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「――っ!! うわあああああああ!」


 自分の情けない絶叫と共に、アヤトはガバッと跳ね起きた。

 これは、アヤトがこの世界に来た直後の記憶だった。

 全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が早鐘のように激しく打ち鳴っている。


「はぁっ……はぁっ……!」



 荒い呼吸を繰り返しながら、周囲を見回す。

 夕暮れの空も、遠ざかる校舎の屋上もない。見慣れない風景。見慣れない草原に山々。



「なにこれ……まさか天国……みたいな?」

「あっ……目が覚めましたかぁ?」



 聞きなれない女の子の声。振り返るとセミロングの黒髪の少女。年齢は同じくらいか、少し年下くらいだろうか。


 毛先は鎖骨のあたりで静かに揃えられており、まっすぐ落ちるその流れの先だけが、控えめに内へと収まっている。 

 手入れが行き届いているのが一目でわかるのに、整いすぎているという印象はなく、そのわずかな丸みが、彼女の雰囲気に柔らかな親しみを添えていた。


 何よりも整った顔立ち。目元や口元の線は繊細で、少女らしいあどけなさが残っている。

 それでいてふとした角度から見ると、年齢には似つかわしくない落ち着きも滲み、美しいとさえも感じられる。



 視線を上げると、紫がかった瞳が穏やかにこちらを映す。光の加減によっては黒にも見え、ふとした瞬間にだけ深い紫がのぞくその色は、感情を読み取らせない奥行きを湛えている。 

 それでいて、目が合うと不思議と警戒心が薄れてしまうような、静かな引力をみせる。



「えっと……」



 思わず見惚れた。呆けている間にも少女はこちらに向かって距離を詰めてくる。



 薄手の白いブラウスは首元まできちんと留められており、清楚な装いの中で、襟元の黒いリボンだけがわずかに主張し、リボンの結び目には、小さな紫の飾り石が添えられていた。

 まるでそこに視線を誘導するためにあるかのように。


 その上から羽織る薄紫色のカーディガンは膝下まであり、仕立ての良さが遠目にもわかる。

 身体の線を隠すような装いなのに、ふとした瞬間に少女らしい柔らかな輪郭が覗く。


 足元にまで届きそうなロングスカートは落ち着いた黒で、歩くたびに布が重なり合ってわずかに揺れる。

 裾さばきの瞬間だけ、脚の輪郭がほのかに伝わるがそれも一瞬のことだった。その一瞬をアヤトは目に焼き付けるように、視線は足元へ吸い込まれる。


 全体として露出はほとんどない。それなのに、視線を逸らしきれない。

 慎ましさと隙が、同じ場所に同居しているような、不思議な装いだった。




「驚かせちゃってごめんなさい。わたし、シレナって言います。たまたま通りかかったら、倒れているあなたをみつけちゃってぇ。……あのぅ、お怪我はありませんか?」



 声は、甘ったるい。と表現するのが適切なのだろうか。

 高すぎるわけではないのに、耳に触れた瞬間、どこか柔らかく溶けるような響きを持っている。言葉の端々に自然な丸みがあり、聞いているだけで警戒心がほどけていくようだった。


 ゆっくりと丁寧に話すその口調は礼儀正しく、育ちの良さを感じさせる。それなのに、語尾がわずかに甘く揺れるせいか、無意識に距離を詰められていることにアヤトも気が付くことはなかった。




「あ、いや……怪我は、たぶん大丈夫です。俺、たしか学校の屋上から……なんで」


「学校の屋上……ですかぁ? ごめんなさい。わたしにはよくわからないですけれどぉ、何か訳ありって感じでしょうか?」

「えっと……たぶん」



 シレナは小さな両手で口元を覆い、くすくすと上品に笑う。

 その仕草一つ一つが計算し尽くされたように愛らしく、アヤトは先ほどまでの絶望を忘れ、すっかり彼女のペースに呑み込まれていた。



(かわいい……)


「あのぉ?どうかしました?」

「あっいえ。なんでもないです」



 首を傾げながら不思議そうにこちらを見据えようとしてくれるシレナの視線に、慌ててて目線を逸らす。



「ふふっ。お兄さん、なんだか面白い人ですねぇ。もしかして迷子だったりしちゃいますか?」

「いやまぁ……迷子ではないけど。いやそんな感じかも。……ハハ」



 アヤトは頭を掻きながら乾いた笑いを漏らす。

 屋上から落ちたはずなのに、無傷でこんなのどかな場所にいる。

 夢だと言われた方がよっぽど納得できるが、頬を抓ってみてもしっかり痛かった。



(いわゆる異世界転移的な? いやいや都合よすぎか……でもなぁ)



