕方ないから、アタシもつきあうわよ」


「……正気か」

「正気よ。ついでに言っとくけど、アタシの魔法、加減したらギルドごと吹き飛ぶわよ」


ギルドマスターの顔が、苦々しげに歪む。カナの実力は、この街では誰もが知っている。本気で暴れられては敵わない。


「……全く、君たちは」


マスターは、深くため息をついた。


その時だった。


「────ッ!」


聖女が、突然杖を掲げた。


「皆さん、伏せてください!」


ギルドの屋根が、轟音と共に吹き飛んだ。


---



瓦礫が降り注ぐ中、空から降り立ったのは──。


王都の教会騎士団だった。


白銀の鎧を纏い、聖印の刻まれた盾を構えた騎士が五人。その背後には、魔法使いが二人。さらに、最後に降り立ったのは──。


「聖女様、お迎えに上がりました」


白い衣を纏った壮年の女性だった。聖女と同じ、光魔法の杖を持っている。聖女の顔が、こわばるのがわかった。


「……教母様」

「教会の至宝たる聖女が、こんな辺境でゴブリンごときに入れ込むとは」


教母と呼ばれた女性は、冷たい目で聖女を見下ろした。


「それに、聖剣の気配が絶えたと聞いて来てみれば──これは、なんたる体たらくですか」


聖女は、ぐっと杖を握りしめた。


「聖剣は、見つかっております」

「ほう」

「ですが──それは、今は申せません」


聖女の目が、ちらりとコウタを見た。コウタは、その目で理解した。彼女はまだ、コウタの聖剣のことを誰にも話していない。つまり──守ろうとしているのだ。


「ふむ。まあ、聖剣のことは後でよろしい。まずは、そのゴブリンです」


教母が、牙を見た。


「人語を解するゴブリン。街を襲い、ギルドを壊滅させた変異種。これを教会が預かります」

「預かる?」

「王都に移送し、解剖します。人と魔物の境界を研究するために」


コウタの顔から、血の気が引いた。


「解剖……? それって」


「殺して、調べるのです。生きたまま」


教母は、にっこりと微笑んだ。


「教会の研究に協力できるのですから、このゴブリンも本望でしょう」


「──ふざけるな!!!」


コウタの絶叫が、瓦礫の山に響いた。


彼は、聖剣を抜いた。刃が、白銀の光を放つ。


教母の目が、剣に見入った。


「……その剣は」

「牙は、俺が守る。誰にも、触らせない!」


コウタの全身から、深紅のオーラが放たれる。鎧『愛羅舞叶』が呼応し、聖剣が輝きを増す。


「……なるほど。聖剣は、そこに」


教母の顔から、笑みが消えた。


「騎士団。聖女様を保護しなさい。ゴブリンは、生死を問わず捕獲せよ」


五人の騎士が、一斉に動いた。


---



乱戦だった。


コウタは、二人の騎士を同時に相手にしながら、牙の前から動かない。聖剣の輝きが騎士の剣を弾き飛ばすが、相手は訓練された教会騎士だ。連携し、間合いを詰め、コウタの腕や足を容赦なく斬りつける。


聖女は、教母と対峙していた。二人の光魔法がぶつかり合い、ギルドの残骸が閃光に包まれる。


「聖女様、目を覚ましなさい。あなたには、勇者と婚姻し、聖なる血筋を継ぐ使命があるのです」

「……使命」

「そうです」

「私の使命は──」


聖女は、TL本を懐から取り出した。


「──これを見つけた時から、変わりました」


彼女は、ページを開く。『運命の双璧』の最終章──「友のために戦う戦士の章」。


「私は、ただ聖剣を探すだけの聖女ではない。誰かを守るために、聖女になったはずです」


光が、激突した。


カナは、動けない体で魔法を放つ。教会の魔法使いたちと撃ち合いになりながら、彼女は叫んだ。


「コウタ! アンタ、また無茶して! 後で覚えてなさいよ!」

「上等だ!」


牙は、そのすべてを、呆然と見つめていた。


(──なぜだ)

(──なぜ、人間が、俺を守るために戦っている)


彼には、理解できなかった。人間は、牙にとって敵だった。自分たちを追い払い、仲間を殺し、メスを殺した。憎むべき存在だ。


なのに、コウタは戦っている。聖女も、魔女も。


(──なぜ)


