6-14
シレナの荒げた声が、焦げた広場に響いた。
怒鳴っているのに、息がわずかに乱れている。それが自分でも腹立たしくて、シレナは奥歯を噛み締めた。
「おいヴェイン! てめぇ聞いてんのかよ!」
シレナの怒声など、夜風ほどにも届いていない様子だった。
ヴェインの視線は、腕の中で意識を失っているリノアだけに注がれている。
黄金色の瞳が、傷だらけの少女の顔をゆっくりと辿っていく。
額に張り付いた茶色の髪。頬に走った擦り傷。袖口から覗く、焼け焦げた腕の痕。
その一つ一つを確かめるたびに、ヴェインの眉が痛ましげに寄せられていった。
「あぁ……なんてことだ。美しいキミの体が、こんなにも醜い傷に晒されてしまうとは……全く許されざることだよ」
長い指先が、リノアの頬にかかった髪をそっと払う。
壊れかけた芸術品を扱うような、慎重で恭しい手つきだった。
「迎えに来るのが遅くなってすまなかったね、リノア。許しておくれ」
眠り続ける少女から返事はない。
それでも構わないというように、ヴェインは穏やかな微笑みを浮かべたまま、リノアの体を抱え直した。
コートの裾が風に揺れ、ヴェインは街灯の上でくるりと踵を返した。
「てめぇ、あたしの獲物に何して——おい! 待ちやがれ!」
シレナは紫色の石を握り込み、右腕を振り上げた。
残った魔力を絞り出すように石が明滅して、足元の地面から生き残りの根が一本、黒紫の光を纏いながらせり上がる。先端が槍のように研ぎ澄まされ、ヴェインの背中を目掛けて射出された。
ヴェインは振り返りもしなかった。リノアを抱えたまま、空いた左手だけを背後へ軽く払う。
指先が空気を薙いだだけにしか見えない、力みのない動作だった。
「なにッ!?」
それだけで、根の槍は軌道を捻じ曲げられた。
紙屑でも弾くかのようにあらぬ方向へ逸れて、広場の端の壁に突き刺さる。
石材の砕ける音が虚しく響いたが、ヴェインの足取りは半歩も乱れていなかった。
「やれやれ。相変わらず品のない女だねぇ、キミは」
ヴェインが半身だけを振り返った。その顔に浮かんでいるのは怒りではなく、道端の汚れ物でも見るような、心底うんざりとした呆れだった。
「背後から不意打ち。しかも狙いは雑、魔力は枯渇寸前、込められた殺意だけは一丁前。何一つとして美しくない。キミのそういうところが、ボクは本当に嫌いだよ」
「うっせぇんだよ! ごちゃごちゃごちゃごちゃ……そいつを置いてけっつってんの!」
「置いていく? このボクが? 彼女を?」
ヴェインは心外だと言わんばかりに目を見開いてみせた。
それから小さく首を振り、リノアを抱えていない左手を自分の口元へと持ち上げていく。
薬指に嵌まった銀色の指輪。その台座に埋め込まれた金色に輝く魔石が、街灯の光を受けて鈍く輝いた。
ヴェインの唇が、魔石にそっと触れる。恋人に口づけるような、優雅で緩やかな仕草だった。
けれどその直後、魔石の内側から溢れ出した光は、およそ優雅とは程遠い禍々しさを帯びていた。
光の粒子が、ヴェインの頭上で渦を巻く。
粒子は瞬く間に寄り集まり、輪郭を編み上げていった。
長い首に、飛膜を張った巨大な翼。鞭のようにしなる尾。半透明の光で形作られたそれは、翼を大きく広げたワイバーンの姿をしていた。
実体ではない。魔石に封じられた力の残滓が、一時の形を得て顕現しているに過ぎない。
それでも、光のワイバーンが大顎を開いた瞬間、シレナの本能が警鐘を鳴らした。
「なん、だ……?」
「——まずは」
咆哮は、音として聞こえなかった。
聞こえないまま、シレナの全身を貫いた。大気そのものが細かく震え、不可視の波紋となって広場全体へ放射される。
超音波の奔流だった。鼓膜の奥を直接掻き毟られるような感覚に、シレナの膝が崩れる。
「ぐああっ!? あっ、あぁっ……」
三半規管が悲鳴を上げた。世界が回る。上下の感覚が溶けて、立っているのか倒れているのかすら分からなくなる。
視界の端で、広場に残っていた木々の枝が細かく振動し、亀裂の走っていた敷石が粉を吹くように砕けていくのが見えた。
「あ……が……ッ」
両手で耳を塞いでも意味がなかった。
音は耳からではなく、骨から、内臓から、体の芯から直接染み込んでくる。胃の中身がせり上がり、シレナはたまらず敷石の上に膝と両手をついた。
超音波の余韻が空気の中に残る広場で、シレナは四つん這いのまま顔を上げた。
口の端から血が垂れて、顎先から敷石に落ちる。
体中の筋肉が自分のものではないかのように痙攣を繰り返し、指先一本まともに思い通りにならない。
それでも、紫色の瞳だけはヴェインを射抜いていた。地面を這いながら、まだ噛みつこうとする、さながら獣のような目だった。
