「臨時」婚約者という立場
ノノの脳裏をよぎったもの。
それは彼女の父、フィリップ・ド・ベルトランが騙された事件のことだった。
父が大金を騙し取られ、侯爵家の名誉を守るために彼女が世間から身を隠すことを決意したあの出来事。
その記憶が突然、鮮やかによみがえり、ノノの心に一つの疑念が生まれた。
贋金が多く見つかっている場所、それは五年前に父を詐欺にかけた犯人が当時根城にしていた場所に近かった。
そして贋金の流通が始まったのもおよそ五年前と言われている。
心臓がドクンと強く打ち、ノノは唇を噛んだ。
(父上が巻き込まれたあの事件と、この贋金事件が…関係している…?)
その考えが頭に浮かんだ瞬間、ノノは衝撃を受けてその場で立ち尽くした。
まるで氷のように冷たい感覚が背筋を駆け上がり、彼女は地図を凝視したまま動けなくなってしまった。
5年前、父が財産を奪われたときに、騙し取られたのは金貨ではなく銀貨以下の少額貨幣だった。なぜ、あのとき商人を名乗った者たちは金貨ではなく銀貨や銅貨での支払いを求めてきたのだろうか?
何か言い訳をしていたとは思うが、なにせ五年前のこととあって細かくは思い出せなかった。
それでも、いま贋金が広まっているこの状況と、自分の父が遭った事件には何か関連があるのではないか――その考えが頭を離れなかった。
もしかして、いま贋金の材料として使われているのは父が奪われた金なのではないのだろうか――
彼女の顔色が変わっていることに気がついてレオンが心配そうに声をかけてきた。
「どうかしたか?」
ノノは一瞬、彼に全てを打ち明けたいという衝動に駆られた
しかし、彼にとって自分はあくまで侍女。エレオノールとしての経験を明かすわけにはいかなかった。ひそかに深呼吸して、できるだけ自然に振る舞う。
「いえ。父が商売をしている地域にも贋金が流通しているようなので、不審な話を聞き及んでいないか手紙で聞いてみようと考えておりました」
「そうか。市井の情報が得られると私も助かる」
レオンは優しく頷いてくれた。その眼差しには彼女への深い信頼と心配が感じられた。
その視線を受けながら、エレオノールは心の中で申し訳なさを覚えつつも、話題を変えることに成功してほっとするのだった。
それからしばらくレオンと話をしたあとで部屋に戻ると、ノノはすぐに義父テオドールにあてて手紙を書き始めた。
義父に対しては、辺境伯の侍女として仕えることにして以降、幾度か手紙を書いているのだが、あちこちを旅する商売の都合上なかなか連絡を取り合うことが出来ずにいる。
本来なら自分が義兄と共に向かうはずだった取引先への旅も中断してしまい、そのまま義兄がこの地にとどまることになってしまったので、もしかしたら信用を損なって後始末に追われるようなこともあったのかもしれない。
重ねて迷惑をかけている現状を詫び、『今は辺境伯様の元でよくしていただいております』と綴った。
そして、辺境伯が市井の状況を気にかけていること、怪しい商人がうろついているという噂があり心配していることなどを書いて、もしそうした噂について心当たりがあれば教えて欲しいという内容にした。
贋金については触れることなく、けれどもこうして書けば勘の鋭い義父ならばきっと文面に滲む危機感に気づいて情報を知らせてくれるだろう。
ノノはしっかりと封をして手紙を使者に託したのだった。
■
その後もエレオノールはレオンの婚約者として、彼の邸宅での日々を過ごしていた。表向きは辺境伯の溺愛を受ける婚約者として、彼女には豪華な婚約祝いの贈り物が届けられたり、遠方から異国の商人や貴族が訪ねてきたりすることが増えていた。
彼らが『辺境伯の婚約者エレオノール嬢』を通じて辺境伯との関係を深めようとする中、ノノは賢明に対応した。
知的で魅力的な会話で彼らの心を掴み、次第に彼女自身の人脈も広がっていった。
ある日、ヴィーニュ=ドール領内に館を構えるレオンの親族でもある伯爵夫人の茶会への招待を受けた。