牙の胸の中で、何かが軋んだ。憎悪でも、悲しみでもない。もっと深い何かが、ひび割れた鎧の隙間から流れ出そうとしていた。


「……コウタ」


その時だった。


一人の騎士が、コウタの背後に回り込んだ。剣が、無防備な背中に向けられる。


「うおおおおおおおっ!!」


牙は、気がついた時には飛び出していた。


騎士の剣を、素手で掴む。刃が、牙の手のひらを切り裂き、血が噴き出す。それでも、彼は離さない。


コウタが、振り返った。


「牙!」

「……コウタ……後ロ……!」


牙は、騎士を突き飛ばした。コウタはその隙に、騎士の腹に剣の柄を叩き込み、戦闘不能にする。


「……なんで、助けた」

「……ワカラナイ」

「牙」

「俺ハ……俺ハ……」


牙の目が、揺れていた。そこには、もう憎悪の赤い輝きはない。ただ、迷子のような光があった。


---



乱戦の最中、教母が魔力を高めた。


「もう終わりです。このままギルドごと、ゴブリンを封印します」


聖女が、前に立ち塞がる。


「させません!」

「退きなさい。あなたはまだ、本当の光魔法を知らない」


教母の杖が、最大の光を放とうとした瞬間。


──牙が、動いた。


「ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!」


咆哮が、戦場を貫いた。


それは、かつての戦いの咆哮とは違っていた。

怒りでも、憎しみでも、復讐でもない──ただ、守るための咆哮だった。


(──俺は)

(──まだ、守れるのか)


