6-5
買い物籠を拾い上げようとした手が、止まった。
土煙の中から、何かが軋むような音が聞こえている。空気が焦げるような、鼻の奥を刺す鋭い臭い。
静電気とも、金属を擦り合わせたものとも違う、生理的に不快な匂いだった。
シレナの目が思わず細まる。
「……は?」
風が土煙を攫った。
視界が開けたその先に、リノアは立っていた。
正確には、しゃがみ込んだまま両手を前に突き出した姿勢で、地面に膝をついていた。
「はぁ……はぁ」
シレナは目を細めたまま、その防壁を観察していた。
青白い電光が表面を這い、不規則に枝分かれしては消えていく。
触れたものを焼き弾くその光は、壁というよりも帯電した盾に近かった。
その表面を、青白い電光が不規則に走り、触れた木片や土が弾け飛んでいく。
根の鞭が叩きつけた箇所には焦げ跡のような黒い筋が残り、微かに煙を上げていた。
シレナの足が、一歩分だけ後退した。
「……は、なにそれ」
リノアの掌から放たれた防壁は、空気の層を幾重にも圧縮したような質感を帯びていた。
表面を這う青白い電光が、不規則に枝分かれしては消えていく。触れたものを焼き弾くその光は、壁というよりも帯電した檻に近い。
シレナは目を細めたまま、その光景を観察していた。
驚きは確かにあった。あの薬草屋に出入りしているだけの、おどおどした小娘だと思っていた。
ミレナ・カワード、それとおまけの居場所を吐かせて、用が済んだら始末するだけの相手だと。
「防御魔法使えんのかよ……。しかも雷属性……?」
シレナは紫色の石を握り直した。
石の表面に走る光の脈動が、わずかに速くなる。
リノアの膝は、まだ震えていた。
両手を前に突き出したままの姿勢は崩れておらず、防壁もかろうじて維持されている。
かろうじて、という表現が正確だった。
電光の走る間隔が長くなり始めていて、光の密度も先ほどより明らかに薄い。
息が荒く、額には汗が浮いている。
咄嗟の発動だったのだろう。慣れた動きではなかった。
「まぁいいや、ならこれはどうなんだよ!」
シレナの左手が、街路樹の幹に触れた。
紫の光が樹皮を伝い、木の内側へと沁み込んでいく。
幹の表面にひびが走り、その隙間から黒紫の光が滲んだ。
木そのものが内側から作り変えられていく音が、湿った軋みとなって響く。
枝が、曲がった。
本来ありえない方向へ、関節を得たかのように折れ曲がる。
先端が鋭く尖り、樹皮がささくれ立ち、木の枝だったものが獣の爪のような形に変わっていった。
一本、二本、三本と。頭上の枝が次々と意志を持ったように蠢き始める。
「行きな」
シレナが顎を軽くしゃくった。
枝が一斉に落ちてきた。落ちてきた、という表現は正確ではない。撃ち込まれた、というほうが近かった。
重力に逆らうような速度で枝の先端がリノアへと殺到する。
「ッ……プラズマ・シールド」
リノアの両手から放たれた防壁が、白く膨張した。
電光が壁の表面を走り、突き刺さろうとした枝の先端を焼く。
乾いた木が焦げる匂いが立ち昇り、一本目の枝が弾かれて地面に転がった。
二本目が防壁に触れた瞬間に黒い煙を上げて砕け、三本目は壁に食い込みかけたものの、走った電流に貫かれて内側から弾けた。
「ふぅん」
シレナは感心でも苛立ちでもない、妙に平坦な声を漏らした。
右手が、足元の地面に触れる。
今度は根だった。
土を突き破って三方からせり上がった根が、地面を這いながらリノアの足元を狙う。
枝のように空からではなく、下から。防壁の死角を探るような動きだった。
リノアの目がそれを捉えた。
「……プ、プラズマ・スフィア!」
防壁が形を変える。
壁ではなく、リノアの足元を覆う半球状の膜。
根が触れた瞬間、青白い閃光が地面を焼いた。根は電流を流し込まれたように痙攣し、力を失って土に沈んでいく。
「……上からも下からも通んないの? めんどくせぇ」
シレナは紫の石を握ったまま、初めて足を止めた。
「――けどさ。それ、長くは持たないでしょ」
シレナの目が、リノアの手元を捉えていた。
