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あなたの吐息の孕む熱

 翌朝、エレオノールは鏡の前で侍女に着替えを手伝ってもらいながら、昨夜の出来事を思い出していた。

 馬車の中で辺境伯に唇を奪われた瞬間、自分の胸がどれだけ大きく高鳴ったかを思い出し、思わず頬が熱くなる。

 彼の顔が近づいてきた時、エレオノールは一瞬、現実か幻かを疑った。

 レオンの顔が視界を満たし、唇が触れ合った瞬間。その熱に驚いて思わず目を見開いた。

 彼の唇は力強く、しかし優しく、まるで感触を確かめるようにエレオノールの唇に触れる。息が奪われ胸が詰まった。


「……嫌…だったか?」


 一瞬彼が顔を離し、静かに尋ねてくる。

 ノノは薄く唇を開いたまま言葉を失っていた。心の中では驚きと喜びと、そして少しの恐怖が入り混じっていた。しかし、彼の問いかけに対して否定の意思を示すこともできず、ただ視線をさまよわせていた。

 レオンはそんな彼女の様子を見て、再び囁く。


「拒まないなら、もう一度…」


 その言葉と共に、かすかに濡れた音を立てて再び唇が重なった。

 ノノは彼の腕にぐいと引き寄せられ、自然と体を預けてしまう。膝の上に抱き上げられて胸の鼓動が強くなり、思わずレオンの胸元に縋るように手を置いた。

 彼の腕の中にすっぽりと包まれる。ダンスのときにたくましいと感じたその胸に、完全に体を委ねてしまう。

 蜜を味わった蝶がひらりと風に逃れるようにノノの唇が僅かに離れ、喘ぐと、すぐにレオンの唇がそれを追ってきた。

 吐息が、熱い――。

 彼の熱を感じながら、何度も何度も唇が重なり合う。

 レオンの手がノノの背に回り、彼女をさらに強く抱き寄せたとき、彼女の心の中にはもう逃げる選択肢はなかった。

 彼の唇が彼女の唇だけでなく、頬、首筋へと移っていく。自分がどんどん深みに引き込まれていくのを感じていた。

 もしあのとき、馬車が辺境伯邸に到着しなかったなら――その先に何があったかを考えると、ノノはますます顔が赤くなる。


「あの……エレオノール様、もしかしてお熱でも…?」


 着替えを手伝っていた侍女がノノの顔が赤いのに気づいて心配そうに声をかけてくる。

 ノノははっと我に返り、慌てて首を振った。


「い、いいえ、大丈夫です。ただ少し考え事をしていただけですから」


 侍女は安心した様子で微笑み、ドレスの着付けを終えた。

 ノノの心は落ち着かなかった。昨夜のこと、一体何だったのか――考えようとしていると、急に部屋の扉がノックされた。侍女の声が用件を告げる。


「エレオノール様! お手紙が届きました。早馬で来たとかで…」


 きっと義父からの返事だと気付いたノノは、すぐに入室を許可した。

 受け取った手紙の署名は案の定、義父のもの。すぐに封を切ろうとするが、それより先にふたたびドアがノックされる。

 どうぞ、と声をかけると入室してきたのは老年の侍女頭だった。彼女は普段ならレオンについているはずなのにどうして…と疑問に思うと、それに答えるように彼女が告げた。


「ガブリエル様がお越しです。旦那様とエレオノール様とご面会なさりたいと」


 ガブリエル、ここに来たばかりの頃に一度だけ見かけたレオンの叔父だ。使用人の間では口うるさいことで知られる人物。

 彼がこんな早朝から呼び出してきたことに、エレオノールは嫌な予感を抱きながら急ぎ支度を済ませて応接間へ向かった。

 先に部屋の前で待っていたレオンと共に応接間に入ると、ガブリエルの顔には怒りがはっきりと浮かんでいた。彼はレオンに向かって厳しい声で言い放つ。


「勝手に婚約を発表するとはどういうことだ! しかもクロワザン家だと!? あの家に娘がいないことは私も知っているぞ!」

「叔父上、大きなお声を出さないでください。ノノが驚きます」


 レオンがそう諌めたが、残念ながらそれは逆効果だった。ぎょろりとガブリエルの目がノノに向けられる。


「これは例の、お前が雇い入れた侍女だろう!」

「ええ、そうです」

「まさか平民の娘をクロワザン家の娘と身分を偽って婚約などしたのか!?」


 未来ある辺境伯のやることではないと叫ぶガブリエルの激怒した様子は、かなり鬼気迫っていた。ともすれば自分は彼に斬られて死ぬかもしれない。そんな恐怖さえ感じるほどだったが、レオンが視線を遮るようにノノの前に割り入った。


「叔父上、重ねて申し上げますが声を落としてください。事情があってのことなのです」


 流石に声のボリュームが大きくなっていたことに気づいたか、ガブリエルは咳払いをした。

 その間にレオンが振り返って、ノノの腕にそっと手を触れる。


「大丈夫だ、きちんと話をしてくる」


 そう言い残して、レオンはガブリエルに「隣で話しましょう」と誘いかけて隣室に続く扉を押し開く。

 二人がそちらの部屋にこもってしまったので、ノノは一人、応接間で待つことになってしまった。


(もしレオン様が叱責を受けてしまったら…お役目の為にこんな無茶をしているのに…)


 レオンが自分の存在のせいで彼の叔父からの怒りを受けていることが心苦しくて仕方なかった。

 刻一刻と時間が過ぎてゆく。彼女の胸の中の不安も時間と共に大きくなり、手のひらには冷や汗が滲んでいた。

 どれほどの時間が経っただろうか。やがて隣室との間の扉が開き、レオンが出てきた。彼の表情から何かを読み取ろうとするが、彼はただエレオノールに微笑みかけるだけだった。


「大丈夫だ。叔父上が君と話したいと言っているから、少しお喋りに付き合って差し上げてくれないか」


 あれほど激怒していた人との『お喋り』がどういうことになるのか、想像することもできない。

 おそるおそる部屋に入ると、ソファに深く腰掛けたガブリエルが厳しい表情で彼女を見つめていた。


「そこに座ってくれ」


 と、向かいを示してぶっきらぼうに彼は言った。

 ノノは喉が乾くのを感じながら腰を下ろす。ガブリエルはしばし彼女を見つめた後、問いかけた。


「レオンのことをどう思っている?」


 その問いに、エレオノールは考える。しかし、ほとんど間を置くことなく彼女は真っ直ぐにガブリエルを見据えて答えた。


「貴族社会での評価は私にはわかりかねますが、屋敷の者にも領内の者にも慕われている姿は、領主としてあるべき素晴らしいお姿だと思います。ひいてはそれが貴族社会における評価となり、今以上に辺境伯様の名声が高まることを心から願っております。そして、そうなると私は確信しております」


 ガブリエルは唇を引き結んで、しばらくの間、彼女をじっと見つめ続けた。ノノはその視線に耐えながら心の中で祈るように思った。


(お願いです…どうか、レオン様に害が及びませんように…)

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