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第8話  それぞれの想い

「なぁ聞いたか? このめぇ皇宮で火事があったんだとよ」

「はぁぁ? まーた陛下がブチギレたって言うのかよ」

「それがよ、その通りらしいぜ。なんでも『お茶の精』が陛下を止めたんだと。すんげぇ別嬪べっぴんだって話だ」

「ウホッ! そりゃ一回拝んでみてぇな」


「しかも聞いた話じゃあ、オレっちが見たあの別嬪べっぴんが『お茶の精』なんだと。つまりだ、陛下が殿下の愛人を……」

「あーあーあーまたソッチの妄想かよ。 てめぇがモテねえからって他人様の色恋で遊ぶたあ驚いた」

「ぁンだとテメェ!」

「やんのかコラァ!」


 炎帝エンテイ烏龍ウーロンを部屋に住まわせたという話は皇宮どころか、街にまで広まっていた。

 物語のような話に色めき立つのも無理はない。数年ぶりに居室から出た皇帝、かつて皇帝と共にあった美貌の茶師に瓜二つな「お茶の精」、彼女を連れてきたのは皇帝の弟。他でもない、かつて茶師との仲を散々噂されていたレイ親王そのひとである。


「あの者は殿下のめかけではなかったの?」

「しーっ、声が大きくてよ。娘娘じょうじょうに聞かれるわ」


 皇后の宮も例外ではなく、女官たちは主の不在をいいことに噂を楽しんでいた。滅多に皇宮から出ることができない彼女たちにとって、皇族の色恋はまたとない楽しみなのだ。

「娘娘もお気の毒ね。陛下がやっと出てきたと思ったら、それは、あの者に会いたいがためだったなんて」

「『氷面天女ヒョウメンテンニョ』の名が泣くわね。もっとも、娘娘に涙なんてな……」

「皇后娘娘のお帰りぃー!」


 何よ空気読みなさいよ。宦官かんがんの高らかな声に唇を尖らせた女官たちは、満面の笑みで粧い皇后を迎えた。


「……疲れたわ、のどを潤すものを」

 居室に戻った皇后は深い溜息をつき、女官と、宦官に命じた。高貴な肩を去勢した「男」に揉まれながらまた、深い溜息をつく。

「陛下にも困ったものだわ。せっかくお部屋から出たのに、また、お部屋に籠もってしまわれた」

「……娘娘のご心痛、お察し申し上げます」

「ありがとう。こなたにそう言ってくれるのは、あなただけよ」

「……感謝します」

 抑えた声での会話は部屋に染みわたった。


 疲れている、やつれているはずの皇后の美貌には、一点の曇りもない。肩の痛みにしかめたはずの顔さえ美しいままで、無表情な宦官と相まって絵になった。

「娘娘、お茶をお持ちしました」

 やがて女官が茶を持ってくる。蓋碗ガイワンの蓋についた香りを吸い込んだ皇后は、来て間もない彼女にねぎらいの言葉をかける。


「来て早々、そなたには辛い思いをさせるわね。何かあったらいつでも言うのよ」

「は、はい……感謝します」

「ひとりで溜め込まないことよ。下がっていいわ」

何度も頭を下げる女官。ひとりだけまだ若く、見た目の歳なら「お茶の精」と変わらないであろう彼女が下がった直後だった。


 蓋碗は壁に当たり粉々に砕け散った。





「殿下、殿下」

「…………」

「殿下、レイ親王殿下、こちらの上奏について……」

「……あ、ああ。そのことか」


 執務机の向こう、大臣たちが顔を見合わせている。

 彼らよりもはるかに年若い麗親王耀青ヨウセイは、夢うつつから引き戻されたと分かり目を細めた。いつの間にか考え事が止まらなくなっていたようだ。

 傍らの蓋碗を手に取り茶を口にする。側仕えの若者・ヨウが淹れてくれた茶は、とっくに冷めてしまっている。


「殿下、だいぶお疲れのようですな。少し休まれてはいかがでしょう」

先帝の代から使えている老臣が穏やかな声で言った。かつてはじい、じいと、彼に懐いて教えを請うていたものだ。今や彼を臣下として使う立場だ。

「休む? 何を言うのだ、政務が溜まっているのだぞ」

耀青の作り笑いも「じい」には通じない。疲労の色を見逃さない老臣は、いたわるような声色で言う。


「おそれながら殿下、ここ暫く、ほとんどお眠りになっていないご様子。このままではお身体に障ります」

「左様にございます殿下。せっかく陛下がお部屋からお出ましに……あっ」

「これ! 慎まぬか!」

 今は失言に反応する気にはなれない。「じい」に叱られた大臣がシュンとする前で、耀青は気にするなとだけ言った。彼らが下がると控えていた葉を呼び出す。


「肩が凝った。少し、揉んでくれないか」

 茶も淹れてくれ。主の笑みに涙を滲ませた葉が一度下がった後、耀青は、静かに執務机に突っ伏した。


 烏龍が親王邸から去って、暫くが経つ。

 あの火事騒ぎの夜、すなわち腹違いの兄・耀煌ヨウコウが数年ぶりに部屋から出てきた夜のこと。皇宮から聞こえてくる騒ぎに目を覚ました耀青は、烏龍の部屋がもぬけの殻だということに気づいた。

 枕元には数枚の葉と、小さな白い蕾が落ちていた。椿によく似たそれは茶のもの、触れてみれば、烏龍の美しい耳に生じた蕾に間違いなかったのだ。


――――私が烏龍を愛しているだと? 馬鹿を申すな!


