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シレナは痺れの残る右腕を振り、ゆっくりと立ち上がった。
右肩の焦げ跡がまだ熱を帯びていて、指先の感覚が鈍い。紫の石を拾い直し、握り込む。力が戻るまでに数秒を要した。
リノアの左手が、続けざまに振り抜かれた。
今度はシレナも身構えている。掌そのものではなく、見極めようとしたのは放電のタイミング。
腕が伸びきる直前、指先が開く一瞬。その呼吸を、一度喰らった体が覚えていた。
上体を沈めたが、それでも避けきれなかった。
閃光がシレナの左腕を掠め、袖口の布地が焼けて煙を上げる。
肘まで走った痺れに顔をしかめたが、足は止まらなかった。先ほどの一撃に比べれば、通った電流は半分以下だった。
「二発目も当てるんだ。……見直してあげるよ。お前みたいなのがそんな魔法使えたなんてな」
対するリノアは、たった二度の攻撃で目に見えて消耗していた。
膝が内側に震えている。左手を突き出したままの姿勢で、肩が大きく上下していた。
「護身用に……おばあちゃんに、教わりました。逃げるための……魔法、です」
「ふぅん。ババアが孫に仕込んだってわけか」
シレナは首の骨を鳴らし、リノアとの間合いを一歩詰めた。
リノアが後ずさった分だけ、同じ幅で踏み込んでいく。
「護身用ねぇ。道理で威力が低いわけだ。殺す気のねぇ攻撃なんざ痛くも怖くもねぇんだよ!」
シレナの足元で、土がひび割れた。
紫の光を帯びた根が、地中から這い出す。
細く、けれどしなやかにうねりながら、蛇のようにリノアの足元へ迫ってくる。
リノアは息を呑み、反射的に横へ身を逃がした。
直後、根の先端が地面を叩くと乾いた土が跳ね、先ほどまでリノアの足があった場所に深い亀裂が走った。
「っ……!」
リノアの膝が、耐えきれず地面へ落ちる。
崩れた体勢を立て直す暇はなかった。視界の端で、黒紫の光が横へ走る。
二本目の根が、左側から低く唸りながら迫っていた。
リノアは咄嗟に両腕を胸の前で交差させる。防壁を張る余裕などなかった。
次の瞬間、重い衝撃が腕に食い込んだ。
根の表面に纏わりついた紫の光が、皮膚の上を焼くように走る。熱いのに、痛いのに、すぐにその感覚さえ遠くなっていく。
骨の奥まで響くような振動が、体の芯を揺さぶった。
「きゃぁっ!」
悲鳴が漏れた。
吹き飛ばされるほどではなかったものの、受け止めた両腕はもう自分のものではないみたいだった。
指先が震える。力を入れようとしても、肘から先がうまく動かない。
両腕は力を失い、だらりと垂れ下がった。
「あっはは!」
シレナの笑い声が、頭上から降ってくる。
「きゃぁっ、だって。かーわいぃ」
甘ったるい声に、棘だけが混じっていた。
逃げようとするリノアの足は、思うように動かない。
「ほぅら」
シレナが楽しそうに首を傾ける。
「もう手ぇ上がんないでしょ?」
リノアは歯を食いしばった。
上げなければ。もう一度、防がなければ。
そう思うのに、腕は肩より上に持ち上がらない。
リノアの呼吸だけが荒くなっていく。
シレナがゆっくりとリノアに向かって間合いを詰めてくる。
「さぁて、どういたぶってあげよっか? 腕を噛みちぎられたい? それとも脚?」
シレナの足元で、根がぞろりと蠢いた。
黒紫の光を纏った先端が、獣の顎のように裂ける。木の根のはずなのに、そこには牙に似た硬い突起が並んでいた。
リノアの喉が、ひゅっと鳴る。
逃げなければ。そんなことは頭では分かっている。
けれど、腕は動かない。足にも力が入らない。地面についた膝が震えて、少し体重を移すだけで崩れそうになる。
それでもリノアは、背後の家だけは見なかった。
見れば、また顔に出てしまうから。
シレナに悟られる。
「ねぇ、リノア」
急に呼び捨てにされて、リノアの肩が小さく跳ねた。
シレナはそれを見て、くすりと笑う。
「別にさぁ、あたしも暇じゃないんだよね。お前で遊ぶのは楽しいけど、目的はそこじゃないし」
根の一本が、リノアの頬のすぐ横をゆっくりと通り過ぎる。
冷たい土の匂いと、焦げたような臭い。
肌には触れていない。けれど、少しでも動けば裂かれる距離だった。
「ミレナ・カワードはどこ?」
「……知りません」
「あ?」
「本当に……知りません。今は、どこにいるのか」
シレナの目が細くなる。
リノアは唇を噛んだ。嘘ではなかった。
ミレナたちがどこへ向かったのか、正確には知らない。ここを出てからどこへ向かうのかは、本人たちもまだ決めていなかったからだ。
知らないものは、答えようがない。
「じゃあ、あのカス……アヤトは?」
「綾人さんも……知りません」
「……へぇ」
シレナの声が、少しだけ低くなった。
「二人とも知らない。便利な言葉だねぇ」
根の先端が、リノアの首元へ近づく。
肌に触れる寸前で止まり、紫の光だけが薄く揺れた。
「じゃあさ、思い出せるようにしてあげよっか」
