6-8
夏休みが目前に迫った七月の半ば、蓮司が足首を軽くひねった。
体育の授業中だった。バスケの試合で着地を誤り、保健室で湿布を貼ってもらった程度のもので、骨にも靭帯にも異常はなかった。
ただ、念のために数日は部活を控えるようにと顧問から言い渡されたらしい。
翌日の放課後、いつもなら部活に行くはずの蓮司が教室に残っていた。
「あ、蓮司くん、部活は?」
「あぁ、足首やったから数日休み。暇だし、文化祭の準備手伝うわ」
装飾班の作業机に、蓮司が当たり前のように椅子を引いた。
莉愛が口を挟む余地はなかった。
手伝い自体はありがたいことで、断る理由もない。実際、蓮司は器用だった。看板の文字は上手いし、配色のセンスも悪くない。作業は確かに進んだ。ただ、それが三日続いた頃だった。
「莉愛、このレイアウトどう思う?」
「うん……いいと思います。文字がもう少し大きいほうが映えるかも……」
「なるほどね。さすが莉愛」
蓮司の声はよく通る。本人に悪気はないのだろうが、小声で話すという選択肢がこの男にはどうやら存在していなかった。
教室の隅で別の作業をしていた女子たちの手が、一瞬だけ止まるのが見えた。
その一瞬が、莉愛にはやけに長く感じられた。
折り紙を切る音。段ボールを押さえる手。色画用紙の上を滑っていた定規。
それらが、ほんのわずかに止まって、また何事もなかったように動き出す。
蓮司は気付いていない。莉愛の横で、レイアウト案を覗き込みながら、次はここを赤にしたら目立つんじゃないかなどと楽しそうに言っている。
その距離がやけに近い。
肩が触れるほどではない。けれど、同じ紙を見るには十分すぎる近さだった。
莉愛は少しだけ椅子を引いた。
「あ、うん……赤も、いいと思います。でも、少し強すぎるかもしれないので、周りの飾りと合わせて……」
「なるほど。じゃあここだけ赤で、他は淡い色にするか」
「はい。そのほうが、まとまりやすいと思います」
「助かるわ。莉愛ってこういうの得意だよな」
蓮司は何の迷いもなく笑う。
その笑顔に、教室の空気がまた少しだけ硬くなった気がした。
莉愛は返事に迷い、曖昧に笑って視線を紙へ戻す。
褒められたこと自体は、嬉しくないわけではない。
けれど今は、その言葉が自分に向けられるたび、どこかで誰かの眉が動くような気がしてならなかった。
「……小日向さんって、ほんと器用だよね」
少し離れた場所から、女子の声が飛んできた。
莉愛が顔を上げると、数人がこちらを見ていた。
笑っている。作業の手も止めていない。ただ、その笑みは薄かった。
「え? そんなことは……」
「あるよ。勉強もできるし、先生受けもいいし、男子ともすぐ仲良くなれるもんね」
男子とも。その言葉だけ、妙に強く聞こえた。
莉愛の指先が、画用紙の端を押さえたまま止まる。
文化祭の準備は四日目を迎えていた。
六時間目が終わり、教室がざわつき始める。
装飾班の何人かが段ボールを運び出し、机を端に寄せる準備を始めていた。莉愛も筆箱を鞄にしまい、席を立とうとした時だった。
「莉愛」
蓮司が、いつもより少しだけ声を落としていた。
それが妙に引っかかった。この男が声を抑えること自体が珍しいのだ。
「準備の前にさ、ちょっとだけ時間もらえない?」
「え……は、はい。大丈夫、ですけど」
「屋上来てくれない? すぐ終わるから」
蓮司はそれだけ言って、先に教室を出ていった。
鞄を肩にかけ直す莉愛の手が、一瞬止まる。
屋上の放課後、準備の前に。理由は言わなかった。
胸の奥が、とん、と小さく鳴った。嫌な予感に近い何かだった。
予感の正体を確かめるより先に、体が動いていた。
教室の後ろのドアから廊下に出て、階段を上る。三階を過ぎて、屋上に通じる踊り場の扉を押した。
錆びた蝶番が軋み、湿った夏の風が顔に当たった。
屋上には、蓮司が先に来ていた。
フェンスの近くで、片足に少しだけ体重を逃がすように立っている。
捻った足首を庇っているのだろう。普段なら何でもない立ち姿まで、どこか落ち着かなげに見えた。
莉愛が扉を閉めると、校舎の中のざわめきが遠のいた。
代わりに聞こえてくるのは、グラウンドから響く運動部の掛け声と、風に揺れるフェンスのかすかな音だけだった。
「ごめんな、急に呼んで」
「い、いえ……。平気、です」
そう答えながらも、莉愛の指先は制服の裾を掴んでいた。
大丈夫。そう言った声が、自分でも少し硬いと分かった。
蓮司はいつものようにすぐ本題へ入らなかった。
何かを言おうとして、視線を逸らす。フェンスの向こうへ目を向けて、また莉愛を見る。
その間が、余計に胸をざわつかせた。
「えっと……何か、ありましたか?」
「あー……うん。まぁ、そうなんだよ」
蓮司は後頭部をかいた。
照れ隠しのようにも見えたし、言葉を探しているようにも見えた。
「俺さ、こういうのあんまり上手く言えないんだけど」
風が吹いた。
莉愛の髪が頬にかかる。それを指先で押さえながら、莉愛は蓮司の言葉を待った。
「俺さ……莉愛のこと、その……。好きなんだ」
時間が、一瞬だけ止まったような気がした。