――――陛下も烏龍も騙している、その私が……その私が「愛」など抱くものか!


 ひとたび言葉にしてしまえば、盆からこぼした水も同じ。決して、なかったことには出来ない。

 烏龍の寝室には寂しい残り香が漂っていた。涙で濡れた枕を鼻に押し当てれば、彼女の心の傷が香り。木蘭ムーランは、耀青から枕を奪い取って抱きしめ、泣いたものだ。

 兄の亡骸を目にしたときのように。


――――己を抑え押し潰してでも陛下に尽くすことこそ美徳、そう思っていらっしゃる。

――――そんなことが美しいのは物語の世界だけですよ!


 木蘭の言うとおりだった。本当に、そのとおりなのだ。

 だが抑えに抑え、丹念に潰してきた想いは。決して、何もなかったかのようには出来ない。

 炎帝は烏龍を求め、烏龍は、炎帝の元へと走った。互いを必要とした二人が一緒になったのだ。心優しく素直な兄なら、耀煌なら、烏龍に惜しみなく愛情を注ぐだろう。烏龍は炎帝の愛を受け、初めて湯を注がれた茶のごとく、香るだろう。


 それで良いではないか。

 己が望んだことではないか、耀青よ。

 何ゆえ涙を流すのだ?


「私は……本当に、愚かな男だ」

 耀青は、ひとり、自らを笑った。





 その後、耀青はふらりと散歩に出掛けた。

 黄昏時の色に染まる皇宮。少し前まで烏龍と共に歩んだ道を、今はひとりで踏みしめる。

 着いた場所は御花園だった。紅に白、桃色の椿と緑の茶樹は、炎帝が植えさせたものだろうか。花を愛でていると指先に艶やかな葉が触れる。

「烏龍…………」

くっきりとした二重にふち取られた目が、わずかに、細められた。


 耀青は暫く佇んだ後、白椿を一枝折り、懐に忍ばせた。そして帰ろうとしたときのことである。

「奇遇だわね」

 寒風のような声がして、耀青は、振り返った。


 そこにいたのは皇后。供の者を、お付きの宦官すら連れず、たったひとりで耀青をじっと見つめている。花園さえも凍らせてしまいそうな冷気をまとって、この世の者とは思えない美貌をまとって、そこにある。


「娘娘……」

「挨拶は無用よ、麗親王。自分が何をしたか分かっているのかしら」

「私が、で、ございますか」

「そうよ。どうしてあの者を捨てたの」


 耀青の顔が引きつる。

 皇后は、美貌を少しも崩さずに続けた。そこには怒りの蔑みの色はない。ただ淡々と、氷の彫像が話しているかのように声を紡ぐ。


「こなたは手込めにしてでもあの者を手放すなと言った。されど陛下を骨抜きにしろとは言っていないわ。今の陛下は皇帝ではなく茶の奴隷よ」

「茶の、奴隷……」

「かいがいしくあの者の世話を焼き、一歩も、お部屋から出さない。宮女にも宦官にも、指一本触れさせないどころか見せもしないのよ。まるで閉じ込めているようにね」

 耀青からすれば、烏龍が炎帝に監禁されているようなものと言いたいのだろう。唇を噛みしめうつむく彼に、皇后は、ゆっくりと背を向けた。


「麗親王、こなたは決めたわ」

「何を……でございましょう」

「烏龍を陛下の側室にほうずるのよ」


 冬の寒空の下。黄昏時から夜へと衣を変えゆく皇宮その御花園が、永遠にも似た静寂に包まれる。

 葉が見たら卒倒し、木蘭は言葉を失うだろう。耀青の顔は皇宮の誰も知らない、まさに、決して見てはいけないものだった。ひとつの言葉だけでは到底言い表せはしない。塗りたくられたどろりとした感情は、声も、染めてしまう。


「それは……陛下の、お望みですか」

「いいえ。こなたひとりの案よ。……まさか陛下が反対なさると思って?」

 耀青は黙りこくる。握り拳はわなわなと震え、食いしばった歯が、ギィ、と鳴る。

「麗親王、そなたも皇族ならば分かっているでしょう。今のままでは世継ぎも生まれず陛下はいつまでも出てこず。ならば烏龍に皇子を産ませ、そなたが、摂政になるのです。そなたは恋の才覚なくともまつりごとには長けている」


 全身を震わせ黒煙でも上げそうな耀青。背中合わせの皇后は我関せず、といった様子で、言葉を紡ぎ終え空を見上げた。

「明日の朝。陛下にこのことを伝えるわ。……決して妙な真似はしないで」


――――決して妙な真似はしないで。


 皇后が立ち去った後、耀青は、泣くことも出来ずに立ち尽くしていた。

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