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6-10

 翌朝、蓮司は何事もなかったように席に着いた。


 鞄を机の横に掛け、椅子に深く腰を下ろし、大きく伸びをする。いつもの朝だった。少なくとも、彼にとっては。



「おー莉愛、おはよ。今日寒くね?」



 莉愛の体が、反射的に強張った。

 その声。その呼び方。その距離感。昨日の放課後まではただの日常だったものが、今朝は全く違う質感を持って鼓膜を叩いていた。



 ――俺がわざわざあんだけ優しくしてやってんのに。



 笑い声が、脳の奥にこびりついている。



「あ……うん」

「どうした、莉愛。顔色悪くない?」



 蓮司が覗き込むように首を傾げた。その仕草が、あまりにも自然だった。自然すぎて、莉愛には耐えられなかった。

 椅子を、半歩分だけ引いていた。自分でもそうしようと思ったわけではない。体が勝手に距離を取った。



「……大丈夫、です」

「本当か?」



 蓮司が怪訝そうに笑う。


 莉愛は俯いたまま、教科書を取り出すふりをして顔を隠した。手が震えていた。自分の指がこんなに冷たいことを、鞄の中に手を突っ込んでから初めて知った。


 蓮司はしばらく莉愛の横顔を見ていたが、やがて何か言いかけた口を閉じて、前を向いた。


 その数秒間のやり取りを、教室の後ろ側から三人の女子が見ていた。



「ねぇ見た? 小日向、一条くんに冷たくしてたよね今」

「振っといてあの態度、ほんとありえない」

「一条くんかわいそ。あんな優しくしてくれてんのにさ」





 その日の放課後、莉愛が鞄を持って教室を出ようとした時だった。



「莉愛、ちょっといい?」



 蓮司が、扉の前に立っていた。

 いつもの笑顔。いつもの声。けれど莉愛の足は、その笑顔を見た瞬間に縫い止められたように動かなくなった。



「少し話したいんだけど。ほら教室、もう誰もいないし」



 廊下に出ようとしていた足を引き戻され、扉が閉まる。蓮司の手が、扉に軽くかかったまま離れなかった。


 教室には二人だけだった。窓の外は既に薄暗く、グラウンドの部活の声だけが遠くに聞こえている。

 蓮司は教壇の前に腰を預けて、莉愛を見た。笑っている。笑っているのに、目の温度が朝とは違う。



「今朝のあれ、わざとだろ」

「……え?」

「椅子引いたの。俺が話しかけた時に、体ごと離れたよな」



 莉愛の指先が、鞄の持ち手を握りしめた。



「あ、あれは——」

「昨日、聞いてたんだろ」



 蓮司の声は穏やかなままだった。

 問い詰めているのに、まるで天気の話でもするかのような調子を崩さない。それが余計に怖かった。



「渡り廊下のとこ。段ボール落としただろ。あの音さ、俺聞こえてたんだよね」



 莉愛は何も言えなかった。

 否定することもできなかった。昨日の渡り廊下で、段ボールを落とした音。あの瞬間に気付かれていたのだと、今になって理解した。



「別に怒ってないよ。聞かれたもんはしょうがないし」



 蓮司は教壇に寄りかかったまま、腕を組んだ。



「でさ、莉愛。一つ提案があるんだけど」

「……提案?」

「俺と付き合わない?」



 莉愛は耳を疑った。

 数秒前に「聞いてたんだろ」と言った人間の口から、同じ言葉が出てきたことが信じられなかった。



「ちょっと、何を——」

「まぁ聞けって。悪い話じゃないからさ」



 蓮司の声には、焦りも動揺もなかった。むしろ商談でも持ちかけるような落ち着きがあった。



「お前、今クラスの女子から総シカトされてるだろ。そんなの俺が見りゃ分かるよ。上履き隠されてんのも、机に変なもん入れられてんのも」



 莉愛の心臓が、嫌な音を立てた。

 知っていた。全部知っていて、何もしなかった。



「俺がさ、お前の彼氏っていうポジションに収まれば、あいつら手ぇ出せなくなるんだよ。分かるだろ? 俺に逆らってまでお前をいじめるメリット、あいつらにはないんだから」



