6-13
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衝撃が、腹の底を突き抜けた。
シレナのローファーの先が、リノアの横腹を正確に蹴り上げていた。
「きゃっ」
体が横に飛び、地面を転がって、広場の敷石に背中が叩きつけられる。
肺の中の空気が一瞬で絞り出されて、視界が白く弾けた。
「戦闘中にぼーっとしてんじゃねぇよ。考え事してる暇あんの?」
シレナの声が、遠くから聞こえた。
近いはずなのに、水の底から響いてくるような距離感だった。
敷石の冷たさが、背中から全身に染みていく。空が見えた。灰色の曇り空。
この世界の空も、あの日の空も、同じように表情がなかったように感じた。
「……ごめん、なさい」
唇が勝手に動いていた。
シレナに向けた言葉ではなかった。
もっと遠くにいる人たちに向けた、届くはずのない声だった。
「お父さん……。お母さん……」
大嫌いと叫んで飛び出した夜。
あの二人の顔が、まだ消えてくれない。父の見開かれた目。母の震えた指先。
あの食卓に戻れたなら、今度はちゃんと話せるだろうか。
ごめんなさいと、大好きだよと、言えるだろうか。
もう一年も、会えていない。
「おばあ、ちゃん……」
この家に来てからの一年間が、胸の奥を流れていく。
薬草の調合を教えてくれた皺だらけの手。魔法の練習で失敗するたびに笑って頭を撫でてくれた温もり。
あの寝室で静かに眠っているはずの、小さな背中。
あの扉の向こうに、目の前の彼女を行かせるわけにはいかない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
リノアは敷石の上に倒れたまま、同じ言葉を繰り返していた。
誰に向けているのか、もう本人にも分かっていなかった。
父に、母に。おばあちゃんに。
それとも、自分を庇って殴られた、あの夜の少年になのか。
全部が混ざって、一つの言葉になって、唇から零れ続けている。
「さっきから何ブツブツ言ってんの。気持ちわりぃな」
シレナが見下ろしていた。紫色の石を握りしめ、倒れたリノアを靴先でつつく。
「ごめんなさいって誰に言ってんだよ。あたしに?」
「……ごめん、なさい……おばあちゃん」
「あっそ。まだババアの話してんのか。じゃあ早く終わらせてやるよ。お前の後にババアんとこ行って、二人まとめて——」
リノアの目が、開いた。
地面に伏せたまま、その瞳だけが光を帯びた。
恐怖でも怒りでもない。もっと静かな、覚悟だけが残った目だった。
祖母の声が、記憶の底から浮かび上がってくる。
——リノア。他の魔法とは違うのよ。
あの日、祖母は庭先の椅子に腰掛けたまま、リノアの手を取って静かに語った。
——この魔法は、あなた自身にも跳ね返る。周りにいる人も巻き込むかもしれない。敵も、味方も、関係なく。だからあなたが制御できるようになるまでは、絶対に使ってはいけない。
——はい、おばあちゃん。約束します。
「ごめんなさい、おばあちゃん。……約束、破ります」
リノアの両手が、地面を押した。
立ち上がる動作は遅く、ぎこちなかった。
膝が笑い、腕が震え、まともに立てているとは言い難い。
それでもリノアは、両足で地面を踏みしめていた。
両手を天に向かって開く。
その瞬間に空気が変わった。
「……は? なに、まだやんの?」
シレナは鼻で笑おうとした。
笑おうとして、唇が途中で止まった。
リノアの指先に灯った光が、これまでとは違っていた。
青白いのではない。純白に近い、目を灼くような輝きだった。
大気そのものが圧縮されていくように、広場の空気が耳鳴りのような音を立て始める。
足元の敷石に亀裂が走った。リノアを中心にして、放射状に。
地面の水分が一瞬で蒸発して、乾いた土の匂いが立ち昇る。
魔石を通じて操っていた根が、硬直した。
シレナの意志を無視して、木の根そのものが怯えたように動きを止めている。
シレナの足が、一歩だけ後退した。
「なんだよ……これ」
「ラグナロク——」
声が震えていた。泣いているような声だった。
それでもリノアは、両手を振り下ろした。
