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シレナは腰のベルトから、鞘に収まった一本の短剣を抜き出した。刃渡り二十センチほどの、どこにでもありそうな、使い古された量産品の短剣だ。
「こんなものしかありませんけどぉ……わたしが持っていても仕方ありませんし」
「でもシレナちゃん護身用って。大丈夫なの?」
「えぇ、わたしのおうち、すぐ近くなんです。それに、これから冒険に出るアヤトさんが丸腰なのは心配ですしぃ。あっ、もちろんアヤトさんさえよろしければ、ですけどぉ?」
シレナは少し顔を傾け、潤んだ瞳でアヤトを見つめ上げる。さりげなくアヤトの右手を触れ、破壊力抜群の上目遣いと、手に伝わる柔らかな感触に、女の子慣れしていないアヤトの理性は、一瞬で吹き飛んだ。
「ハ……はは。そんなに俺のこと心配してくれるなんて嬉しいな」
「アヤトさんだからですよ! わたし、アヤトさんを見た時から思っていたんです。この方は、きっと特別な人なんだなぁって」
「と……特別!?」
思考が完全にショートしていた。目の前の美少女に『特別』などと言われ、上目遣いでみつめられ、理性が保てるはずがない。
「こ、こんなおもちゃみたいなのでいいなら」
「えっ!? 本当ですかぁ! やったぁアヤトさん大好き!」
シレナは胸を押し付けるように抱き着き、アヤトの右手に握られていた赤い石を、まるで手品のように素早く、しかしあくまで優しく絡め取った。
「うおっ……でへへ。だ、大好きだなんて、シレナちゃん」
腕の中に飛び込んできた柔らかな感触と、鼻腔を満たす甘い花の香りに、アヤトの脳は完全にショートし、一切の思考を放棄した。
「わー! 本当綺麗ですねぇ。わたし大切にしますね。家宝にしちゃいます」
シレナは満面の笑みを浮かべ、奪い取った赤い宝玉のような石を、自身の胸元に大切そうに抱き抱える。そして代わりにアヤトの手に、先ほどまで持っていた使い古しの短剣を握らせた。
「家宝かぁ。いやいやこんなのが家宝と言われちゃうと俺も照れちゃうな」
「ふふっ、アヤトさんってば本当に優しくて……かっこいいです! こんな素敵な男性に出会ったの初めて」
上目遣いで放たれたトドメの一撃に、アヤトの顔は茹でダコのように真っ赤になる。もう完全に彼女のペース。いや、彼女の掌の上で転がされていることなど微塵も疑っていなかった。
ニヤニヤと締まりのない顔で短剣を見つめるアヤト。よく見れば刃こぼれもひどく、錆も浮いているような代物だったが、今の彼にとっては『美少女から貰った伝説の初期装備』にしか見えていなかった。
「アヤトさんならきっと、それでどんな魔物でも退治できちゃいますよ!」
「そうかな? へへっ、なんだか力が湧いてきた気がする!」
「あっ! そうだぁ。アヤトさんにオススメの場所があるんですよ」
シレナはアヤトの腕に絡みついたまま、右手で近くに見える山裾を指差した。
「あっちの山肌に、小さな洞窟があるんです。そこにはゴブリンっていう、弱い魔物が少しだけ住み着いているらしくて。アヤトさんの最初の冒険には、ちょうどいいんじゃないかなぁって」
「ゴブリンか! ゲームとかでよく見る初心者用のモンスターだな。よーし、いっちょ俺の力を試してくるか!」
アヤトは鞘を抜き、鳴れない手つきで何もない宙に向けて、見せつけるように短剣を振って見せる。
「わぁ! アヤトさん勇者みたい! かっこいい」
パチパチと拍手をしながら笑顔を向けるシレナに、アヤトの心は完全に『選ばれし勇者』になりきっていた。
「よーしじゃぁそのゴブリンでも、かるーく退治してこよっかな!」
「はい! 応援していますね。 アヤトさん頑張ってくださぁい♡」
小さく手を振るシレナに背を向け、アヤトは誇らしげに胸を張りながら洞窟へと向かって歩き出した。
自分は選ばれし勇者で、特別な力を持っていて、可愛い女の子から期待されている。そんな自己陶酔に浸りきっていた。