「おやおや」
ヴェインが首を傾げた。軽やかな声には感心の色が混じっていたが、その根底にあるのは嘲りだった。
「まだそんな目をするのかい? この期に及んで。全く……実に醜い姿だよ、シレナ」
光のワイバーンは既に輪郭を失い始めていて、粒子が少しずつ夜気の中へ溶けて消えていく。
ヴェインはそれを気にする素振りも見せず、リノアの体を抱え直しながら、肩越しにシレナを見下ろしていた。
「ボクはねぇ、キミのような凡人と違って忙しいのさ。悪いけれど、これ以上キミと戯れているような時間はないんだよ」
シレナの腕が震えながら持ち上がろうとした。
体を起こそうとして、膝を立て、敷石に爪を食い込ませるようにして、立ち上がろうとしている。
しかし、うまく立てなかった。膝が途中で折れて、また地面に崩れ落ちる。
紫色の石は光を失ったまま、握り込んだ右手の中で冷たい鉱物に戻っていた。
魔力は底をつき、体力も限界をとうに超えている。それでもシレナは、もう一度腕に力を込めたが、また崩れてしまった。
「クソが! ……てめぇ、なんで邪魔しやがった」
地面に額をこすりつけるような姿勢のまま、シレナが吐き捨てた。
声は掠れて、怒りと屈辱と疲労で歪んでいた。
「この女はあたしの獲物だ。あたしが始末を……つけるはずだった。てめぇに関係……ねぇだろうが……! こいつから、はぁ。……あのバカどもの情報を……吐かせて……はぁ」
ヴェインの足が止まった。ゆっくりと振り返ったその顔から、芝居がかった笑みが消えていた。
黄金色の瞳が冷たく凪いで、地面に這いつくばるシレナの姿を無感情に映している。
広場の空気が、一瞬だけ重くなった。
「邪魔だって?」
声の温度が、数段階落ちていた。
「邪魔なのはキミのほうじゃないかい、シレナ」
その視線には、もう嘲りも侮蔑も乗っていなかった。ただ純粋な警告だけが、ヴェインの瞳の奥で冷たく光っている。
「ボクの花嫁にこれ以上傷をつけられては、困るんだよ」
その言葉が、焦げた広場に落ちた。
シレナの呼吸が、一瞬だけ止まる。
「は、はぁ?」
シレナの掠れた声が、喉から思わず漏れた。
「花嫁……? てめぇ、何言って……」
「彼女はボクの花嫁にふさわしいからさ」
シレナの問いかけに答える気など、最初からないようだった。
ヴェインの声は独り言のように宙を漂い、地面に這いつくばるシレナの頭上を素通りしていく。
「キミのような醜い存在と違って、リノアは美しいからねぇ」
その一言を置き土産のように落としてから、ヴェインは再び左手を口元へ持ち上げた。
指輪の魔石に、二度目の口づけ。
先ほどとは違う色の光が、石の内側から滲み出していた。
青白く、鋭く、雷光に似た輝きを帯びた粒子が指先から溢れて宙に散る。粒子は渦を巻きながらヴェインの頭上で凝集し、今度は翼を持つ鳥の輪郭を編み上げていった。
大きく扇のように広がった尾羽が、幾筋もの雷を纏いながら空気を引き裂いている。
孔雀に似た、けれど孔雀よりもはるかに禍々しい何かの形だった。光で織られた尾羽の一枚一枚に沿って電流が走り、空気を焦がす匂いが再び広場に立ち込めていく。
「くっ……」
シレナの全身が、本能的に強張った。
逃げなければ。そう命じる頭と、もう一歩も動けない体との間に、絶望的な断絶があった。
「では、さらばだよシレナ。……雷華孔雀・ヴァジュエル」
ヴェインの指先が、軽く振られた。
光の孔雀が尾羽を開いた瞬間、収束していた雷撃が一斉に解き放たれた。青白い稲妻の束が扇状に広がり、シレナの体を正面から呑み込んでいく。
「ぐっ……がっ!」
体が浮いた。
地面を離れた感覚だけがあって、次の瞬間には広場の端まで吹き飛ばされていた。
背中が崩れかけた壁にぶつかり、石材の破片と一緒にずり落ちる。
全身を走り抜けた電流が、筋肉という筋肉を根こそぎ痙攣させていて、指の一本すら自分の意志では動かせなかった。
仰向けに崩れ落ちたシレナの視界で、灰色の空が滲んでいく。
その滲んだ視界の隅に、白銀の髪が見えた。
ヴェインが街灯の上から軽やかに跳んだのだろう。コートの裾を風にたなびかせながら、腕の中にリノアを抱えたまま、屋根から屋根へと音もなく渡っていく。
その動作にはリノアの体を揺らすまいとする気遣いがあって、それがまたシレナの神経を逆撫でした。
追いかけなければ。そう思う意識の端から、闇が染み出してくる。
白銀の髪が灰色の空に溶けて消えていく最後の一瞬まで、シレナの紫色の瞳は、その影を睨み続けていた。
「クソ……が。てめぇ、覚えて……ろ、よ」
やがて、その瞳からも力が抜けた。




