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   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 白花学園しらはながくえん。都心から電車を二本乗り継いだ先にある、私立の進学校。



 校舎の壁を覆う蔦は季節ごとに色を変え、正門脇の桜の古木だけが、創立七十年の歴史をかろうじて証明している。

 偏差値は高く、入試の倍率もそれなりに厳しい。名門、というほどの看板はないが、ここに通っているというだけで周囲の目は少し変わる。そういう位置づけの学校だった。



 リノア――小日向莉愛こひなたりあがこの制服に袖を通したのは、二年前の春のことだ。

 受験勉強は楽ではなかった。塾に通う余裕のない家計の中で、莉愛は図書館の自習室に籠もって問題集を解き続けた。


 合格したとき、母が泣いたのを覚えている。父は何も言わずに莉愛の頭を一度だけ撫でて、その手が震えていた。

 応援してくれたその二人のために、ここにいる。

 莉愛にとって白花学園とは、両親の期待と、自分の努力が形になった場所だった。


 柔らかそうな茶色の髪を肩の下まで伸ばし、前髪は目にかからない程度に揃えている。

 制服のリボンは緩めず、スカートの丈も校則通り。

 特別に目立つ生徒ではなかったはずだ。少なくとも、莉愛自身はそう思っていた。



「小日向さん、ここ分かんないんだけど教えてくれない?」

「はい、もちろんです。えっとね、ここは――」



 昼休みに数学のノートを広げて教える。放課後に拾った落とし物を職員室へ届ける。廊下で泣いている子がいれば、何も言わずにハンカチを差し出す。


 莉愛にとっては、そのどれもが特別なことではなかった。

 困っている人がいたら手を貸す。理由を聞かれても困る。

 そうしたいからそうしている、それだけの話だった。



「小日向さんって、なんか話しやすいよね」

「わかる。変に気取ってないっていうか」

「それでいて顔もかわいいとかさ。神様って不平等じゃない?」



 そんな言葉が、入学して最初の頃にはちらほら聞こえていた。

 莉愛は照れくさそうに笑って、ありがとうとだけ返した。



 一条蓮司いちじょうれんじの名前を最初に意識したのは、いつだったのか。莉愛自身はよく覚えていない。

 ただ、周囲の女子たちはとっくに覚えていた。



「蓮司くん、また体育で一番だったらしいよ」

「テストも上位でしょ? なんか反則じゃない?」

「イケメンだし、先生にも好かれてるし。彼女いないってほんとかな? 絶対嘘だよね」



 一年四組、一条蓮司。

 入学直後から学年中に名前が広まるまで、そう時間はかからなかった。

 成績は常に上位。運動もできる。

 明るくて、誰とでも壁を作らずに話す。教師からの信頼も厚い。


 それでいて嫌味がないのは、本人がそういった周りからの評価に無頓着だからだろう。

 周囲が勝手に持ち上げているだけで、当人は何も気にしていない。その自然体なところが、余計に好感を集めていた。



 一条蓮司の席は、莉愛の隣だった。ただそれだけの話で、莉愛がそこに意味を見出すことはなかったし、蓮司のほうもおそらく同じだったのだろう。


 最初に声をかけてきたのは、五月の中間テストの少し前だった。



「なぁ小日向、昨日の英語のノート見せてくんない? 俺さ、部活で写しそびれちゃって」

「あ、うん。いいよ。どうぞ」



 莉愛はカバンからノートを取り出して、蓮司の机の上に置いた。

 それだけだった。それだけのことに、莉愛は何の感慨も抱いていない。

 クラスメイトにノートを貸す。他の誰に頼まれても同じことをしていただろう。



「字きれいだな、小日向。めちゃくちゃ読みやすいよ」

「そうかな……。ありがとうございます」



 蓮司は素直に褒める人間だった。

 思ったことをそのまま口にして、裏表がない。


 それは長所であり、同時に少しだけ厄介な性質でもあったのだが、この時点では莉愛も周囲も、まだそのことに気付いていなかった。



「ねっ、お似合いじゃない? 二人とも顔いいしさ。美男美女って感じ」



 誰かがそう言ったのは、ノートの貸し借りが二度目か三度目のことだったと思う。

 教室の中で、冗談混じりの軽い声だった。


 莉愛は困ったように首を振り、蓮司は笑って流した。

 周囲もまだ笑っていた。悪意のない、軽口の延長だったはずだ。

 空気が変わり始めたのは、いつ頃からだったのだろうか。



 夏休みまであと一か月を切った六月の後半、それは唐突に起きた。

 授業の始まる直前、蓮司が自分の席に座ったまま、横からひょいと莉愛の机に消しゴムを返してきた。昨日、莉愛から借りたものだった。



「ありがとな、莉愛」

「えっ……」



 一瞬、誰に向かって言ったのか分からなかった。

 莉愛が顔を上げると、蓮司はもう前を向いていた。



「あ、うん……」



 何の気負いもない横顔だった。

 名前を呼んだという自覚すら怪しいくらいの、あまりに自然な調子だった。

