6-7
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白花学園。都心から電車を二本乗り継いだ先にある、私立の進学校。
校舎の壁を覆う蔦は季節ごとに色を変え、正門脇の桜の古木だけが、創立七十年の歴史をかろうじて証明している。
偏差値は高く、入試の倍率もそれなりに厳しい。名門、というほどの看板はないが、ここに通っているというだけで周囲の目は少し変わる。そういう位置づけの学校だった。
リノア――小日向莉愛がこの制服に袖を通したのは、二年前の春のことだ。
受験勉強は楽ではなかった。塾に通う余裕のない家計の中で、莉愛は図書館の自習室に籠もって問題集を解き続けた。
合格したとき、母が泣いたのを覚えている。父は何も言わずに莉愛の頭を一度だけ撫でて、その手が震えていた。
応援してくれたその二人のために、ここにいる。
莉愛にとって白花学園とは、両親の期待と、自分の努力が形になった場所だった。
柔らかそうな茶色の髪を肩の下まで伸ばし、前髪は目にかからない程度に揃えている。
制服のリボンは緩めず、スカートの丈も校則通り。
特別に目立つ生徒ではなかったはずだ。少なくとも、莉愛自身はそう思っていた。
「小日向さん、ここ分かんないんだけど教えてくれない?」
「はい、もちろんです。えっとね、ここは――」
昼休みに数学のノートを広げて教える。放課後に拾った落とし物を職員室へ届ける。廊下で泣いている子がいれば、何も言わずにハンカチを差し出す。
莉愛にとっては、そのどれもが特別なことではなかった。
困っている人がいたら手を貸す。理由を聞かれても困る。
そうしたいからそうしている、それだけの話だった。
「小日向さんって、なんか話しやすいよね」
「わかる。変に気取ってないっていうか」
「それでいて顔もかわいいとかさ。神様って不平等じゃない?」
そんな言葉が、入学して最初の頃にはちらほら聞こえていた。
莉愛は照れくさそうに笑って、ありがとうとだけ返した。
一条蓮司の名前を最初に意識したのは、いつだったのか。莉愛自身はよく覚えていない。
ただ、周囲の女子たちはとっくに覚えていた。
「蓮司くん、また体育で一番だったらしいよ」
「テストも上位でしょ? なんか反則じゃない?」
「イケメンだし、先生にも好かれてるし。彼女いないってほんとかな? 絶対嘘だよね」
一年四組、一条蓮司。
入学直後から学年中に名前が広まるまで、そう時間はかからなかった。
成績は常に上位。運動もできる。
明るくて、誰とでも壁を作らずに話す。教師からの信頼も厚い。
それでいて嫌味がないのは、本人がそういった周りからの評価に無頓着だからだろう。
周囲が勝手に持ち上げているだけで、当人は何も気にしていない。その自然体なところが、余計に好感を集めていた。
一条蓮司の席は、莉愛の隣だった。ただそれだけの話で、莉愛がそこに意味を見出すことはなかったし、蓮司のほうもおそらく同じだったのだろう。
最初に声をかけてきたのは、五月の中間テストの少し前だった。
「なぁ小日向、昨日の英語のノート見せてくんない? 俺さ、部活で写しそびれちゃって」
「あ、うん。いいよ。どうぞ」
莉愛はカバンからノートを取り出して、蓮司の机の上に置いた。
それだけだった。それだけのことに、莉愛は何の感慨も抱いていない。
クラスメイトにノートを貸す。他の誰に頼まれても同じことをしていただろう。
「字きれいだな、小日向。めちゃくちゃ読みやすいよ」
「そうかな……。ありがとうございます」
蓮司は素直に褒める人間だった。
思ったことをそのまま口にして、裏表がない。
それは長所であり、同時に少しだけ厄介な性質でもあったのだが、この時点では莉愛も周囲も、まだそのことに気付いていなかった。
「ねっ、お似合いじゃない? 二人とも顔いいしさ。美男美女って感じ」
誰かがそう言ったのは、ノートの貸し借りが二度目か三度目のことだったと思う。
教室の中で、冗談混じりの軽い声だった。
莉愛は困ったように首を振り、蓮司は笑って流した。
周囲もまだ笑っていた。悪意のない、軽口の延長だったはずだ。
空気が変わり始めたのは、いつ頃からだったのだろうか。
夏休みまであと一か月を切った六月の後半、それは唐突に起きた。
授業の始まる直前、蓮司が自分の席に座ったまま、横からひょいと莉愛の机に消しゴムを返してきた。昨日、莉愛から借りたものだった。
「ありがとな、莉愛」
「えっ……」
一瞬、誰に向かって言ったのか分からなかった。
莉愛が顔を上げると、蓮司はもう前を向いていた。
「あ、うん……」
何の気負いもない横顔だった。
名前を呼んだという自覚すら怪しいくらいの、あまりに自然な調子だった。
