第7話 炎、闇夜を照らす
「烏龍……うぐっ、うぅ、烏龍……」
帳の中、炎帝のうめき声がする。
「許してくれ、朕を許してくれ……」
壁は、部屋は、嘲笑うように脈打った。汗ばんだ皇帝の身体に紅の髪がまとわりつく。
何度目かの叫びが響きわたった。
淫魔の子宮のような部屋には誰もいない。かつて、共にあった茶師と腹違いの弟だけが、壁に串刺された絵の中で微笑んでいる。自分で自分を幽閉した皇帝は、茶師によく似た存在が残した白い外套をかき抱いた。
残り香は森のように青く、花のように甘い。
愛しい者とは、共にありたいと願えば願うほど、遠ざかってゆくようだった。かつて焦がれた美しい茶師も、美しい「お茶の精」も、まるで霞を抱くかのよう。
否、違う。
お茶の精を、烏龍を追い出したのは、己である。自ら拒み出てゆくように言ったのだ。腹違いの弟、かつて茶師と三人で共にあった耀青への思いが滲み出た涙の味に、耐えきれずに。
烏龍を抱きしめ、口づけようとしたとき、青き目に映るは己ではなかった。「炎帝」の力を以てすれば手込めにとて出来ただろうが、出来なかった。
大好きなのだ。
例え耀青には敵わずとも。伴侶など夢のまた夢、だとしても。
「烏龍……朕は、愚か者じゃ……」
炎帝は乾いた茶葉を口に放り、噛みしめた。
それから、暫くが経った頃。
うとうととしていた炎帝は、何者かの気配に面を上げた。
「……誰じゃ」
帳の向こう、うっすらと誰かの影が透けている。青衣をまとったところを見ると耀青だろうか。否、彼よりもずっと華奢で小柄である。
まさか。
「そなた、烏龍か……?」
何者かは答えない。微動だにせず、じっと、炎帝を、見つめ。
いきなり走り去ったではないか。
「ま、待て……!」
炎帝は立ち上がり、身体を起こそうとした。
長い間まともに歩いてこなかった肉体は、無様にも、よろけて寝台の上に転がる。壁が嘲笑う音に茶器が壊れる音が混ざった。幸い怪我はなかったものの、大事にしていた蓋碗が茶道具がいくつも粉々になっている。
だが、炎帝の髪をさわつかせたのは、茶器ではない。
烏龍が残した外套が、見当たらないのだ。
もしやあの青衣が持ち去ったのか。今となっては唯一の、烏龍を感じられる品を。このまま逃してなるものかと髪が紅く燃え上がる。
帳から這い出たのは、髪だけではなかった。青白い肌に包まれた高貴な肉体、炎帝陛下の御身体が少しずつ、少しずつ、龍が孵化するかのよう露わになる。べちゃ、ぐちゅ、と、床を濡らす妖しい液体にまみれながら、うごめく床を這ってゆく。
壁に串刺された絵は、思い出は、何も言わずに炎帝を見下ろした。龍の赤子と化した皇帝の姿を。ただ一点を見つめ歯を食いしばり、ずず、ずず、と這ってゆく姿を。
やがて大扉が開いた。
よろめきながらも立ち上がり、面を上げた炎帝の目に、再び「青衣」の姿が映る。顔は見えないが手には確かに白い外套を持ち、こちらを、じっと見つめている。
炎帝が、駆けだそうとした、ときだった。
――――陛下。
――――あの子を、助けてあげてほしい。
己にだけ聞こえた声は、明らかに、死んだ茶師のものだった。
「何……いかがした! 烏龍に、烏龍に何かあったのか!」
振り乱す髪は翼のよう、炎帝は「青衣」に駆け寄った。しかしその姿は消え、いたはずの場所には、烏龍の白い外套だけがある。
拾い上げた外套は、ぼぅっ、と、闇夜に浮かぶようだった。月の御髪で織り上げたような。辺りを見回せば人影はなく、皇帝の居室が、口を開けたままで建っている。
外に、出た。
偉業と言うべきことにも気づかず、炎帝は、烏龍を探し走りだした。
「烏龍! どこじゃ! 返事をしてくれ、烏龍!」
半裸姿で皇宮を走り回る燃え盛る髪の大男。夜の見回りをしていた宦官はキャーと叫んで腰を抜かし、悲鳴を聞きつけ駆けつけた仲間も同様である。
「よ、よ、妖魔! 炎の妖魔でございます!」
「ななな何をおっしゃるあの、あの、あのお方は……」
「妖魔だー! 妖魔が出たぞー!」
気を失う者、小便を漏らす者まで出る始末。炎帝は爆竹を鳴らしたような騒ぎに見向きもせず、大股で、闇夜に燃え上がる炎のごとく烏龍を探し回る。
「暗い……暗くてよく見えぬ!」
翼のような髪が燃え上がり、辺りは、真昼か祭りどきのように明るくなった。腰を抜かしたところに火の粉を浴びてお尻が炎上する者、雪や水をかけてやるも冬の寒さに別の悲鳴を浴びる者。騒ぎは更に燃え広がる。
炎帝は辺りを見回した。
怯える者、泣いている者。地面に額をこすりつけて命乞いをする者。かつて自らが起こした大火事と同じ光景が広がっている。
彼らはひとりひとり異なる存在。されど今の皇帝には「烏龍以外」。ただの、動き悲鳴を上げる「モノ」である。
――――烏龍。
――――どこじゃ。
――――どこにいるのじゃ。
炎帝の雄叫びが夜を揺るがしたときだった。
「青衣」を着た「烏龍」が現れたのは。




