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6-6

 シレナは痺れの残る右腕を振り、ゆっくりと立ち上がった。

 右肩の焦げ跡がまだ熱を帯びていて、指先の感覚が鈍い。紫の石を拾い直し、握り込む。力が戻るまでに数秒を要した。


 リノアの左手が、続けざまに振り抜かれた。

 今度はシレナも身構えている。掌そのものではなく、見極めようとしたのは放電のタイミング。

 腕が伸びきる直前、指先が開く一瞬。その呼吸を、一度喰らった体が覚えていた。


 上体を沈めたが、それでも避けきれなかった。

 閃光がシレナの左腕を掠め、袖口の布地が焼けて煙を上げる。

 肘まで走った痺れに顔をしかめたが、足は止まらなかった。先ほどの一撃に比べれば、通った電流は半分以下だった。



「二発目も当てるんだ。……見直してあげるよ。お前みたいなのがそんな魔法使えたなんてな」



 対するリノアは、たった二度の攻撃で目に見えて消耗していた。

 膝が内側に震えている。左手を突き出したままの姿勢で、肩が大きく上下していた。



「護身用に……おばあちゃんに、教わりました。逃げるための……魔法、です」

「ふぅん。ババアが孫に仕込んだってわけか」



 シレナは首の骨を鳴らし、リノアとの間合いを一歩詰めた。

 リノアが後ずさった分だけ、同じ幅で踏み込んでいく。



「護身用ねぇ。道理で威力が低いわけだ。殺す気のねぇ攻撃なんざ痛くも怖くもねぇんだよ!」




 シレナの足元で、土がひび割れた。

 紫の光を帯びた根が、地中から這い出す。

 細く、けれどしなやかにうねりながら、蛇のようにリノアの足元へ迫ってくる。


 リノアは息を呑み、反射的に横へ身を逃がした。

 直後、根の先端が地面を叩くと乾いた土が跳ね、先ほどまでリノアの足があった場所に深い亀裂が走った。



「っ……!」



 リノアの膝が、耐えきれず地面へ落ちる。

 崩れた体勢を立て直す暇はなかった。視界の端で、黒紫の光が横へ走る。


 二本目の根が、左側から低く唸りながら迫っていた。


 リノアは咄嗟に両腕を胸の前で交差させる。防壁を張る余裕などなかった。


 次の瞬間、重い衝撃が腕に食い込んだ。

 根の表面に纏わりついた紫の光が、皮膚の上を焼くように走る。熱いのに、痛いのに、すぐにその感覚さえ遠くなっていく。


 骨の奥まで響くような振動が、体の芯を揺さぶった。



「きゃぁっ!」



 悲鳴が漏れた。


 吹き飛ばされるほどではなかったものの、受け止めた両腕はもう自分のものではないみたいだった。


 指先が震える。力を入れようとしても、肘から先がうまく動かない。

 両腕は力を失い、だらりと垂れ下がった。



「あっはは!」



 シレナの笑い声が、頭上から降ってくる。



「きゃぁっ、だって。かーわいぃ」



 甘ったるい声に、棘だけが混じっていた。

 逃げようとするリノアの足は、思うように動かない。



「ほぅら」



 シレナが楽しそうに首を傾ける。



「もう手ぇ上がんないでしょ?」



 リノアは歯を食いしばった。


 上げなければ。もう一度、防がなければ。

 そう思うのに、腕は肩より上に持ち上がらない。

 リノアの呼吸だけが荒くなっていく。



 シレナがゆっくりとリノアに向かって間合いを詰めてくる。



「さぁて、どういたぶってあげよっか? 腕を噛みちぎられたい? それとも脚?」




 シレナの足元で、根がぞろりと蠢いた。

 黒紫の光を纏った先端が、獣の顎のように裂ける。木の根のはずなのに、そこには牙に似た硬い突起が並んでいた。



 リノアの喉が、ひゅっと鳴る。


 逃げなければ。そんなことは頭では分かっている。

 けれど、腕は動かない。足にも力が入らない。地面についた膝が震えて、少し体重を移すだけで崩れそうになる。


 それでもリノアは、背後の家だけは見なかった。

 見れば、また顔に出てしまうから。


 シレナに悟られる。



「ねぇ、リノア」



 急に呼び捨てにされて、リノアの肩が小さく跳ねた。


 シレナはそれを見て、くすりと笑う。



「別にさぁ、あたしも暇じゃないんだよね。お前で遊ぶのは楽しいけど、目的はそこじゃないし」



 根の一本が、リノアの頬のすぐ横をゆっくりと通り過ぎる。


 冷たい土の匂いと、焦げたような臭い。

 肌には触れていない。けれど、少しでも動けば裂かれる距離だった。



「ミレナ・カワードはどこ?」

「……知りません」


「あ?」

「本当に……知りません。今は、どこにいるのか」



 シレナの目が細くなる。


 リノアは唇を噛んだ。嘘ではなかった。

 ミレナたちがどこへ向かったのか、正確には知らない。ここを出てからどこへ向かうのかは、本人たちもまだ決めていなかったからだ。

 知らないものは、答えようがない。



「じゃあ、あのカス……アヤトは?」

「綾人さんも……知りません」

「……へぇ」



 シレナの声が、少しだけ低くなった。


「二人とも知らない。便利な言葉だねぇ」



 根の先端が、リノアの首元へ近づく。

 肌に触れる寸前で止まり、紫の光だけが薄く揺れた。



「じゃあさ、思い出せるようにしてあげよっか」




 シレナの視線が、リノアの背後へ流れる。


