6-9
それからの日々は、じわりと色を変えていった。
「小日向、今日の掃除あたしの分もやっておいてくれない? 小日向なら嫌って言わないでしょ?」
「あ……うん。いいよ」
最初は、その程度だった。
掃除の代わり。プリントの配布。委員会の雑務の引き継ぎ。
どれも一つ一つは大したことではなく、莉愛にとって人の頼みを断ること自体が苦手だった。
だから、頷いた。何度でも、何度でも。
「小日向、悪いんだけど文化祭の買い出し、あたしの分もお願い。荷物重いけど、いけるでしょ」
「えっと……今日はその……。ちょっと用事が」
その一言で、莉愛の口は閉じた。
「はーん、男子に頼まれたらホイホイやるくせに、あたしらの頼みは断るんだ」
「……ごめんなさい。やる、やります」
「ふん、最初からそう言えばいいのに」
断ればあの言葉が飛んでくる。
男の言うことは聞くのに。媚びを売ってるくせに。偽善者のくせに。
そう分かってしまったら、もう首を横に振ることができなくなった。
そうして、雑用はもう断れなくなっていった。
莉愛の優しい性格と、今の立ち位置に付け入るように、お願いという名のパシリは、日に日にエスカレートしていった。
掃除の肩代わり。教室の整頓。配布物の仕分け。クラス委員の仕事。
文化祭の後片付けでは、莉愛一人が段ボールの山を資源倉庫まで運ばされた。
放課後の時間は、他人の雑用で潰れていく。
自分の勉強に回す時間は目に見えて減り、朝早く登校して教室で問題集を開こうとしても、集中力そのものが底をついていた。
夏休みが明けた九月、莉愛の席の周囲には誰も座らなくなっていた。
隣の蓮司だけが変わらず話しかけてくる。その声に応じるたびに、教室のどこかから視線が刺さる。
莉愛は蓮司への返事を、少しずつ短くしていった。
授業中、ノートを取る手が止まる回数が増えた。
教科書の同じ行を何度も目で辿っているのに、意味が頭の中をすり抜けていく。
いじめは、さらに形を変えていった。
上履きが下駄箱からなくなっていたのは、十月に差し掛かってすぐのことだった。
教室のゴミ箱で見つけた時には、片方の中敷きに油性ペンで文字が書かれていた。読んで、消して、何食わぬ顔で履いた。
机の中に入れておいた教科書のページが破られていたこともある。
心無い言葉で落書きをされていたこともある。
そのどれもが、誰がやったのか分からない形で行われた。犯人の見えないいじめは、訴える先もなかった。
十月の半ば、莉愛は蓮司の下駄箱に手紙を入れた。
白い封筒に、短い文だけを書いた。
放課後、屋上に来てほしい。話したいことがある。
便箋を折る指先は冷たかったが、これ以上先延ばしにはできなかった。
保留にしたまま二ヶ月以上が過ぎている。
その間ずっと、莉愛は蓮司の顔をまともに見られなくなっていた。話しかけられるたびに周囲の目が突き刺さり、返事をすれば空気が凍る。
彼の優しさが、そのまま莉愛の首を絞めていく。
それでも蓮司は悪くない。悪くないからこそ、曖昧にしておくことが一番残酷だと、莉愛はようやく気付いた。
放課後の屋上は、七月とは別の顔をしていた。
風は冷たく、空は高い。グラウンドの声も夏の頃より遠く聞こえる。
蓮司は前と同じ場所に立っていた。
フェンスに背を預けて、莉愛が扉を開けるのを待っている。手紙の内容で察しているのだろう。その顔には、いつもの気軽さがなかった。
「その、ごめんなさい!」
莉愛は立ち止まったまま、頭を下げた。前置きも、言い訳も、何も用意できなかった。
「蓮司くんの気持ちは、すごく嬉しかったです。でも、わたしは……蓮司くんのこと、そういうふうには見られませんでした」
言い終えた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
ひどいことを言っていると、そう思った。
けれど、これ以上曖昧にしておくほうが、もっとひどい。
莉愛は頭を下げたまま、指先を握りしめる。
「ずっと返事をしないままで、本当にごめんなさい」
風が吹き、フェンスがかすかに鳴る。
蓮司はすぐには何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、莉愛は顔を上げられない。
怒っているかもしれない。呆れているかもしれない。
傷ついた顔をしているかもしれない。
自分がそれを見る資格があるのかどうかも、分からなかった。
「……そっか」
ようやく聞こえた声は、思っていたよりも静かだった。
「うん。分かった」
蓮司の声に、怒りはなかった。
莉愛がようやく顔を上げると、蓮司は困ったように頭をかいていた。
