その一線を
レオンと共に馬車で訪れた彼の親友フォンテーヌ公爵の邸宅は大変に立派なものだった。
しっかりとドレスアップしてきたものの緊張を隠せないノノに、向かいの席のレオンが微笑む。
「トリスタンは私の親友でもあり、よき片腕でもある存在なんだ」
「片腕…ということは…?」
「そう、贋金事件についても特別に事情を説明し、協力してもらっている。とはいえ彼の奥方のオデットは事情を知らないので事件の話をしてはいけないよ」
「承知いたしました」
レオンが一人で事件のことを背負っているわけではないということを知ることが出来ただけで、ノノはなんだかほっとしてしまった。
しかし、それなら気になるのは自分についてのことだ。
「あの、私についてはどのように…?」
「君が手伝ってくれていることは知っているが、偽の婚約者だとは説明していない。だから本物の婚約者として振る舞って欲しい」
「……はい、精一杯努めます」
こくり、と頷くノノの両膝の上で握りしめられた手をレオンがぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だ。君はよくやってくれている。どこに出しても恥ずかしくない私の婚約者だよ」
レオンの笑顔を真正面から受け止める形となったノノは耳まで熱くなる思いで俯いた。
けれども馬車が玄関前のポーチに到着して、顔を下に向けてもいられなくなる。
馬車の扉が開いたら、『本物の婚約者』らしく振る舞わなければならないからだ。
二人で並んで階段を上がっていくと、玄関に立った公爵夫妻が優雅に微笑みながら迎え入れてくれた。
「招待ありがとう、トリスタン」
「こうして招待するのは久しぶりだ。多忙な中よく来てくれた」
レオンより少し年長のトリスタン・ド・フォンテーヌ公爵が笑いながらレオンと悪手を交わす。その隣に立ったフォンテーヌ夫人はノノに微笑みかけてきた。
「ようこそお越しくださいました。エレオノール様、お二人が揃ってお越しになるのを楽しみにしておりました」
夫人の言葉にノノは深々と頭を下げ、礼儀正しく応える。
「オデット様、お招きいただきありがとうございます。このような素晴らしい機会をいただき光栄です」
案内された広間には上品で豪華な食器が並べられていた。食事の席では、公爵が穏やかな口調でレオンに話しかけた。
「爵位を継がれてからというもの多忙極まる様子で、私たち友人としても無理をしているのではないかと心配していたんだ」
「ああ…目が回るほどだった」
「ご両親が相次いで亡くなられた悲しみも癒えぬうちに、領地経営や国政の重責を担うことになって、良き女性を妻に迎える時間もなかったから……」
ノノの胸はツキンと痛む。
『エレオノール・ド・ベルトラン』は、大変な役目を担うレオンを支えるべき婚約者の立場でありながら、死を偽り身を隠してしまった――。
ノノの内心に気づくことなく、そこまで言った公爵は優しい眼差しでレオンを見つめた後、エレオノールに向けて微笑んだ。
「ですが、こうしてエレオノール嬢が来てくれたおかげで、レオンもやっと心安らぐ時間が持てるようになったのでしょう。友人として、これ以上の喜びはありません」
その言葉を受け、ノノは胸の奥に温かいものを感じた。
今こうして別人としてではあるけれども彼の隣にいて、少しでも力になることができているなら、本当に嬉しい。
「公爵様、ありがとうございます。レオン様にお心の休まるひとときを持っていただけているのなら、私もこの上なく嬉しく存じます」
ノノが微笑んで礼を述べると、公爵は嬉しそうに頷いた。
向かいの席のレオンの表情も和らいでいて、彼のことをこんな風に立場を超えて気遣い想ってくれる友人がいることをノノは嬉しく思うのだった。
食後、公爵夫妻から隣のサロンでダンスでもと誘われてノノは戸惑いながらもレオンに手を引かれ部屋を移った。
待ち遠しそうにしていた演奏家たちが音楽を奏で始め、美男美女の公爵夫妻が息ぴったりのダンスを踊り始める。レオンがノノの腰をそっと抱いて耳元に囁いた。
「任せて」
リードをとるレオンの胸元に寄り添えば、彼の意外なまでの逞しさに鼓動が激しくなってしまう。
彼のリードに身を任せて、ノノは彼の腕の中で静かに踊った。
演奏が奏でる柔らかなリズムに合わせて、足を運ぶたびにレオンの温かい手の感触がノノを包み込む。
彼の手に導かれながら、視線を交わすたびに、レオンの優しげな微笑みに胸がドキドキと高鳴るのを抑えることができなかった。
「君は本当に綺麗だ」
不意にレオンが囁く。
その声はまるで音楽に溶け込むかのように優しく、ノノの耳元に響いた。
彼の眼差しには熱が宿っているようで、見つめられるとさっと頬が熱くなった。
『偽りの婚約者』としての自分であることを忘れてしまいそうになるほど、彼の視線はまっすぐだった。
ノノは彼の胸元に寄り添いながら、心の中で静かに自分に言い聞かせた。
これはあくまで役割、贋金事件の解決のために必要な振る舞いなのだと。
だが、その思いとは裏腹に、レオンの腕の中で踊るひとときがこんなにも幸せで満ち足りたものであることに、心が揺さぶられていた。
ダンスが終わると、公爵夫妻から「本当にお似合いの二人」と賞賛された。
さらには「結婚式の招待を楽しみに待っている」と笑顔で言われて、ノノの胸は再び重たくなった。
笑みを浮かべてそつなく礼を述べたものの、内心では後ろめたさが募っていた。
レオンを大事に想う人々の期待を裏切り、偽りの婚約者として彼の隣に立つことが、どれほど申し訳ないことなのか――その思いがノノの心を占めていた。
公爵夫妻に別れを告げ、レオンと共に馬車に乗り込む。
彼の隣に座り、今日の出来事を振り返りながらも、ノノは心の中で複雑な感情が渦巻いていた。
屋敷へ戻る道中、レオンはふとノノの方に顔を向けて優しく問いかけた。
「今夜はどうだった?」
ノノは一瞬、答えを迷った。しかし、正直な気持ちを伝えることが必要だと感じ、静かに口を開いた。
「とても楽しかったです。旦那様がフォンテーヌ公爵様をご親友とお呼びになられた理由がよくわかりました」
「ふふ、そうか」
嬉しげにレオンが笑った。
トリスタンとレオンはいかにも気のおけない友人といった様子で、会話の端々で立場を忘れてじゃれあう子供のような様子を見せていた。
フォンテーヌ夫人はそれを微笑ましく眺めており、ノノもまた彼らの気安い会話が嬉しくてついつい笑顔になってしまったほどだ。
それでも、だからこそ、言わなければいけないことがあった。
「おそれながら、あまり私を私的な場に連れて行かないほうが良いのではないでしょうか?」
「…どうして?」
「贋金の事件が解決した後、婚約を解消いただいたら私はただの平民として身を隠すことができます。でも、旦那様に傷がついては……」
わざわざ友人にも紹介するほどの婚約者と別れることになったとなれば、レオンを想う周囲の人々はまた彼のことを案じて心配するだろう。
そうならないようにするためには、私的な場には連れて行くべきではないとノノは考えた。
レオンはノノの言葉に一瞬黙り込んだ。
彼の横顔は静かで、何を考えているのか読み取ることはできなかった。だが次の瞬間、彼は彼女の顔を引き寄せる。
「…!」
「傷なんて構うものか」
彼は小さくそう呟いて、目の前の『婚約者』の唇に自らのそれを重ねた――。