心臓が跳ねたのは、恋愛感情からではない。不意打ちだったからだ。
小日向から莉愛へ。その距離の詰め方に、莉愛の体が勝手に反応しただけで、頭のほうはまだ追いついていなかった。
次の日も、その次の日も、蓮司は同じように莉愛と呼んだ。
朝の挨拶で。ノートを返すときに。移動教室の廊下で、たまたますれ違ったときに。
そのたびに莉愛は少しだけ戸惑って、けれど訂正する言葉が見つからないまま、曖昧に頷いてしまう。
嫌なわけではなかった。不快だと思えたなら、やめてほしいと言えたのかもしれない。そうではなかったから、困った。
「なぁ莉愛、一個頼みがあるんだけど」
三日目か四日目の放課後、委員会の資料を職員室に届けた帰り道で、蓮司が言った。
「俺のこともさ、一条さんじゃなくて、蓮司って呼んでくんない?」
「え?」
「だってさ、俺だけ名前で呼んでるの、なんか不公平じゃん。それにさ、一条『さん』なんて仰々しいっていうかさ、な?」
不公平、という言葉の選び方が、蓮司らしかった。深い意味はおそらくない。
ないのだろうと莉愛にも分かっていた。
「え、えっと。……じゃ、じゃぁ。蓮司、くん?」
「くん付きかぁ。まぁいいや、それで」
蓮司は満足そうに笑って、先に階段を降りていった。
莉愛は廊下に一人残されたまま、自分の口から出た音を頭の中で反芻していた。
呼んでしまった。一度呼んでしまったら、もう元の呼び方には戻れない。
そういうものだと、なぜか直感的に分かった。
翌日から、教室の空気がまた一段階変わった。
莉愛が蓮司を名前で呼んでいるという話は、一日と経たずにクラス中に行き渡った。
男子よりも、女子の耳に届いた。
「ねぇ聞いた? 小日向さん蓮司くんのこと名前で呼んでるんだって」
「えっ、いつから?」
「昨日? 一昨日? とにかくもう二人して名前呼びらしいよ」
「マジ!? それって絶対付き合ってるでしょ」
昼休みの購買前。教室の隅。体育館への渡り廊下。
莉愛の知らない場所で、同じ会話が何度も繰り返されていた。
最初は、まだ噂だった。
誰かが楽しそうに話して、誰かが大げさに驚いて、すぐに別の話題へ流れていく。
その程度のものだった。
莉愛自身も、すぐに収まると思っていた。
蓮司とはたまたま席が隣で、話す機会がその分多いだけ。
ノートを貸すのも、消しゴムを返すのも、教科書を見せるのも、特別なことではない。
そう説明すれば、きっと分かってもらえる。
けれど、周囲は莉愛が思っているほど単純ではなかった。
「小日向ってさ、今日も蓮司くんと話してたよね」
「え? あ、うん。席が隣ですから……」
「ふぅん。席が隣だから、ね」
笑っているのに、声が冷たい。
その違和感に気付いたのは、夏服に変わってしばらく経った頃だった。
朝、教室に入った瞬間に会話が途切れる。
廊下ですれ違った女子たちが、莉愛の顔を見てから小さく笑う。
昼休みに輪の中へ入ろうとすると、ほんのわずかに隙間が閉じる。
誰かに何かをされたわけではない。けれど、確かに空気が違っていた。
「小日向さんって、蓮司くんと仲いいよね」
そう言われる回数が増えた。
前なら、からかい半分の明るい声だった。
今は違う。笑っている。笑ってはいるのに、その目だけが笑っていなかった。
「そう、かな。普通だと思うけど……」
「普通で名前呼びするんだ」
「それは、彼から……そう呼んでほしいって、頼まれた……ので」
「へぇ。言われたら呼ぶんだ」
返す言葉が見つからなかった。
莉愛は誰かを傷つけるつもりなどなかった。
蓮司に特別な意味を持たせたつもりもない。
ただ、頼まれたから呼んだ。断る理由がなかったから、そうした。
それだけのはずだった。
「小日向って、意外とやるよね」
「え!?」
「別に。すごいなって思っただけ。意外だなって」
その子は笑って、友人たちのほうへ戻っていった。
置いていかれた莉愛の手の中で、昼食のパンの袋が小さく音を立てる。
すごいって、何が。意外って、どういう意味。
聞き返したかったのに、喉の奥で言葉が止まった。
その日から、莉愛は蓮司と話す時に周囲を見るようになった。
朝の挨拶。授業中に配られたプリント。
落ちたペンを拾って渡すだけの一瞬。
以前なら何も考えずにできていたことが、いちいち重くなる。
「莉愛、これ落ちたぞ」
「あ……。えっと、ありがとう、ございます」
蓮司が何気なく差し出したシャープペンを受け取る。
ただそれだけで、背中に視線が刺さった。
振り返らなくても分かる。『見られている』ということが。
莉愛はシャープペンを筆箱に戻し、膝の上で両手を握った。
悪いことはしていない。そう思うのに、胸の奥がきゅっと縮む。