 だとしたら、自分は何かこの世界の人にはない、特別な力やチート能力を持っているのだろうか。

 期待に胸を膨らませながら、アヤトは自分の学ランのポケットを無意識に探った。

 スマホ、財布、家の鍵。……見慣れたものが指に触れる中、右のポケットの奥に、硬く丸い見覚えのない感触があった。



「あれ……なんだこれ?」



 引っ張り出してみると、それはピンポン玉より一回り大きいほどの、透き通った赤い石だった。

 夕日を透かすと、内部で炎が揺らめいているようにギラギラと輝き、表面は信じられないほど滑らかだ。


 まるで美術館のガラスケースに入っているような代物だが、アヤトにはそれが何なのか全く見当がつかなかった。



「なんだこりゃ? 俺、こんなもん持ってたけ?」



 屋上から落ちた時にたまたまポケットに入ったのだろうか。そんなわけはないよな、と首を傾げていると、隣で様子を見ていたシレナから、小さく息を呑む音がした。


「――ッ!」



 アヤトが顔を上げると、シレナは先ほどまでの柔らかい微笑みを浮かべていた。

 しかし、その紫がかった瞳は、アヤトの手の中にある赤い石に向け、まるで獲物を見つけた猛禽のように、鋭く見据えていた。


 ただそれもほんの一瞬のこと。彼女はすぐにパチパチと瞬きをして、首を傾げる愛らしい仕草を見せた。



「えー! お兄さんなんですかそれ! お綺麗でかわいいですねぇ」

「え? いや、なんか気が付いたらポケットに紛れてて。俺もよくわかんないんだよね」


「そうなんですかぁ。……ふふっ、とっても綺麗。でも、見たところ魔道具というよりは、飾り石みたいですねぇ」



 シレナはクスリと笑って、アヤトの警戒心を解くようにゆっくりと一歩近づいた。 

 膝をつき、耳をかき上げるとほのかに甘い、花の香りがアヤトの鼻腔をくすぐる。



「言われてみれば確かに。おもちゃみたいな感じだね」

「ですよね。なんだかお祭りの露店で売っているような……でも、とってもお綺麗ですねぇ」


「ハハ……シレナちゃんのほうが綺麗だよ」



 本人としては、渾身のキメ台詞だった。

 正直、自分でも寒気がするほどクサい台詞だと思ったが、愛い女の子を前にしてテンションが上がっていたアヤトは、もう完全に自分の世界に入り込んでいた。



「えっ!?」



 シレナはパチクリと目を瞬かせ、みるみるうちに頬を桜色に染めていく。

 両手で頬を押さえ、恥ずかしそうに俯くその姿は、男の庇護欲をこれでもかと満たし、自尊心をこれ以上ないほど高めてくれる。



「もうお兄さんったら。口がお上手なんですね」


「いやいや本当のこと言ったまでだから! シレナちゃんのようなかわいい子に会えたなら、異世界転移でも、ここが天国だったとしても悪くないよ」



 アヤトはニヤニヤと締まりのない顔で鼻の下を伸ばす。

 俯いたシレナの口角が、一瞬だけ嘲笑するように吊り上がったことなど、有頂天になっているアヤトは、 このとき気付くはずもなかった。



「あっそうだ! ごめんあまりにもシレナちゃんがかわいくて、つい名前名乗るの忘れてたよ。俺溝口綾人っていうんだ。気軽にアヤトって呼んでくれていいから」



「アヤトさんと仰るのですね。とても素敵な名前だと思います」

「えへへ……そ、そう? 照れちゃうな」



 アヤトが照れ隠しに頭を掻いた。



「あのぅ、アヤトさんって冒険者さんだったり?」

「え? うーん俺ここに来たばっかでよくわかんないんだけど。あっでも冒険者ってのはちょっと興味あるかも」



 その時、シレナは小首を傾げ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。いかにも心配していますとでも言わんばかりの、潤んだ上目遣いでアヤトを見つめた。



「なるほど……。でもアヤトさん、手ぶらみたいですけれど、武器とかはお持ちじゃないんですかぁ?」


「あー確かに! やっぱ武器の一つくらいはいるよね。あれこの世界日本円は使えるのか?」



 アヤトはポケットから財布を取り出し、中を覗く。

 所持金1,237円。仮に日本円が使えたとして、武器の購入はこの手持ちでは厳しそうだ。



「なんだか見たことない硬貨とお札ですね」


「うっ……見たことないって事は、この金もゴミ同然じゃんはぁ。どうしよ」


「あっ! もしアヤトさんさえよろしければなんですけれど」



 パンッ! と両手を叩き、その言葉を待っていましたとばかりにシレナが笑顔になる。


「わたし、護身用に短剣持っているんですよ。ほら魔物とかいますしね」


「ま……魔物」



「アヤトさんさえよろしければですけれど……さきほどの赤い石、とても綺麗でしたし……もしよろしければ、交換という形にしませんか? わたしの短剣をお渡ししますので」

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