6-15
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地下水路の調査を終えたアヤトとミレナが、ギルドへ向かう通りに足を踏み入れた時だった。
突如、空が光った。
雷鳴ではなかった。正確には、雷鳴に似た何かだった。
曇り空の向こうで一瞬だけ白い光が閃き、数秒遅れて低い振動が石畳を伝って足裏に届く。
雨雲のもたらす稲妻とは明らかに質が違っていた。何よりも光の色が白すぎること。そして、音の方角に偏りがあった。
「……今のは」
ミレナの足が止まった。
風がない。空気の匂いに、湿気の気配はなかった。
雨が降る前触れではない。それなのにもう一度、先ほどよりも遥かに強い白い光が空の低い位置を走った。地面に響いた振動は、今度は足裏だけでなく腹の奥にまで伝わるほどだった。
「ミレナさん、今のって——」
「ええ」
ミレナの視線が、光の発生した方角を捉えていた。その目が、僅かに細められる。
「……南通りの、方角ね」
アヤトの胸の中で、何かが嫌な音を立てた。
南通り。井戸のある広場を過ぎた先の、住宅が並ぶ静かな区画。
そこには一軒の平屋がある。窓辺に薬草の鉢植えが並ぶ、小さな家。
「まさかリノアの——」
「ッ!」
アヤトがミレナの言葉を待たず、駆け出していた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
ミレナの声は背中に届いていたが、アヤトはその呼びかけに答える様子もなく、雷光が走った場所に向かって走り出した。
ミレナも数秒遅れを取る形で走り出す。マントの裾が風を孕んで大きく広がり、石畳を蹴る足音が通りに響く。
南通りに近づくにつれて、空気が変わっていった。
焦げた匂いが鼻を突く。木が燃えた匂いと、金属を擦り合わせたような刺激臭が混ざり合って、風に乗って流れてきていた。
通りの先から慌てた様子で走ってくる住人とすれ違い、窓から顔を出して何事かと叫んでいる老人の声が頭上を通り過ぎていく。
広場が見えた瞬間、アヤトの足が止まった。
「なん、だよ……これ。いったい、何が……」
広場の半分が、焼け野原と化していた。
街路樹は幹の半ばから折れて炭になり、ベンチは跡形もなく砕けている。
敷石は蜘蛛の巣状に亀裂が走り、そのところどころから白い煙がまだ細く立ち昇っていた。
地面に穿たれた穴の縁が赤黒く焦げていて、何か途方もない力がこの場所を蹂躙していったことだけが分かる。
通行人が数人、広場の入り口付近で足を止めていた。
近づく者はいない。誰もが遠巻きに、壊滅した広場を恐る恐る眺めている。子供を抱えて走り去る母親の姿もあった。
「ミレナさん、あそこ——」
アヤトの目が、広場の端に倒れている人影を捉えた。
崩れた壁の残骸に半ば埋もれるようにして、一人の少女が仰向けに横たわっている。
黒髪のセミロング。焼け焦げた白いブラウス。その胸元で、光を失った紫色の石が鈍く転がっていた。
アヤトはその少女に見覚えがあった。まぎれもなくシレナだった。
「シ、シレナ……ちゃん?」
名前が口から漏れた瞬間、足が勝手に前へ出ていた。
ミレナがすぐに腕を掴む。
「待ちなさい」
「で、でも!」
「不用意に近づくなと言っているのよ」
ミレナの声は低かった。
その青い瞳は、倒れているシレナだけを見てはいない。
焼けた敷石。砕けた壁。黒く炭化した木の根。地面に残る不自然な抉れ跡。
広場全体を、一つの戦闘跡として見ていた。
「まだ罠が残っているかもしれないわ。そもそもこれもこの女の芝居かもしれないでしょ」
焼け跡に残る熱が、靴底からじわじわと伝わってくる。
空気には、焦げた木の匂いと、鼻の奥を刺す金属質の臭いが混じっていた。
ミレナは慎重に一歩踏み出す。
「この娘が、シレナ……」
アヤトから話は聞いていた。