半球状の膜を維持しているリノアの両手が、小刻みに揺れている。
指先の震えは恐怖だけのものではない。
魔力を絞り出し続けている人間特有の、限界の手前に立った者の震え方だった。
額に浮いた汗が顎の線を伝い、地面に落ちる。呼吸は浅く、短い。
防壁の表面を走る電光の間隔が、さっきよりも明らかに開き始めていた。
シレナは、その変化を見逃さない。
「防御は上手いよ。素直に感心してあげるよ。でも、あんたの魔法ってそれだけでしょ。殴り返す力がないんじゃ、守り続けることしかできない」
「……はぁ、はぁ……。あなたは、どうして……綾人さんやミレナさんを、狙って、いるの、ですか……。水神の、瞳……ですか?」
「水神の瞳ねぇ、正直ンなもん、もうどうでもいいんだけどね」
シレナは首を傾け、つまらなそうに目を細めた。
「あたしがあの女を殺したいのは、どっちかっていうと個人的な話。理由なんてどうでもいいでしょ、あんたには関係ないし」
「……個人的って」
「あの女が気に入らないの。それだけ」
リノアの呼吸が、僅かに止まった。
膜を維持する両手は震えたままだったが、その目にはシレナの言葉を受け止めようとする意志が残っていた。
「綾人さんは……あなたのこと、そんなふうには言っていませんでした」
「はぁ?」
シレナの眉が、僅かに動いた。
「綾人さんの話すシレナさんは、もっと……その、困っている人を放っておけない、優しい方だって」
一瞬の間。
それから、シレナの喉の奥で笑いが弾けた。
声を殺すでもなく、隠すでもなく、心の底から馬鹿馬鹿しいものを聞いたという反応だった。
「あっはは。あのバカ、まだあたしのこと信じてたの? あいつ本当にちょろいんだよね。ちょっと泣いてみせて、腕にくっつくだけで全部鵜呑みにすんの。考える頭がついてないっていうかさぁ、ああいうバカって利用しやすくて最高だよね」
リノアの歯が、音を立てずに噛み合わさった。
震えていた指先が、別の力を帯びて強張っていく。それは恐怖とは違う種類の熱だった。
「あの人を」
「あ?」
「綾人さんをそういうふうに言うのはやめてください!」
プラズマ・スフィアが弾けるように消えた。
消えたのではなく、リノアが自分からあえて解除したのだった。
防御に回していた魔力が、両手の掌に集束していく。青白い光が指の隙間から溢れ、空気を焦がす匂いが一際強くなった。
「綾人さんは、あなたを信じたんです。それを笑うなら――」
リノアの右手が、前に突き出された。
シレナは動かなかった。
動く必要を感じなかった。
掌を突き出すだけの単純な動作。予備動作は丸見えで、速度もない。
防御しか能のない小娘が、感情に任せて振りかぶった一撃など、見るまでもない。
「はいはい。怒ったフリして殴りにくるの? トロいんだよお前!」
リノアの掌が、シレナの頬を掠めるように振られた。
シレナの上体が、最小限の動きで逸れる。
指先が頬の横を通り過ぎていくのが見えた。触れてすらいない。
――その瞬間だった。
「なにっ!」
空気が裂けた。
リノアの掌から、青白い光が四方に放射される。
それは掌に触れた相手を打つための魔法ではなかった。
手の軌道そのものが囮で、本命は掌から放出される電撃だった。
至近距離で弾けた閃光が、シレナの右肩から胸にかけてを舐めた。
「ッが――!」
シレナの体が、横に弾かれた。
筋肉が意志とは無関係に痙攣し、膝が折れる。
右腕の感覚が一瞬で消え、紫の石を握り込んでいた指が勝手に開いた。
地面に片膝をつき、呼吸が詰まり、肺の中の空気が搾り出されるように漏れた。
「エレクトロ……スラップ」
リノアの声は、まだ震えていた。
振り抜いた右手を胸元に引き戻しながら、荒い息を繰り返している。
足元がふらついているのは、攻撃魔法に慣れていない証拠だった。
シレナは片膝をついたまま、顔を上げた。
右肩から腕にかけて、焦げたような痺れが残っている。
服の布地が、放電の痕で黒く焼け焦げていた。
「なんだ、この女……」