近隣の貴族女性が集まる会との説明であったので、ノノは一人で訪ねることになり緊張しながら出席の返事をした。
当日、出向いた伯爵邸の広間には多くの客人たちが訪れていた。
レオンの婚約者としてエレオノールは客人たちの注目を一身に集める形となり、まずはこの茶会の主人である伯爵夫人に笑顔で挨拶をする。
「お招きいただきありがとうございます」
「いいえ、こちらこそお越しいただき光栄でございます」
夫人はちょうど母親くらいの年齢の優しげな面差しの人だった。
「初めてお目にかかりますが、大変にお美しいお嬢様ですこと。お召し物も素敵でいらっしゃいますわ」
おっとりとした口調もどことなく亡くなった母を思わせる。緊張が少しほぐれて、ノノは微笑みを浮かべた。
「これは辺境伯が選んでくださったものなのです」
「まあ。ヴィラール辺境伯は貴女にお似合いのお色をよく分かっていらっしゃるのね」
夫人は感心したように頷き優しく目を細めた。
茶会の間、ノノは『エレオノール』として恥じるところのないよう、微笑みを絶やすことなく会話を続けた。レオンの婚約者として、彼女はどんな場面でも堂々と振る舞わなければならなかった。
同席した客人たちはそうして彼女の礼儀正しさと知的な会話に感心し、彼女の存在がますます注目を集めるようになっていた。
またある時は、商人が美しい布を持ってエレオノールに近づいてきた。その布は赤銅色で、光を受けるたびに流れるような輝きを放つのが見事だった。
「エレオノール様、この布はいかがでしょうか? 都から取り寄せたもので、非常に希少なものなのです」
商人は誇らしげに布を広げて見せた。エレオノールはその布の美しさに目を奪われる。
「なんて美しい…」
彼女が感嘆の声を上げると、商人はぐっと身を乗り出して熱心に続けた。
「では! この布でドレスをお仕立てしてお届けいたします。ぜひお召しください」
うっかり褒めただけで商人はもうこのまますぐにも仕立屋に駆け込みかねない勢いだ。
ノノは内心しまったと思いつつ、ゆったりと言い足す。
「とてもありがたいお申し出ですが、この色は私よりも、きっと琥珀色の瞳を持つ方にふさわしいのではないでしょうか」
にっこりと微笑んで、ノノは婉曲に商人の申し出を断る。
辺境伯の寵愛を受けている自分に対して下の立場の人々が忖度したり、過剰に気遣ったり、悪く言えば賄賂のように貢物をしようとするのはよくあること。だからノノは常に自分の振る舞いを律して、そうした忖度や過剰と思われる献身を避けなければならない。
せっかくの申し出を断ったことで商人は少し驚いた様子だったが、すぐに布を片付けた。そして「次こそはお眼鏡に適う商品をお持ちいたします」と張り切った様子で帰っていったのだった。
「さすがエレオノール様、謙虚でいらっしゃいますね」
辺境伯邸の使用人たちはそのやり取りを見て感心した様子で頷いていた。
彼らは主人であるレオンを敬愛している。最初に侍女という立場で屋敷に入ったことに加えて、こうした常日頃の振る舞いのおかげでノノは屋敷の使用人たちからも主人の横に立つ未来の女主人候補として認めてもらえているのだった。
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ある時、朝食を共にしている最中にレオンがふと真面目な顔で切り出した。
「今晩、私の親友が食事に招いてくれたので共に行ってもらえるかな」
もちろん、ノノに否やはない。
「はい。よろこんでご一緒いたします」
頷いてそうは言ったものの、ちらりと疑問が頭をよぎる。
婚約者と発表した以上、お祝いを述べに来る人々がいるのはわかるし、表向きそれに対応する必要があるのも分かっているのだが、親友とまで呼ぶ人との私的な場にまで自分を連れ出しても良いのだろうか。
贋金の一件が片付けば自分はお役御免となるのに…?
ノノはいささか不可解な気分になるのだった。




