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6-4

 リノアは扉を半分だけ開けたまま、目の前の少女を見つめた。


 同い年か、少し年下くらいだろうか。

 清楚な白いブラウスに、落ち着いた色のロングスカート。片手に提げた買い物籠には、薬草らしきものが覗いている。


 見覚えはなかった。この辺りの住人ではないし、買い物ついでに立ち寄ったにしては、自分の名前を知っている時点で偶然ではない。



「あ、あのぉ……どちら様でしょうか?」



 リノアが控えめに尋ねる。



 その一言に、シレナは一瞬だけ思考を巡らせた。

 本名を名乗るわけにはいかない。


 目の前の少女は、ミレナ・カワードやアヤト(おばかさん)と行動を共にしていた人物だ。

 自分の名前がどこまで共有されているかは分からないが、少なくとも警戒される可能性はある。


 ここで馬鹿正直にシレナと名乗って扉を閉められたら面倒だ。

 なら、適当な名前を使えばいい。


 そう考えた瞬間、ふと頭に浮かんだ名前があった。



「申し遅れましたぁ。わたし、シズネと申します。突然お訪ねしちゃって、ごめんなさい」



 シレナは柔らかな笑みを浮かべ、胸の前で両手を合わせると、ぺこりと丁寧に頭を下げた。

 名前を名乗る声の調子が、少しだけ甘く揺れている。




「アヤトさんという方を探していまして……。この辺りでお世話になっていると、お聞きしたのですけれどぉ」



 アヤト。その名前を聞いた瞬間、リノアの胸が小さく跳ねた。扉を握る指先に力がこもる。



「えっと……綾人さんの、お知り合いですか?」

「はいっ。あの、少し前にこの街で道に迷ってしまったときにぃ、アヤトさんが声をかけてくださったんです。それがすごく嬉しくてぇ、ちゃんとお礼がしたいなぁって思っていたんですけれど、なかなかお会いできなくて……」



 シズネと名乗った少女は、困ったように眉を下げてみせた。

 買い物籠の取っ手を両手で握り直す仕草が、心細さを滲ませている。

 リノアは少しだけ扉を広げた。



「そう、だったんですね。アヤトさんに助けてもらったんですか」

「はい……。わたし、この街に来たばかりでぇ、右も左も分からなくて。本当に不安だったところに、アヤトさんが優しく道を教えてくださってぇ」



 少女の瞳が、ほんの少しだけ潤んだ。泣きそうに見えて、でも笑っている。

 その表情は、善意以外の何物でもないようにリノアには映った。



「それで、薬草屋さんでアヤトさんのことをお話ししたらぁ、リノアさんという方と一緒に来ていたって教えていただいて……。ご迷惑でしたら、すぐに帰りますからっ」

「いえ、迷惑だなんて……。ただ、今アヤトさんは出かけていて」


「そうなんですかぁ。あの、もしよろしければ、アヤトさんが戻られるまで待たせていただくことってぇ、できますかぁ……?」



 リノアは一瞬だけ口を開きかけて、止まった。

 ミレナの声が、頭の奥で微かに響いている。


 ――余計な人間を家に近づけるな。



 そう直接言われたわけではない。

 けれどミレナの性格上、見知らぬ人間を招き入れることを良しとするはずがなかった。



「あの、えっと……」



 リノアが返事に迷っている間に、風が吹いた。

 午後の湿った風が、玄関先を通り抜ける。

 その風に乗って、リノアの鼻腔に触れたものがあった。


 甘い、花のような。けれど花そのものではない。

 作り物めいた甘さが、微かに、しかし確かに漂っている。



 リノアの背筋を、冷たいものが走り抜けた。

 この香りを、わたしは知っている。


 数日前、アヤトの服の袖口から漂っていた、あの匂い。

 石鹸でも薬草でもない、ギルドですれ違った人のものだとアヤトが不自然なほど慌てて弁解していた、あの――



 リノアは目の前の少女を見つめた。

 変わらない笑顔。変わらない潤んだ瞳。何一つ破綻のない困り顔。

 それが今は、どこか貼り付けたように見えた。



「――あっ、あの。……そうだ、お外で少し、お話ししませんか?」

「え?」



 シズネが僅かに目を瞬かせた。

 リノアは扉の隙間から身を滑り出すようにして外へ出ると、背中で扉を閉めた。



「せっかく来てくださったのに、中にお通しできなくてごめんなさい。おばあちゃんが今休んでいて……。起こしたくないんです。あちらにベンチがありますので、そちらでもよろしいでしょうか?」


