6-11
一月の終わり、莉愛は限界を迎えた。
きっかけが何だったのかは、本人にも分からない。
上履きを隠されたことか、机の中に入っていたメモの言葉か、それとも廊下ですれ違った女子たちが自分を指差して笑ったことか。
どれか一つが決定打だったのではなく、すべてが少しずつ積み重なって、ある朝、莉愛の足が玄関の前で動かなくなった。
その日は、なんとか学校に行くことができた。
けれど教室に入った瞬間から耳の奥がぼうっと遠くなって、授業中も先生の声が水の底から聞こえてくるように感じた。
体はここにあるのに、頭だけがどこか別の場所に沈んでいくような感覚が一日中消えなかった。
この頃にもなると、家に帰っても心ここにあらず、というような状態になっていた。
夕食の準備を手伝おうと、莉愛は台所に立った。
母の隣に並んで、まな板の上のにんじんに包丁を入れる。
薄く切るつもりだった。いつも通りに、ただ手を動かすだけのはずだった。
けれど、刃先がにんじんの上で何度も止まる。
切った厚さはばらばらで、端のほうはほとんど潰れていた。包丁を握る手にも、妙な力が入らない。
「莉愛?」
母の声に、莉愛は肩を揺らした。
「あ……な、なに?」
「大丈夫? 手、危ないよ」
「ご、ごめんね。大丈夫、だから」
そう答えて、もう一度包丁を下ろそうとする。
だが、まな板の上に落ちた橙色の断面を見ているうちに、なぜか視界がぼやけた。
自分でも何をしているのか分からなくなる。
「あっ」
ふいに手が、滑った。
近くに置いてあった白い皿がタイルの床に落ちて、甲高い音を立てて割れた。
破片が足元に散って、莉愛はそれを見下ろしたまま動けなかった。
「莉愛! 大丈夫? 怪我してない?」
母が慌ててしゃがみ込み、莉愛の足元を確認する。裸足ではなかったから破片は刺さっていなかったが、莉愛の目はまだ床の欠片を見つめたまま、焦点が合っていなかった。
「……ごめんなさい」
「いいのよ、お皿くらい。それより足見せて」
「ごめんね、大丈夫。大丈夫だから」
莉愛は母の手を避けるようにしゃがんで、破片を拾おうとした。
指先が震えていて、欠片をうまく摘めない。何度か滑って、小さな破片が指の腹を掠めた。
「莉愛、いいから触らないで。ほうきで掃くから」
母の手が、莉愛の肩に触れた。
その温かさに、不意に鼻の奥がつんとした。
その後、食卓に座っても、莉愛の箸はほとんど動かなかった。
母が作った肉じゃがを一口だけ口に運んで、咀嚼して、飲み込んでも、まるで味がしない。
舌の上で食べ物が異物のように転がって、喉を通すのにひどく時間がかかった。
二口目に手をつけないまま、莉愛は茶碗の中の白米をぼんやりと見ていた。
「莉愛、食べないの?」
「……えっと。た、食べてるよ」
「全然減ってないじゃない。最近、本当に顔色悪いし。痩せたっていうか……ちょっとやつれてない?」
母の声に、父が箸を止めた。
新聞は今日は広げていなかった。その分、父の視線がまっすぐにこちらへ向いている。
莉愛は茶碗を持ち上げて、ご飯を口に押し込もうとした。
手が震えて、箸の間から米粒がぽろりと落ちた。
「……あのね、お母さん。お父さん」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
食卓の上に箸を置く。指が白くなるほど膝の上でスカートを握りしめて、莉愛は俯いたまま口を開いた。
「わたし、学校に……もう行きたくないの」
時間が止まったように感じたのは、莉愛だけだったかもしれない。
テレビの音声が妙にはっきり聞こえた。天気予報が、明日の関東地方は冷え込むでしょうと言っていた。
先に口を開いたのは、父だった。
「……どういうことなんだ?」
「そのまま、です。学校に、行きたくないの」
「何かあったのか」
莉愛の唇が、わずかに動いた。
何かあったかと聞かれたら、何もかもがあった。
ありすぎて、どこから話せばいいのか分からない。それを全部この食卓に広げたら、きっと二人にも凄い心配をかけてしまうだろう。
「クラスの子たちともずっと、ずっと馴染めなくて……。わたしその」
「友達のことか」
父は声を荒げなかった。荒げないぶんだけ、重かった。