好き。その言葉は、思っていたよりもまっすぐで、逃げ場がなかった。
蓮司は茶化さなかった。いつもの明るさも、気軽さもない。少しだけ耳を赤くしながら、それでも莉愛から目を逸らさずに立っている。
だからこそ、莉愛は何も言えなかった。
冗談なら笑って流せた。からかいなら怒ることもできた。
でも、これは違う。蓮司は本気で言っている。
それが分かってしまったから、喉の奥がきゅっと狭くなった。
「……え」
ようやく出た声は、それだけだった。
「あっ、うん。急に言われても困るよな。分かってる」
蓮司は苦笑した。
「でも、このまま普通に文化祭準備して、夏休み入って、そのまま何も言えないのも嫌だったんだよ」
莉愛は制服の裾を握る手に力を込めた。
嬉しいかどうかも分からない。
嫌ではない。蓮司のことを嫌いなわけではなかった。
明るくて、誰にでも優しくて、裏表がなくて。
隣の席で話している時間が苦痛だったことなど、一度もない。
けれど、それを恋と呼べるのかは分からなかった。
何より、頭の奥で別の声が鳴っていた。
教室の隅で止まった女子たちの手。廊下ですれ違った時の笑い声。名前呼びを責めるような目。
それらが一斉に蘇って、蓮司の言葉をまっすぐ受け止める余裕を奪っていく。
「ご、ごめんなさい」
莉愛は反射的に頭を下げていた。
蓮司が息を呑む気配がする。
「あ、いや、謝らなくていいって」
「違うんです。その……嫌とか、そういうことではなくて」
言葉がうまく繋がらない。
蓮司を傷つけたくないが、曖昧に頷くこともできない。
そのどちらも選べないまま、莉愛は俯いた。
「わたし、まだ……そういうふうに、ちゃんと考えられなくて」
「うん」
「だから、その。今すぐ返事は……できません」
言い終えたあと、胸が痛くなった。
断ったわけではない。受け入れたわけでもない。
ただ、逃げた。そんな気がして、莉愛は唇を噛む。
蓮司は少し黙っていた。怒っただろうか、それとも呆れただろうか。
怖くなって顔を上げると、蓮司は困ったように笑っていた。
「そっか。うん、分かった」
「……ごめんなさい」
「だから謝んなって。急に言ったの俺だし」
蓮司の声は優しかった。
その優しさが、今は少しだけ苦しい。
「返事、急がなくていいから」
「え?」
「文化祭終わってからでもいいし。なんなら夏休み入ってからでもいいし。ちゃんと考えてくれるなら、それだけで嬉しい」
まっすぐな言葉だった。
莉愛は頷くしかなかった。
「……はい」
その返事を聞いて、蓮司はようやくいつもの顔に戻った。
「よし。じゃあ戻るか。あんまり遅くなると、準備サボってるって言われるし」
「えっと。……そう、ですね」
莉愛も笑おうとしたが、うまく笑えた自信はなかった。
蓮司が先に扉へ向かう。足首を庇いながら歩く背中を見て、莉愛は少しだけ遅れて後を追った。
屋上の扉を開けた瞬間、階段の下から小さな物音が聞こえた。
誰かの靴音。慌てて遠ざかるような、軽い音だった。
「……?」
莉愛は思わず足を止めた。それを見て蓮司も振り返る。
「どうかした?」
「あ、いえ……。今、誰かいたような」
「先生じゃない? 屋上、長居するなって言いに来たとか」
「……そう、かもしれません」
莉愛はそう答えた。けれど、胸の奥のざわめきは消えなかった。
階段を降りる間も、ずっと背中に冷たいものがまとわりついている。
教室へ戻ると、装飾班の作業はすでに始まっていた。
段ボールを切る音。笑い声、机を引きずる音。
いつも通りの放課後のはずだった。
それなのに、莉愛が教室に入った瞬間、いくつかの視線がこちらを向いた。
蓮司が後ろから入ってきたその瞬間、誰かが小さく笑う。
聞き間違いかもしれないと、そう思いたかった。
けれど、莉愛には分かってしまった。屋上でのことを、誰かに見られていたと。あるいは、聞かれていたのだろうと。
翌日の昼休みのチャイムが鳴って、数分も経たないうちだった。
弁当を出そうとした莉愛の机を、五人の女子が囲んでいた。
「ねぇ小日向ってさ。一条くんと付き合ってるって本当? 昨日、告白されたんでしょ」
「付き合ってなんかいません……。それにわたし、返事はまだ——」
「返事してないってことは、断ってないんでしょ」
言葉が、詰まった。
「ずっと思ってたんだけど。小日向って、いい子ちゃんのフリして男に取り入るの上手いよね」
「え……そんな」
「誰にでも優しくしてまーす、困ってる人放っておけませーん、って顔して。結局やってることは男に媚び売ってるだけじゃん」
莉愛の手が、膝の上で小さく震えた。
「清楚ぶってるのが一番タチ悪いんだよね」
「ほんとそれ。男の前だけ声色変えてさ」
一人がそう吐き捨てると、少し離れた場所から別の声が重なった。
「いい子ちゃんのフリした偽善者が。そうやって男の気引きたいだけなんでしょ」
莉愛の視界が、滲んだ。
「あの子どうせ裏では男とヤリまくってるよ。絶対」
笑い声が起きた。
莉愛は何も返せなかった。唇を噛んで、膝の上の拳を見つめることしかできなかった。