シレナの視線が、リノアの背後へ流れる。
家。閉じた扉と、その奥にいる祖母。
リノアの顔から、血の気が引いた。
「やめて!」
「アッハハハハ! うける。まだ何も言ってないじゃん」
シレナは楽しそうに笑った。
「やめてください……。おばあちゃんは関係ないです……!」
「関係ないかどうかは、あたしが決めんの。お前じゃないんだけど」
シレナの視線が、もう一度リノアの背後を舐めた。
品定めをするような、値踏みをするような目だった。
「わたし……本当に綾人さんと、ミレナさんが……どこに向かったのかは聞いていないん、です」
「それを決めるのもお前じゃなくてあたしなんだよ」
足首に絡んだ根が、ぎり、と締まった。
「っ……!」
痛みに、リノアの肩が跳ね、顔をしかめる。
「なんか知ってんだろ? 隠さず話せよ。そんなに痛いのが好きなの? もしかしてマゾ?」
リノアは答えなかった。唇を噛みしめ、荒い息をこぼすだけ。
足首に食い込む根の痛みで、視界の端がじわじわと滲んでいく。それでも、言葉だけは喉の奥に押し込めた。
「もっかい聞くわ。ミレナ・カワードとあのバカは?」
「……知りません」
根がもう一度締まった。
足首の骨が軋む感触に、リノアの喉から掠れた息が漏れる。視界の端が白くちかちかと明滅して、涙が勝手に溢れた。
「っ……聞いて、ないんです。本当に。綾人さんたちも、まだ決めていなかったから……」
「ッチ! あのへんな魔法は!? あいつらはどういうトリガーで魔力が上がる? 知ってんだろ、言えよ!」
リノアの喉が、小さく震えた。
知っている。全部ではないが、何も知らないわけではなかった。
綾人が四つん這いになって、ミレナの椅子になること。その背にミレナが座った時、ミレナの魔法が明らかに強くなること。
二人が精神的に追い詰められたり、ピンチになればなるほど、魔力が上昇するらしい、ということは。
あれが二人にとって大切な力なのだということだけは、リノアにも分かっている。
言えば、楽になるかもしれない。足首を締めつける根が緩むかもしれない。
この痛みから、少しだけ逃げられるかもしれない。
けれど、その代わりに綾人とミレナが危険になる。
それだけは、できなかった。
「……し、知りません」
掠れた声が、唇の隙間から零れる。
「か……りに、知っていたと、しても……わたしは。あなたに……何も話すことは、ありません」
シレナの眉が、ぴくりと動いた。
「へぇ」
根が、さらに深く食い込む。
「っ、ぁ……!」
痛みで背中が反った。
声を堪えようとしても、喉の奥から細い悲鳴が漏れてしまう。
リノアは土を掻くように指を握りしめた。爪の間に砂が入り、指先がざらつく。
「いい加減話したら? そろそろ死ぬよ」
「……そう、なったとしても……。綾人さんには、近づけさせません」
恐怖は消えていない。痛みも消えていない。
それでも、その奥に宿った光だけは揺らいでいなかった。
シレナの表情が、一瞬止まった。
怒りでも苛立ちでもない。もっと根本的なところで、何かが引っかかったような顔だった。
数秒の沈黙の後、シレナの眉が片方だけ持ち上がる。
「……ちょっと待って。お前さ、まさかあのバカのこと。もしかして好きなの?」
リノアの頬が、痛みとは無関係に赤く染まった。
否定の言葉が出てこない。出そうとして、喉の奥で詰まって、消えた。
その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。
「うっわ。マジか。マジで言ってんの? あんなのよりもっと金持ってそうでいい男なら、いくらでも引っかけられるだろお前なら」
「……そういうことじゃ、ありません」
リノアの声は震えていた。
痛みのせいだけではない。
頬の熱が引かない。胸の奥を見透かされたような恥ずかしさと、それをシレナの口で汚されたような嫌悪感が、喉の奥で絡まっていた。
「は? そういうことでしょ」
シレナは心底くだらなそうに鼻で笑った。
「優しくして、心配して、わざとドジったフリすりゃあ。そうやっていい子ちゃんぶってりゃ、男が勝手に勘違いしてくれるもんねぇ」
「違います……」
「違わないって。お前みたいな顔してる女が一番タチ悪いんだよ」
足首に絡んだ根が、ぎち、と音を立てる。
リノアの体が小さく跳ねた。けれど、シレナは構わず続けた。
「わたしはそんなつもりありませぇん。困っている人を放っておけないだけですからぁ。大切だから守りたいだけですぅ、ってか。……そうやって綺麗な言葉で飾ってさ」
笑っている。シレナは笑っているのに、その声には棘しかなかった。
「どうせお前も男に媚び売ってんだろ?」
その言葉が、リノアの胸の奥に沈んでいたものを引きずり出した。
足首の痛みが、一瞬だけ遠くなる。
代わりに、もっと古い痛みが蘇る。
――いい子ちゃんの偽善者が。
――そうやって男の気、引きたいだけなんでしょ。
――あの女どうせ裏では男とヤリまくってるよ。