「けど、あと二ヶ月もすれば二年生だろう。クラス替えもあるし。そこで環境が変われば、人間関係もリセットされる。今ここで投げ出すのは早いんじゃないか」
「……でも」
「お前があの学校に入るのに、どれだけ頑張ったか。父さんも母さんも見てきただろう。塾にも行かないで、図書館に通い詰めて。お前自身が一番行きたがった学校じゃないか」
莉愛の目が、母へ向いた。
すがるように。お母さんなら、この顔を見れば。
母は莉愛の視線を受け止めた。受け止めて、ほんの一瞬だけ眉を曇らせた。
それから、静かに頷いた。
「お父さんの言う通りよ。あと少しの辛抱じゃない。クラスが変われば気持ちも変わるわ。今ここで逃げ出すなんて――」
その一言が、莉愛の胸を刺した。
逃げているのではない。
もう限界なのだ。
上履きを探して一時間目に遅刻したことも、画鋲で指を刺したことも、鞄の中身を廊下にばらまかれたことも、教科書を破られたことも、誰一人として話しかけてこなくなった教室の空気も、何一つ話していないのに、逃げていると言われた。
「逃げてるんじゃ、ないの」
「莉愛——」
「わたし頑張ったよ。ずっと頑張ってたの。でも、もう——」
「だからこそ、ここで辞めたらもったいないだろう?」
父の言葉が、被せるように落ちてきた。
「もったいないって……」
莉愛の視界が、歪んだ。涙ではなかった。
もっと内側から、胸の底に溜まっていた何かが一気にせり上がってくる感覚だった。
「わたしの気持ちなんかより、学校のほうが大事なの!?」
「いや、そういう話をしているんじゃなくてだな」
「じゃあなんの話なの! わたしは助けてほしかったの! お父さんにも、お母さんにも!」
「何かあったのか? 誰かに何か言われたとか、そういうことか。どうなんだ莉愛?」
少し驚きながらも、父は莉愛に何があったかを問おうとする。
「……別に、そういうんじゃなくて」
嘘だった。嘘をつくつもりはなかったのに、喉がそう動いてしまう。
全部話してしまえば楽になれるかもしれない。けれど、口を開こうとするたびに教室の空気がこの食卓に流れ込んでくるような気がして、言葉が奥に引っ込んでいく。
「じゃあ何なんだ。行きたくないには、理由があるだろう。話さないとわからないじゃないか」
父の声には怒りよりも戸惑いのほうが多く混じっていた。
娘の扱い方が分からない不器用な人間の、精一杯の踏み込みだったのかもしれない。
それでも、莉愛には追い詰める手としか受け取れなかった。
「……言えないの」
「言えないじゃ分からないだろう。お前が何に困っているのか、ちゃんと話してくれないと、父さんたちにはどうしてやることも——」
「だから……。とにかく、もう行きたくないの!」
声が裏返った。
論理など、とうの昔にどこかへ落としてきていた。
説明しなければ伝わらないことは分かっている。
分かっているのに、喉を塞ぐものが多すぎて、何一つまともな形で出てこない。
「とにかくじゃ困るんだよ。学校で何があったのか——」
「もういいよ!」
椅子が悲鳴のような音を立てた。
莉愛自身、立ち上がったという自覚はなかった。
気付いた時にはもう食卓を見下ろしていて、自分の声だけが耳の中で反響していた。
「――お父さんもお母さんも大嫌い!」
言った瞬間、空気が凍った。
父の目が見開かれるのが見えた。
怒りではなかった。もっと奥のほう——殴られたような、信じられないものを見たような顔をしていた。
母は口元を手で覆っていた。その指先が微かに震えているのが、莉愛の視界の端に映った。
「あ……」
口を塞ぎたかった。
今の言葉を空気ごと吸い込んで、なかったことにしたかった。
大嫌い。あの二人に向けて、自分が。
頑張って働いて、この学校に通わせてくれている、あの二人に。
莉愛の目に涙が溢れた。視界が歪んで、父と母の顔がぐちゃぐちゃに滲む。
謝らなければ。そう思っているのに、口から出たのは嗚咽だけだった。
ごめんなさいの一言すら、もう喉を通ってくれなかった。
気づけば、莉愛は踵を返していた。
逃げるように玄関まで走って、壁にかけてあったショールを掴む。袖を通す余裕もなく、肩から引っかけるようにして纏った。
靴を踏みつけるように履いて、ドアノブに手をかける。
背後で母の声がした。
「莉愛!」
その声を振り切るように、莉愛は夜の中へ飛び出した。