 心臓が跳ねたのは、恋愛感情からではない。不意打ちだったからだ。


 小日向から莉愛へ。その距離の詰め方に、莉愛の体が勝手に反応しただけで、頭のほうはまだ追いついていなかった。

 次の日も、その次の日も、蓮司は同じように莉愛と呼んだ。


 朝の挨拶で。ノートを返すときに。移動教室の廊下で、たまたますれ違ったときに。

 そのたびに莉愛は少しだけ戸惑って、けれど訂正する言葉が見つからないまま、曖昧に頷いてしまう。

 嫌なわけではなかった。不快だと思えたなら、やめてほしいと言えたのかもしれない。そうではなかったから、困った。



「なぁ莉愛、一個頼みがあるんだけど」



 三日目か四日目の放課後、委員会の資料を職員室に届けた帰り道で、蓮司が言った。



「俺のこともさ、一条さんじゃなくて、蓮司って呼んでくんない?」

「え?」

「だってさ、俺だけ名前で呼んでるの、なんか不公平じゃん。それにさ、一条『さん』なんて仰々しいっていうかさ、な?」



 不公平、という言葉の選び方が、蓮司らしかった。深い意味はおそらくない。

 ないのだろうと莉愛にも分かっていた。



「え、えっと。……じゃ、じゃぁ。蓮司、くん?」

「くん付きかぁ。まぁいいや、それで」



 蓮司は満足そうに笑って、先に階段を降りていった。

 莉愛は廊下に一人残されたまま、自分の口から出た音を頭の中で反芻していた。


 呼んでしまった。一度呼んでしまったら、もう元の呼び方には戻れない。

 そういうものだと、なぜか直感的に分かった。


 翌日から、教室の空気がまた一段階変わった。

 莉愛が蓮司を名前で呼んでいるという話は、一日と経たずにクラス中に行き渡った。

 男子よりも、女子の耳に届いた。



「ねぇ聞いた? 小日向さん蓮司くんのこと名前で呼んでるんだって」

「えっ、いつから?」

「昨日? 一昨日? とにかくもう二人して名前呼びらしいよ」

「マジ!? それって絶対付き合ってるでしょ」




 昼休みの購買前。教室の隅。体育館への渡り廊下。

 莉愛の知らない場所で、同じ会話が何度も繰り返されていた。



 最初は、まだ噂だった。

 誰かが楽しそうに話して、誰かが大げさに驚いて、すぐに別の話題へ流れていく。

 その程度のものだった。


 莉愛自身も、すぐに収まると思っていた。

 蓮司とはたまたま席が隣で、話す機会がその分多いだけ。

 ノートを貸すのも、消しゴムを返すのも、教科書を見せるのも、特別なことではない。


 そう説明すれば、きっと分かってもらえる。

 けれど、周囲は莉愛が思っているほど単純ではなかった。




「小日向ってさ、今日も蓮司くんと話してたよね」

「え? あ、うん。席が隣ですから……」

「ふぅん。席が隣だから、ね」



 笑っているのに、声が冷たい。

 その違和感に気付いたのは、夏服に変わってしばらく経った頃だった。



 朝、教室に入った瞬間に会話が途切れる。

 廊下ですれ違った女子たちが、莉愛の顔を見てから小さく笑う。

 昼休みに輪の中へ入ろうとすると、ほんのわずかに隙間が閉じる。



 誰かに何かをされたわけではない。けれど、確かに空気が違っていた。



「小日向さんって、蓮司くんと仲いいよね」



 そう言われる回数が増えた。

 前なら、からかい半分の明るい声だった。

 

 今は違う。笑っている。笑ってはいるのに、その目だけが笑っていなかった。




「そう、かな。普通だと思うけど……」

「普通で名前呼びするんだ」

「それは、彼から……そう呼んでほしいって、頼まれた……ので」

「へぇ。言われたら呼ぶんだ」



 返す言葉が見つからなかった。


 莉愛は誰かを傷つけるつもりなどなかった。

 蓮司に特別な意味を持たせたつもりもない。


 ただ、頼まれたから呼んだ。断る理由がなかったから、そうした。


 それだけのはずだった。



「小日向って、意外とやるよね」

「え!?」

「別に。すごいなって思っただけ。意外だなって」



 その子は笑って、友人たちのほうへ戻っていった。

 置いていかれた莉愛の手の中で、昼食のパンの袋が小さく音を立てる。



 すごいって、何が。意外って、どういう意味。

 聞き返したかったのに、喉の奥で言葉が止まった。



 その日から、莉愛は蓮司と話す時に周囲を見るようになった。

 朝の挨拶。授業中に配られたプリント。

 落ちたペンを拾って渡すだけの一瞬。


 以前なら何も考えずにできていたことが、いちいち重くなる。



「莉愛、これ落ちたぞ」

「あ……。えっと、ありがとう、ございます」



 蓮司が何気なく差し出したシャープペンを受け取る。

 ただそれだけで、背中に視線が刺さった。


 振り返らなくても分かる。『見られている』ということが。

 莉愛はシャープペンを筆箱に戻し、膝の上で両手を握った。


 悪いことはしていない。そう思うのに、胸の奥がきゅっと縮む。


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