怒りでも失望でもない、穏やかな苦笑が口元に浮かんでいる。
「ちゃんと考えてくれたんだろ」
「……えっと、はい。ごめんなさい」
「なら、いいよ。謝んなって。ありがとな、莉愛」
その笑い方は、夏の日に告白した時と同じように、まっすぐだった。
莉愛は頭を下げた。
もう一度、ごめんなさいと言おうとして、やめた。これ以上謝れば、蓮司の優しさまで否定してしまいそうな気がした。
「んじゃ、先戻るわ」
蓮司はポケットに手を入れて、先に屋上の扉へ向かった。その背中が扉の向こうに消えるまで、莉愛はその場に立ったまま動けなかった。
翌日から、教室の温度がまた一段下がった。
莉愛が蓮司を振った。その事実は、一晩のうちに学年中へ広まっていた。
「自分から気ィ持たせといて振るとか、最悪じゃない? ちょっとかわいいからって調子乗りすぎでしょ」
「ほんと。一条くんかわいそう」
「結局遊んでたんでしょ、あのビッチ」
声を潜める気配すら、もうなかった。
莉愛の席の前を通り過ぎる時に聞こえるように。
水道で手を洗っている時に、隣で。教室の隅で輪を作って、こちらを見ながら。
受け入れれば媚びていたと言われ、断れば弄んだと言われる。
どちらを選んでも、莉愛に逃げ場はなかった。
最初から、正解など用意されていなかったのだと、今ならば分かる。
分かったところで、何も変わらなかった。
十一月の放課後の教室。
莉愛は一人で文化祭の残りの撤去作業を続けていた。
押し付けられた、と言ったほうが正確だろう。
装飾に使った段ボールや模造紙を分別して資源倉庫まで運ぶ作業を、装飾班の女子たちは当然のように莉愛に残していった。
両腕に段ボールの束を抱えて、裏階段を降りる。
資源倉庫は旧校舎と本校舎をつなぐ渡り廊下の奥にあって、この時間帯に人が通ることはほとんどない。
倉庫の扉に手をかけようとした時、渡り廊下の先から声が聞こえた。
男子の笑い声だった。二人、いや三人だろうか。
窓の開いた踊り場のあたりで、誰かがたむろしている。部活帰りだろうかと思いながら扉を引こうとした莉愛の手が、ぴたりと止まった。
「つーかお前、まだ引きずってんの?」
「引きずってねぇよ。ムカついてるだけ」
それはまぎれもなく、蓮司の声だった。
「お前があそこまで尽くしてんの久しぶりに見たわ。ノートも貸してやって、委員会も手伝ってやって。しょっちゅう話しかけてやってさ」
「だろ? 普通あんだけされたら好きになるだろ。なのに保留とか言い出して二ヶ月引っ張った挙げ句、ごめんなさいだぜ? 笑えるよな。この俺に告白されてるんだぜ」
笑い声が反響した。渡り廊下のコンクリートの壁が、声を無駄によく通していた。
「かわいい顔しておいて、やることえげつねぇな」
「それな。つかあのタイプが一番めんどくせぇんだわ。優しくすりゃ何でもハイハイ言うから楽勝だと思ったんだけどな」
莉愛の腕から、段ボールが滑り落ちた。
床に当たる音は思ったより小さかった。
それでも莉愛は咄嗟に口を手で塞いで、息を殺した。
「チョロそうなくせして、肝心なとこだけ変にプライドあんの、あれマジで意味分かんねぇ」
いつも教室でよく通っていた声。
莉愛の名前を、何のためらいもなく呼んでいた声。
大丈夫か、と覗き込んでくれた声。
その同じ声が、今は自分を笑っていた。
「でもさ、あいつ結構人気あったじゃん。お前、そこ狙ったんだろ?」
「まぁな。顔はいいし、性格も大人しそうだし。付き合ったら周りに自慢できると思ったんだけど」
「うわ、正直だな」
「別にいいだろ。かわいい子と付き合いたいって普通じゃね?」
「まぁな。確かに小日向はかわいいってのは同感」
「つーか振られたの初めてだわ。なんあの女」
「キャハハ! たしかに。お前がちょっかいかけた女は、みんなメスの顔してたもんな」
男子たちの笑い声が重なった。
「けどあいつ女子たちから評判悪りぃよな」
「やばいっつーか、もう完全にハブられてんじゃん。クラスの女子で小日向と普通に喋ってるやつ見たことねぇもん最近」
蓮司が鼻で笑った。
「だろ? 男にはヘラヘラ愛想振りまくくせに、女子からは嫌われてんの。そういうとこなんだよ、あの女のダメなとこって」
「自業自得ってやつだろうな」
「ほんとそれ。俺に対しても結局そうだったし。優しくされたら優しくされたで何も返さねぇし、告白したらしたで逃げるし。関わって損したわマジで」
莉愛は壁に背中を押しつけたまま、動けなかった。
手で口を塞いでいなければ、声が漏れていたかもしれない。喉の奥で何かが潰れるような感覚がして、視界の端がじわりと歪んだ。