黒髪の、かわいらしい少女。甘い花のような香りを残して、妙に距離を詰めてくるのが上手い。
気が付けば警戒心を解かれ、つい気を許したくなるような相手。
だが、目の前に倒れているシレナは、アヤトの話から想像していた姿とはあまりにも違っていた。
白いブラウスは焼け焦げ、袖の片方はほとんど形を失っている。
露出した腕には赤黒い火傷の痕が走り、黒髪の先端も縮れていた。口元には血が滲み、呼吸は浅い。
少なくとも勝者の姿ではなかった。
「……生きてる、んですか」
アヤトの声が掠れる。
「ええ。少なくとも、まだ死んではいないわね」
ミレナはそうつぶやきながらも、しきりに周囲を見渡す。その視線の先が、リノアの家へと走った。
「シレナがここにいるということは……」
家は無事だった。壁も屋根も崩れておらず、窓辺の薬草の鉢植えもそのまま並んでいる。
戦闘の影響が及ばなかったのか、あるいは誰かが意図的に避けたのか。
「リノアがいるか確認してくるわ! あんたはここでこの女を見てなさい」
「えっ、あ、はい」
ミレナが走った。玄関の扉に手をかけ、引き開ける。鍵はかかっていなかった。
「リノア! リノア、いるの? 返事をしなさい。リノア!」
声が、家の中に響いた。返事はなかった。
ミレナは靴のまま中へ踏み込んだ。小さな居間を抜け、台所を通り過ぎ、奥の寝室の扉を開ける。
しかしリノアの姿は、どこにもなかった。
寝室の扉を開けた瞬間、湿った咳の音がミレナの耳を打った。
薄暗い部屋の中で、祖母が寝台の上に体を丸めていた。
毛布を胸元まで引き上げた姿勢のまま、小さな体が咳き込むたびに痙攣するように震えている。
枕元の布が湿り、白髪の隙間から覗く額にはうっすらと汗が浮いていた。
「おばさま!?」
ミレナは寝台の脇に膝をついて、祖母の肩に手を添えた。
背中をさすりながら呼吸が落ち着くのを待つが、咳はなかなか収まらない。
喉の奥から搾り出されるような音が、何度も途切れては繰り返される。
「おばさま、リノアは? リノアはどこへ行ったかご存知ですか?」
祖母の口が動いた。何かを言おうとしていた。
けれど声になる前にまた咳が込み上げて、言葉が途中で潰れてしまう。
目だけがミレナを見上げていた。その瞳には困惑が浮かんでいて、リノアの行方を把握していないことが、言葉を聞くまでもなく読み取れた。
ミレナは思わず唇を噛んだ。
この容態では話を聞き出すのは無理だった。それ以前に、このまま放置していたら祖母自身が危ない。
即座に居間を見回す。リノアが使っていた毛布は椅子の上に畳まれたまま。棚の上の写真立ても、薬草の束も、何もかもがいつも通りの位置にある。
少なくとも、家屋で争った形跡はないようだ。
おそらくリノアは家の中ではなく、外で何かに巻き込まれたのだろう。
「……失礼しますね、おばさま」
ミレナは祖母を毛布ごと抱え上げた。痩せた体は恐ろしいほどに軽い。腕の中で、まだ咳が小さく続いていた。
玄関を出ると、アヤトがシレナの傍にしゃがみ込んでいた。
触れてはいなかったが、その目は倒れたシレナの顔をじっと見つめている。ミレナの足音に気付いて振り返った顔に、すぐに焦りが浮かんだ。
「リ、リノアちゃんは……?」
ミレナはそれに答えずただ、首を左右に振った。
それだけで、アヤトの顔から血の気が引いていく。
「そんな……じゃあ、リノアちゃんはどこに……」
「今は分からないわ。誰かに連れていかれたのか、それともリノアが出ていったか。もっともおばさまを置いてここから逃げたとは思えないけど」
ミレナの声は硬かったが、焦っていないわけではない。
むしろ、胸の奥では嫌な予感が何度も形を変えて暴れていた。
けれど、腕の中では祖母がまだ苦しげに咳き込んでいる。
「とにかく、見ての通りおばさまの容態が悪いのよ。病院に連れていくしかないわね」
ミレナは祖母を抱え直した。