牙は、教母の前に立ち塞がった。全身から、異様な気配が放たれている。


「……な、なに?」

「……コウタ……聖女……魔女……下ガッテ」


教母が魔法を放つ。光が、牙を包む。


牙は、全身を焼かれながら立っていた。背中の古傷が開き、血が噴き出す。爪が剥がれ、皮膚が裂ける。それでも──動かない。


「牙! やめろ、死んじゃう!」


コウタが走ろうとするのを、カナが止めた。


「……見なさい」

「カナ!」

「あいつの目を、見てあげなさい」


牙の目は、真っ直ぐに教母を見据えていた。


「……俺ハ……守ル」

「なにをです」

「コウタガ……俺ヲ守ッタ。俺ハ……コウタヲ守ル」


教母の顔が、驚愕に歪む。


「まさか──ゴブリンが、人間を守るですって?」


「……ソウダ」


牙の口元が、歪んだ。牙を剥いて笑ったのかもしれない。


「俺ハ……血塗レノ牙ダ。俺ガ守ルト決メタ者ハ──誰ニモ殺サセナイ」


光が、収まった。


全身を焼かれながらも、牙は倒れなかった。


聖女が、教母に向かって言った。


「……教母様。これでわかりましたか」


「……なにがです」


「彼は、言葉を解するだけじゃない。誰かを、守ろうとしている。人間を。それは──」


聖女は、一歩前に出た。


「彼が、『知性体』である何よりの証です。そして教会法において、知性体を解剖することは禁じられています」


教母は、唇を噛んだ。教会法を持ち出されては、反論できない。


「……よろしいでしょう。ですが、聖女様。いずれあなたは、自分の選択の責任を取ることになりますよ」

「承知しています」


教母は、騎士団を引き連れて、去っていった。


---


聖女は、杖を下ろした。肩で息をしながら、何かを堪えるように胸に手を当てた。


「……これで、王都の教会は当分動けません。牙さんの身柄は、ギルド預かりのままでしょう」

「ありがとう、聖女様」

「……いいえ」


聖女は、TL本を取り出した。


「ただ、研究の結果を実践しただけですから」


本は、光魔法の応酬でボロボロになっていた。彼女はそれを、大切そうに懐にしまった。


---



夜が来て、戦いの痕があちこちに残るギルドに、静けさが戻った。


地下牢ではなく──ギルドの小さな物置部屋が、牙に与えられた。鉄格子はついていない。鍵もない。ただの部屋だ。


「逃げないんですか」


聖女が戸口に立って尋ねると、牙は小さく首を振った。


「……逃ゲナイ」

「なぜです?」

「……コウタガ、守ルト言ッタ。俺ハ、コウタヲ守ルト決メタ。ダカラ、逃ゲナイ」


聖女は、少しだけ微笑んだ。


「そうですか」


牙は、窓の外を見ていた。今日は満月だ。月明かりが、森を銀色に照らしている。かつて、メスゴブリンと暮らした谷も、今は月明かりの下にあるだろう。彼女の墓も。


「……月ダ」

「ええ。きれいですね」


牙は、何も言わなかった。でも、その目に、一瞬だけ光が戻ったように見えた。


コウタが、廊下から顔を出した。


「牙、メシ食ったか」

「……食ッタ」

「よし。じゃあ、ちょっと付き合え。屋上に来い」


「……屋上?」

「月がきれいなんだ。付き合えよ」


牙は、少しだけ困ったような顔をしてから、立ち上がった。


---


屋上では、カナが先に座っていた。包帯姿のままだが、手にはいつもの紅茶が握られている。


「遅かったじゃない」

「カナこそ、寝てなきゃダメだろ」

「うるさいわね。月見くらい、いいでしょ」


牙が、おそるおそる屋上に出る。カナは一瞥しただけで、特に何も言わなかった。


聖女も、いつの間にか隣に座っている。


四人は、瓦礫の残骸の隙間から見える満月を見上げていた。沈黙が続く。


先に口を開いたのは、意外にもカナだった。


「……ねえ、牙」

「……何ダ」

「あんた、アタシのこと、半殺しにしたの、謝らないわけ?」


牙は、一瞬固まった。コウタが慌てて口を挟もうとする。


「カナ、それは──」

「……ス……スマナカッタ」


かすれた声で、牙は言った。


「アノ時……俺ハ……我ヲ失ッテイタ。守ル者ヲ失イ……何モ見エナカッタ。オ前ハ……コウタノ守ル者ダッタノニ」


カナは、しばらく牙を見つめていたが、やがてふいと顔を背けた。


「……ま、いいわ。アタシも加減しなかったしね」

「カナ……」

「でも、もう二度とやったら承知しないから」

「……ワカッタ」


コウタは、ほっと息をついた。聖女は、無表情のまま月を見上げている。


「それにしても」


カナは、紅茶を一口飲んでから言った。


「アタシの鎧、こんなにボロボロにして。コウタも大概だけど、あんたも大概ね」

「……愛羅舞叶……カ」

「え?」

「アノ鎧……コウタノ、大事ナ鎧ダロウ。守ル者ノ鎧ダ。俺ハ、アレヲ傷ツケタ」


牙は、カナの方を向いた。


「……ススグニハ無理ダロウガ。イツカ、埋メ合ワセヲスル」


カナは、驚いた顔をしてから、ふっと笑った。


「……ゴブリンが、アタシに借りを作るってわけ」

「……ソウダ」

「百年早いわよ」


でも、その声は優しかった。


---


月が、雲に隠れる。


聖女が、ぽつりと言った。


「……私の知っているTL本に、こんな一節があります。『失ったものは帰らない。でも、新しい何かを見つけることはできる』と」

「あら、珍しく普通の引用じゃない」

「たまには、研究以外の読み方もします」


聖女は、少しだけコウタの方を向いた。


「コウタさん。私、聖剣のことは、もう少しだけ秘密にしておきます」

「え?」

「あなたが勇者だということも、今はまだ。王都に知られたら、面倒なことになるので」


カナが、声をあげた。


「ちょっと、それアタシがずっと隠してきたやつじゃない!」

「ええ。今度は私が隠す番です」

「……なによそれ」

「研究の成果です」


二人のやりとりを、コウタは苦笑いで聞いていた。


牙は、月を見上げている。その横顔は、かつての戦士の顔というよりは──ただ、静かに夜空を見つめる者の顔だった。


彼の手には、いつの間にか、小さな花が握られていた。屋上の隅に咲いていた、雑草の花だ。


彼は、それをそっと月明かりに差し出した。


「……メス」


誰にも聞こえない声で、牙は呟いた。


その花は、彼女が最後に摘んでいた花に、少しだけ似ていた。


月明かりだけが、それを見ていた。


---


【第43話「報復」──了】


---



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