だが、アヤトの背中が完全に見えなくなった瞬間。
シレナの顔から、あの甘く愛くるしい笑顔が、まるで嘘のようにスッと消え失せた。
代わりに浮かんだのは、冷酷で、どこか底知れない嘲笑。
彼女は手の中にある赤い石――夕日を受けてギラギラと燃えるような輝きを放つそれを、面白そうに指先で転がした。
「……ばっかじゃないの。本当男ってちょろくて馬鹿しかいない。ほんと、気持ちわりぃ」
先ほどの甘ったるい声はどこへやら。低く、氷のように冷たい声が口からこぼれる。
「それにしても……あんなアホそうな男が『炎神の瞳』を持っているなんて。しかもあんなナマクラと交換しちゃうなんて」
口角を上げながら、クスクスとシレナが笑い声を漏らす。
楽しそうに鼻歌を歌い、スキップしながら、やがて彼女は森の奥へと消えていった。
シレナの背中が森の奥に消えた瞬間、夢の景色がぐにゃりと歪んだ。
次にアヤトが見たのは、暗く、カビ臭い洞窟の奥だった。
『ギャギャギャッ!』
松明の灯りに照らされ、醜悪な顔を歪めたゴブリンが、サビだらけの鉈を大きく振りかぶる。
迫り来る刃。死の恐怖が全身を縛り付け、声すら出ない。
終わる。俺の人生、ここで――
「いつまで寝てんのよ!!」
鈍い音と共に、腹部に強烈な衝撃が走る。
「ぐあああ!?」
肺の中の空気をすべて吐き出しながら、アヤトは簡素なベッドから床へと無様に転げ落ちた。
薄暗い視界。まだ脳は完全に覚醒しきっておらず、夢と現実の境界線が曖昧なままだ。
息も絶え絶えに顔を上げると、そこには自分を見下ろす一つの影があった。
窓から差し込む朝の光を背にして逆光になっており、表情まではよく見えない。しかしその威圧感と、頭の中を支配している直前の悪夢の記憶が、最悪の形で結びついてしまった。
錆びた鉈を振り下ろそうとしていた、あの醜悪な顔の残像が脳裏にフラッシュバックする。
――殺される。今度こそ確実に殺される。
「ぎゃああああああああ!!ゴブリン!!!!」
「誰がゴブリンよ!!!」
次の瞬間、硬い衝撃が頭頂部に叩き込まれた。
目から火花が散り、痛みのあまり声も出ない。
「か、は……うぐ」
「朝っぱらから情けない悲鳴を上げたかと思えば……命の恩人に向かってゴブリンですって? その腐ったあんたの眼、潰してあげようかしら」
涙目で視界の焦点を合わせると、そこには腕を組み、氷点下の眼差しで見下ろしてくるミレナの姿があった。
逆光のせいで影になっていたが、その端正で美しい顔立ちは、今は明らかな怒りによって修羅のごとく歪んでいる。
頭を殴ったのは、彼女が手にしていた杖の柄だったらしい。
「す、すみません! 寝ぼけてて……あの、夢で本当にゴブリンに殺されかけてて……」
「ふん、昨日の今日でトラウマにでもなったのかしら。だとしても、私をあんな醜悪な魔物と間違えるなんて、万死に値するわね」
ミレナは履き慣れたブーツの踵で、床に這いつくばるアヤトの背中をグリグリと踏みつけた。
「あいたた! 俺の目が腐ってました! ミレナさんは絶世の美少女です! ゴブリンどころか女神です!」
「口先だけは達者ね。その軽薄な口、縫い付けてやろうかしら。……さっさと起きなさい。ギルドに行くわよ」
背中から重みが消え、ミレナは呆れたようにため息をつきながら踵を返す。
すでに彼女は冒険に出る準備を完全に整えていた。昨日と同じ、動きやすさを重視しながらもしなやかな曲線美を隠しきれないコンプレッションシャツとインナージャケット姿だ。
アヤトは痛む頭をさすりながら、慌てて立ち上がる。
昨日のような『謎の魔力増幅』が宿屋で発動しなかったため、今の自分は彼女にとってただの都合の良い『荷物持ち(ポーター)』でしかない。
機嫌を損ねて見捨てられれば、今度こそこの異世界で路頭に迷うことになるだろう。
コートを羽織り、ミレナは一足先に部屋から出る。
はっ、と慌ててズタ袋を握りしめ、後を追うように部屋から飛び出た。