 家。閉じた扉と、その奥にいる祖母。

 リノアの顔から、血の気が引いた。



「やめて!」

「アッハハハハ! うける。まだ何も言ってないじゃん」



 シレナは楽しそうに笑った。



「やめてください……。おばあちゃんは関係ないです……!」

「関係ないかどうかは、あたしが決めんの。お前じゃないんだけど」



 シレナの視線が、もう一度リノアの背後を舐めた。

 品定めをするような、値踏みをするような目だった。



「わたし……本当に綾人さんと、ミレナさんが……どこに向かったのかは聞いていないん、です」

「それを決めるのもお前じゃなくてあたしなんだよ」



 足首に絡んだ根が、ぎり、と締まった。


「っ……!」



 痛みに、リノアの肩が跳ね、顔をしかめる。



「なんか知ってんだろ? 隠さず話せよ。そんなに痛いのが好きなの? もしかしてマゾ?」



 リノアは答えなかった。唇を噛みしめ、荒い息をこぼすだけ。


 足首に食い込む根の痛みで、視界の端がじわじわと滲んでいく。それでも、言葉だけは喉の奥に押し込めた。




「もっかい聞くわ。ミレナ・カワードとあのバカは?」

「……知りません」



 根がもう一度締まった。

 足首の骨が軋む感触に、リノアの喉から掠れた息が漏れる。視界の端が白くちかちかと明滅して、涙が勝手に溢れた。



「っ……聞いて、ないんです。本当に。綾人さんたちも、まだ決めていなかったから……」


「ッチ! あのへんな魔法は!? あいつらはどういうトリガーで魔力が上がる? 知ってんだろ、言えよ!」




 リノアの喉が、小さく震えた。


 知っている。全部ではないが、何も知らないわけではなかった。


 綾人が四つん這いになって、ミレナの椅子になること。その背にミレナが座った時、ミレナの魔法が明らかに強くなること。

 二人が精神的に追い詰められたり、ピンチになればなるほど、魔力が上昇するらしい、ということは。


 あれが二人にとって大切な力なのだということだけは、リノアにも分かっている。


 言えば、楽になるかもしれない。足首を締めつける根が緩むかもしれない。

 この痛みから、少しだけ逃げられるかもしれない。


 けれど、その代わりに綾人とミレナが危険になる。

 それだけは、できなかった。



「……し、知りません」


 掠れた声が、唇の隙間から零れる。


「か……りに、知っていたと、しても……わたしは。あなたに……何も話すことは、ありません」



 シレナの眉が、ぴくりと動いた。



「へぇ」



 根が、さらに深く食い込む。



「っ、ぁ……!」



 痛みで背中が反った。

 声を堪えようとしても、喉の奥から細い悲鳴が漏れてしまう。

 リノアは土を掻くように指を握りしめた。爪の間に砂が入り、指先がざらつく。



「いい加減話したら? そろそろ死ぬよ」

「……そう、なったとしても……。綾人さんには、近づけさせません」



 恐怖は消えていない。痛みも消えていない。

 それでも、その奥に宿った光だけは揺らいでいなかった。


 シレナの表情が、一瞬止まった。

 怒りでも苛立ちでもない。もっと根本的なところで、何かが引っかかったような顔だった。


 数秒の沈黙の後、シレナの眉が片方だけ持ち上がる。



「……ちょっと待って。お前さ、まさかあのバカのこと。もしかして好きなの?」



 リノアの頬が、痛みとは無関係に赤く染まった。

 否定の言葉が出てこない。出そうとして、喉の奥で詰まって、消えた。

 その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。



「うっわ。マジか。マジで言ってんの? あんなのよりもっと金持ってそうでいい男なら、いくらでも引っかけられるだろお前なら」

「……そういうことじゃ、ありません」



 リノアの声は震えていた。

 痛みのせいだけではない。


 頬の熱が引かない。胸の奥を見透かされたような恥ずかしさと、それをシレナの口で汚されたような嫌悪感が、喉の奥で絡まっていた。



「は? そういうことでしょ」



 シレナは心底くだらなそうに鼻で笑った。



「優しくして、心配して、わざとドジったフリすりゃあ。そうやっていい子ちゃんぶってりゃ、男が勝手に勘違いしてくれるもんねぇ」

「違います……」


「違わないって。お前みたいな顔してる女が一番タチ悪いんだよ」




 足首に絡んだ根が、ぎち、と音を立てる。


 リノアの体が小さく跳ねた。けれど、シレナは構わず続けた。



「わたしはそんなつもりありませぇん。困っている人を放っておけないだけですからぁ。大切だから守りたいだけですぅ、ってか。……そうやって綺麗な言葉で飾ってさ」



 笑っている。シレナは笑っているのに、その声には棘しかなかった。



「どうせお前も男に媚び売ってんだろ?」



 その言葉が、リノアの胸の奥に沈んでいたものを引きずり出した。

 足首の痛みが、一瞬だけ遠くなる。


 代わりに、もっと古い痛みが蘇る。




 ――いい子ちゃんの偽善者が。

 ――そうやって男の気、引きたいだけなんでしょ。

 ――あの女どうせ裏では男とヤリまくってるよ。

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