「……それ、は」

「お前は嫌がらせされなくなる。俺はお前が隣にいて嬉しい。ウィンウィンだろ?」



 優しい声だった。

 屋上で告白された時と、同じトーンだった。同じトーンで、全く違うことを言っている。



「もちろん断ってもいいよ。強制はしないし。ただ——」



 蓮司が教壇から腰を上げ、一歩だけ莉愛に近づいた。



「俺がこっち側にいなくなったら、あいつらもっとエスカレートすると思うけどね。今は俺がいるから、あの程度で済んでるわけだし」



 蓮司の声のトーンは変わらない。変わらないまま、もう一枚、カードを切るように言葉を足した。



「俺がお前に拒絶されたって、クラスのみんなに知れたら……どうなると思う?」



 莉愛の呼吸が、止まった。


「今はまだ、俺が普通に接してるから均衡が保ててるんだよ。あいつらだって、俺の前ではお前に手ぇ出さないだろ?」



 確かにそうだった。蓮司がいる場面では、女子たちの態度は多少なりとも抑えられていた。


 それがこの男の計算だったのかどうかは分からない。けれど事実として、蓮司という壁がなくなった教室を想像した瞬間、莉愛の膝から力が抜けかけた。



「でも俺が『あいつに冷たくされた』って顔しちゃったら、どうなるかな。別に俺が何かするって話じゃないよ? ただ、みんな勝手に判断するよね」



 笑っている。穏やかに、優しく、笑っている。

 その笑顔の裏に何が張り付いているのかを、莉愛はもう知ってしまっていた。



「……ッ」




 莉愛はその場から逃げ出すように走っていた。

 鞄を胸に抱えたまま、教室を飛び出し、廊下を駆け、階段を二段飛ばしで降りた。


 背中に蓮司の視線が貼りついている気がして、振り返ることができなかった。


 下駄箱で靴を履き替える手が震えて、何度もかかとを踏んだ。

 やっと足をねじ込んで、正門までの道を走る。息が切れているのに、足が止まらない。止めたら、あの教室に引き戻されるような気がした。



 誰もいなくなった教室で、蓮司は窓際に寄りかかった。

 走り去る足音が廊下から消えていくのを、特に追うでもなく聞いていた。



「あーあ」



 呟きは、独り言だった。窓の外に目を向ける。

 グラウンドでは野球部がトンボをかけている。その光景を眺めながら、蓮司は小さく息を吐いた。



「俺はどうなっても、知らねぇけどな」



 その声には怒りも焦りもなかった。

 ただ、興味を失ったものを手放す時の、乾いた響きだけがあった。


 翌日から、教室の空気が変わった。

 変わった、というのも正確ではない。



 今まで蓮司の存在がかろうじて抑えていたものが、蓋を外されたように溢れ出した。


 蓮司はもう莉愛に話しかけなくなっていた。

 朝の挨拶も、ノートの貸し借りも、何もかもが消えた。

 隣の席に座っているのに、莉愛がそこにいないかのように振る舞っている。


 女子たちは、それを見逃さなかった。



「あれ? 蓮司くん、小日向ともう喋ってなくない?」

「ほんとだ。一条くん完全にシカトしてんじゃん」

「さすがにあんだけ冷たくされたら離れるよね」

「ていうかシカト決めてんのはあの女のほうじゃない? 本当に何様のつもりなんだか」



 蓮司という抑えがなくなった教室で、莉愛を守るものは何もなかった。


 鞄の中身を教室の外にばらまかれたのは十一月の末だった。

 筆箱が踏まれて割れ、中のペンが廊下に散らばっていた。

 拾い集めている莉愛の横を、クラスメイトが何人も素通りしていく。目を合わせる者は、一人もいなかった。



「莉愛、テストの結果どうだった?」



 夕食の席で、母が何気なく聞いた。

 莉愛は味噌汁の椀を口元に寄せたまま、一拍遅れて答えた。



「……ちょっと下がっちゃった。ごめんなさい」

「ちょっとって、どのくらい?」

「……えっと、少し。でも大丈夫。もっと頑張るから」



 母の箸が止まるのが、視界の端に映った。

 父の目がこちらに向いたのも分かったが、莉愛は味噌汁を啜るふりをして顔を隠した。



 心配をかけたくなかった。

 この家だけが、まだ莉愛にとって安全な場所だったから。

 学校のことを話せば、この食卓にまであの教室の空気が流れ込んでくる。それだけは嫌だった。



「ねぇ、学校で何か——」

「なんでもないよ、本当に。次はもっと頑張るね」



 莉愛は笑った。

 笑ったが、上手く笑えているのかどうか、自分でも分からなかった。

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