「分かりました。ありがとうございますぅ。お気遣いいただいて、すみません」



 シズネは申し訳なさそうに小さく頭を下げた。

 その仕草は、相手の善意に恐縮する少女そのものだった。


 リノアは扉に背を向けたまま、ほんの一拍だけ間を置いてから歩き出した。

 井戸のある広場の手前に、古びた木製のベンチが一つ。街路樹の影が落ちるその場所は、人通りこそ少ないものの、完全な死角というわけでもない。


 リノアが先に腰を下ろすと、シズネも隣に座った。買い物籠を膝の上に置き、両手でその縁を握っている。


 籠の中身が少しだけ見えた。薬草が数種類。

 リノアの目には、それらが実際に使われる予定のないもののように見えたが、確信は持てなかった。



「あの、アヤトさんとは……いつ頃お会いになったんですか?」

「えっとぉ、たぶん五日くらい前だったと思います。街の東のほうで、わたしが道に迷っちゃっていたらぁ、向こうから声をかけてくださって」



 五日前。リノアは頭の中で日数を数えた。

 その頃なら、綾人はまだミレナと一緒に行動していたはずだ。


 この街へ来たばかりで、道を教える余裕があっただろうか。

 もちろん、少しの時間くらいはあったかもしれない。


 けれど――。



「あの、東のほうというのは……どの辺りですか?」

「えぇっと……市場を抜けた先、だったと思いますぅ」



 シズネは困ったように首を傾げながら答える。

 迷子だったという話らしく、場所も曖昧だ。



「そう、ですか……」



 リノアは小さく頷いた。

 話自体に決定的な矛盾はない。


 それでも、胸の奥の引っ掛かりだけは消えなかった。

 あの甘い香り。


 綾人の服から漂っていたものと同じ匂い。偶然なのかもしれない。


 そう思おうとしても、どうしても頭の片隅に残り続ける。

 リノアは努めて笑顔を作った。



「それで、綾人さんにお礼を、と」

「はいっ」



 シズネは嬉しそうに頷く。


「それで、お礼にって思ってぇ、アヤトさんのお好きなものとか、何かご存知だったりしますかぁ?」

「好きなもの、ですか」

「はい。何をお渡ししたら喜んでもらえるかなぁって」



 リノアは少しだけ考える素振りをした。

 風が吹いた。先ほどと同じ、甘い花の匂いが鼻先を掠める。


 街路樹の葉が揺れたせいで匂いが散り、すぐに消えたが、リノアの胸の奥に沈んだ重さは消えなかった。



「シズネさんは、この街にいらっしゃってどのくらいですか?」

「んー、まだ十日くらいですかねぇ。右も左もわからなくてぇ、毎日迷子みたいになっちゃってます」



 くすくすと、口元を手で隠しながら笑う。

 その仕草は、やけに綺麗すぎた。困っている人間の動作には、もう少し余裕のなさが混じるものだと、リノアは思った。


 ミレナの世話をしているとき、アヤトと薬草を買いに行ったとき。街で困っている人々を見かけたとき。


 本当に困っている人間の手は、こんなに穏やかに籠の縁を撫でたりしない。



「あのぅ、シズネさん」

「はい?」

「お名前のこと、なんですけれど」



 シズネの指先が、ほんの一瞬だけ止まった。

 それは本当に僅かな変化で、見ていなければ気付かないほどだった。


 けれどリノアの目は、そこから離れなかった。



「あなたのお名前、本当は……シズネさんではありませんよね?」



 風が止んだ。

 街路樹の葉が揺れを止め、広場の空気が凝固したように動かなくなる。

 シズネの顔に浮かんでいた笑みは、まだ消えていない。

 消えていないのに、温度だけが抜け落ちていくのが分かった。



「え……ど、どうしたんですか?」



 シズネは困ったように首を傾げる。

 声も、表情も、何一つ乱れていない。


 けれどリノアは、もう目を逸らさなかった。



「その、ごめんなさい」



 小さく頭を下げてから、静かに続ける。



「最初は、わたしの勘違いかもしれないと思っていました」

「勘違い、ですかぁ?」


「シズネさんの……あなたの香り、です」

「香り?」

「はい。甘い、お花のような……香水、でしょうか」