「——ボルト!」
世界が、白に塗り潰された。
雷光の柱が天から地を貫くようにリノアを中心に炸裂した。
白い光の奔流が地面を抉り、敷石を砕き、周囲の街路樹をまとめて炭に変えた。
シレナが魔物化させた根も枝も、紫の光ごと焼き切れて塵に還る。
シレナは咄嗟に紫色の石を握り込み、足元の地面を隆起させて壁にした。
「――ぐっ!」
雷撃の光が、ゆっくりと消えていく。
リノアの両手から力が抜けた。
開かれた指先が空を掻くように震えて、そのまま糸が切れたように体が崩れ落ちる。
膝が地面にぶつかる音すら、本人の耳には届いていなかっただろう。
顔から前のめりに倒れ、敷石の上に頬をつけたまま、動かなくなった。意識はもうなかった。
広場の周囲半分が、焦げていた。
街路樹は幹の半ばから炭と化し、ベンチの残骸は原形を留めていない。
敷石には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、空気そのものが焼けたような、金属質の匂いが漂っていた。
その中心から数歩離れた場所で、折り重なった木の枝が山のように盛り上がっている。
枝という枝が絡み合い、繭のように内側を包み込んでいた。
表面は真っ黒に焦げ、ところどころ赤く熾火が残っている。
繭の一部が、内側から押し開かれた。
焦げた枝を払いのけて、シレナが這い出す。
ブラウスの袖は半分以上が焼け落ち、剥き出しになった腕には電撃の痕が赤い筋となって走っていた。
髪の先端が縮れて焦げている。口の端を拭った手の甲に、血が滲んだ。
「……はぁ、はぁ。ったく、びびらせやがって」
膝をつきながら、シレナは深く息を吐いた。
雷撃が落ちる寸前、咄嗟に周囲の枝を操って全身を覆った。
直撃は免れた。それでも衝撃と熱と電流は繭の隙間から容赦なく侵入してきていて、体の節々が言うことを聞かない。
膝が笑っていたが、それを意志の力だけで押さえつけ、無理矢理立ち上がった。
シレナは握ったままの魔石を確かめた。光は弱くなっていたが、まだ脈動している。
シレナの視線がリノアの倒れている場所を捉えた。
うつ伏せのまま微動だにしない。呼吸しているかどうかすら怪しいほど、完全に力を使い果たした体がそこにあった。
「あーあ。全部出しきって気絶とか、ほんとバカじゃねーの」
シレナは残った魔力を魔石に流し込んだ。
地面の下で、まだ生きている根が一本だけ応じるように蠢く。
ゆっくりと、根の先端がリノアへ向かって地面を這った。尖った先端が鎌のように変形していく。
「さよなら、お人好し。後であのバカに地獄で会わせてやるよ」
根の先端が鎌のような形に裂け、一瞬の溜めの後に振り下ろされた。
リノアが倒れている場所を目掛けて、黒紫の光が弧を描きながら地面へ突き刺さる。
敷石が砕けて飛散し、着弾点を中心に土埃が渦を巻いた。
衝撃で割れた石の破片がシレナの頬を掠めていくのも構わず、彼女は目を細めて煙の向こうを見据えていた。
風が土煙を攫っていく。
「あ?」
晴れた視界の先に、リノアの体はなかった。
抉れた敷石と、めくれ上がった土が残っているだけで、血の痕も、衣服の切れ端も、髪の一筋さえ見当たらない。
直撃で消し飛ばしたにしては、あまりにも何の痕跡も残っていなかった。
「……は? 何、どういう——」
シレナの眉間に深い皺が刻まれた。
あの威力で跡形もなく消えるなど、そんなことはありえない。
消滅させたのなら、焦げた何かが残るはずだ。
「――美しくないなぁ」
背後から、声が降ってきた。
軽やかで、どこまでも芝居がかった響きを持つその声を、シレナは聞き間違えようがなかった。
鼓膜に触れるだけで虫酸が走る、あの男の声だ。
振り返ったシレナの視界に映ったのは、街灯の頂上にコートの裾を風に遊ばせながら立つ、一人の男の姿だった。
白銀の髪が風を弾いて、黄金色の瞳が薄い笑みの奥で淡く光っている。
街灯の上に立つその姿は、まるで舞台の幕開けを待つ役者のように隙がなかった。
その腕の中に、気を失ったリノアが横たわるように抱かれている。
「ヴェイン……! てめぇ、何しに来やがった!」