毛布越しの体は驚くほど軽く、骨ばった肩が腕に当たる。
咳のたびに小さな体が震え、その弱さが嫌でも伝わってきた。
アヤトは倒れているシレナへ視線を落とした。
焼け焦げた白いブラウス。血の滲んだ口元。力なく投げ出された手。
「……あ、あの。ミレナさん」
「何よ」
「その、シレナちゃんも、連れて行っていいですか」
「はぁ!? 何バカなこと言ってるのよ!」
ミレナの声が跳ねた。祖母を抱えた腕に力が入り直すのが、嫌でも分かった。
「この女がリノアを襲った相手なのかもしれないのよ? この広場の有様を見なさい。こいつがやったとしか考えられないでしょう」
「で、でも——」
「それに、あんただってこいつに散々騙されたんでしょうが。優しい顔して近づいてきて、私たちの情報を引き出して、利用するだけ利用して。全部この女の芝居だったのよ。忘れたの?」
忘れてはいなかった。
甘い声で名前を呼ばれたこと。腕にしがみつかれた時の花のような香り。困った顔で見上げてくる紫の瞳。
その全部が利用するためだけの嘘だったと知った時の、腹の底が冷たくなるような感覚を、アヤトはまだ覚えている。
覚えていて、それでもアヤトの目は地面に倒れたシレナから離れなかった。
「騙されたのは、確かにそうです。嘘だったのも分かってます、けど」
「なら——」
「でっでも、ほっとけないですよ」
強い声ではなかった。怒りも正義感も乗っていない。
ただそう感じたからそう言っている、というだけの言葉だった。
「それに、ミレナさん。シレナちゃんがここで倒れてるってことは、リノアちゃんを連れ去ったのはシレナちゃんじゃないってことですよね」
ミレナの眉が、ぴくりと動いた。
アヤトは倒れたシレナを見下ろしたまま、言葉を続ける。
「この状態で、リノアちゃんをどこかへ連れていけるとは思えません。だったら……他に誰かいたんじゃないですか」
「他に、誰か……」
ミレナの声が低くなる。
その瞬間、アヤトの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
白銀の髪。黄金色の瞳。人を見下ろすような、芝居がかった笑み。
そして、リノアを見た時の、あの気味の悪い目。
「ヴェイン……」
名前が、自然と口から零れていた。
ミレナの表情が変わる。
「あんた、今何て言ったの」
「あいつです。ヴェイン。あの野郎、リノアちゃんのことを狙ってましたし」
言いながら、胸の奥が冷えていく。
路上で出会った時、ヴェインはリノアを見ていた。
まるで人間ではなく、何か特別なものを見つけたような目で。
器。あの男は、確かにそう呼んだ。
「もしリノアちゃんが連れていかれたんだったら……きっとあいつが」
最後まで言えなかった。
言ってしまえば、それが現実として形を持ってしまう気がした。
ミレナは黙ったまま、焼けた広場へ視線を走らせた。
倒れているシレナと、どこにもいないリノア。
「まぁ、確かに。……この女がリノアを襲った可能性は高い。けれど、連れ去ったとは限らないようね」
「だったら、シレナちゃんは何か知ってるかもしれません」
アヤトはミレナを見た。
「リノアちゃんを助けるために、必要かもしれないんです」
「……」
「お願いします。病院まででいいんです。せめて、死なないように、目を覚ますまで」
ミレナはしばらくアヤトを見ていた。
祖母の咳が、腕の中で小さく響く。
周囲では、遠巻きに集まった住人たちのざわめきが少しずつ大きくなっていた。
時間はない。ミレナは短く息を吐いた。
「……ッチ。本当に、あんたは面倒なことを言うわね」
「すみません」
「謝るくらいなら最初から言わないでちょうだい」
冷たい声だったものの、それは完全な拒絶ではなかった。
ミレナは倒れているシレナを一瞥する。
「分かったわ、連れていく。ただし、助けるためじゃない。情報を聞き出すためよ」
「はい」