 シズネの指先が、膝の上で僅かに強張った。

 それは本当に一瞬のことで、すぐに元の柔らかな仕草に戻る。



「あぁ、これですかぁ? お母さんからもらったものでぇ、ちょっとつけすぎちゃったかもしれません。すみません、きつかったですかぁ?」

「いえ、そうではなくて」



 リノアは自分の膝の上で両手を握りしめた。指先が白くなるほどに。



「以前、綾人さんの服から同じ香りがしたことがあったんです。綾人さんは、ギルドで誰かの匂いが移ったって仰っていました。でも綾人さん、あのとき……すごく慌てていて」



 シズネの笑顔が、変わらない。崩れない。何一つ破綻しない。

 それなのに、リノアにはその笑顔の裏側が透けて見えるような錯覚が消えなかった。




「それに……綾人さんが、そのあと話してくださったんです」

「アヤトさんが話してくださった、ですかぁ?」


「はい。……シレナさん、という方のことを」

「――ッ」



 その名を口にした瞬間、シズネの笑顔がわずかに止まった。

 目元も、口元も、すぐに元の形へ戻る。


 それをリノアは見逃さなかった。



「綾人さんは、詳しく話すのを少しためらっていました。でも、ミレナさんが問い詰めて……それで、教えてくれたんです。甘い花のような香りがする、黒髪のかわいらしい女の子のことを」


 リノアは膝の上で握った手に力を込めた。



「その人が綾人さんに近づいて、抱きついたこと。服に香りが残っていたこと。そして、その人が……ミレナさんに関わっているかもしれないこと」



 シズネは何も言わない。

 ただ、困ったような顔をしたまま、リノアを見つめている。



「だから、最初に玄関で香りがした時、思い出しました」



 リノアは静かに言った。



「そして今、あなたはシズネさんだと名乗っています。でも、綾人さんから聞いた話とあまりにも重なりすぎているんです」



 風がまた、二人の間を通り抜けた。

 甘い香りが、かすかに揺れる。



「あなたは……シレナさん、なのではありませんか?」



 沈黙が落ちた。

 隣に座る少女の表情は、まだ笑っている。口角は上がったまま、瞳は潤みを帯びたまま。

 けれどその目の奥から、温度だけが音もなく抜け落ちていくのが分かった。



「……ッチ」



 舌打ちが、静寂を裂いた。

 シズネの顔から、花の咲くような笑みが剥がれ落ちる。

 唇の形は変わらないのに、まるで別の人間がそこに座り直したかのように、空気の質が一変した。



「へぇ。なんだよ全部バレてんじゃん」

「な……」



 甘さも丸みも、どこにも残っていなかった。地を這うような低い声が、リノアの鼓膜を叩く。



「匂いね。朝つけすぎたかな。……あーあ、失敗したわ。まじうぜー」



 シズネの――シレナの右手が、ブラウスの襟元へ滑り込んだ。

 鎖骨の窪みに隠していた紫の石に指先が触れる。石が脈打つように明滅を始めた。


 リノアが立ち上がろうとした、その瞬間だった。

 シレナの視線がベンチの背後に立つ街路樹へと流れる。


 石を握ったまま、シレナは空いた左手を無造作に振り下ろした。



 地面が軋んだ。

 街路樹の根が、土の中からせり上がった。

 黒紫の光を纏いながら地表を突き破り、鞭のようにしなって空を薙ぐ。



 リノアの頬を風圧だけが掠め、髪が巻き上げられた。背後でベンチの背もたれが真横から叩き割られ、木片が弾け飛ぶ。


 根の鞭が空を裂き、リノアのいた場所を叩き潰した。

 ベンチの残骸が砕け散り、土煙が視界を塞ぐ。

 衝撃で舞い上がった木片と土が、広場一帯を覆い尽くした。


 シレナは立ち上がり、紫石を握ったまま土煙の向こうを見据えた。

 手応えはあった。

 根の先端が何かを捉えた感触。布か、肉か。石を通じて伝わる、鈍い手応え。



「……余計な詮索せず、素直に情報だけ出してりゃ死なずにすんだのに」



 シレナは息を吐きながら、散らばった髪を耳にかけた。


「バカ女が」

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