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6-3

 潰れたメロンパンの残骸を見下ろしながら、静音はセーラー服の襟元に指を滑らせた。


 鎖骨の窪みに沿うようにして、小さな石が肌に触れている。

 ビー玉より一回りほどの大きさ。色は深い紫。

 薄暗い個室の中でも内側から脈打つように淡く光を放ち、心臓の鼓動に合わせるかのように明滅を繰り返していた。


 静音はその石を指先で弄びながら、便器の蓋に腰を下ろした。



「……なんで消えてねぇんだよ、あの女」




 溝口綾人は消えた。

 出席簿から、教師の記憶から、クラスメイトの認識から。

 あの間抜けな男の痕跡は、この世界から綺麗に拭い取られている。そこまでは想定通りだった。


 川町みなもの手首が、静音の脳裏にちらつく。

 教室で頬杖をついていたとき、制服の袖口から覗いていたブレスレット。

 一見すれば何の変哲もないアクセサリーに見えるが、留め具の位置にはめ込まれていた石の色を、静音は見間違えるはずがなかった。


 透き通るように青く輝く石。




「やっぱりあの石か。川町みなも……。それより――」



 静音の眉間に、深い皺が刻まれる。


 成瀬柚葉。

 あの深緑のポニーテールを束ねていたシュシュ。布地に紛れるようにして縫い付けられていた、緑色の石のような装飾。


 教室に入る前、扉の手前で数秒だけ足を止めたとき、廊下から聞こえてきた柚葉の声がまだ耳にこびりついている。



『――溝口の席だっけ』



 何の気負いもなく、あの女はそう口にした。

 覚えている。あの能天気な顔で、当たり前のように覚えていた。




「川町みなもが青い石を持ってることは知ってたけど、なんであの女まで持ってんだよ」




 あの女と溝口綾人の間に、特別な関わりがあったという話は聞いたことがない。

 それなのに覚えている。それだけじゃない。

 あの緑の石を、何故あの女が持っている。


 どこで手に入れたんだ。

 誰から受け取ったのか。それとも――最初から持っていたのか。



「……ッチ」


 舌打ちが、タイルの壁に反響した。


 掌の中で紫色の石の光が一際強く脈動し、静音は反射的に握り込む。

 静音は足元の残骸を靴先で便器の裏側へ蹴り寄せると、息を整えるように目を閉じた。


 静音が個室の扉を開けた時には、もうその顔には教室で見せていたのと寸分違わない、穏やかな微笑みが貼り付いていた。





   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 五時間目が始まるまで、あと十分もない。


 柚葉はメロンパンの最後のひと欠片を口に放り込むと、袋をくしゃりと丸めて机の端に置いた。

 もぐもぐと咀嚼し、飲み込み、満足げに息をつく。


 ――かと思えば。


「やば、おなかすいたぁー! これじゃ全ッ然足りない!」



 柚葉は両手で腹を押さえ、天井を仰ぐようにして首を振った。

 深緑のポニーテールが、左右に大きく揺れる。



「あんたね……たった今食べ終わったばかりじゃないの」

「メロンパン一個じゃ足りないよ! みなもが自分の分食べてくれてたら、アタシ二個食べれたのにぃ」


「……意味が分からないわよ。それ結局食べるのは一個じゃないの」

「えっ? あ、そっか」



 柚葉は自分で言ったことの矛盾に気付いて、へへっと笑った。

 みなもはこめかみに指を当て、深く、長い息を吐く。


 柚葉と話していると、たまに本気で疲れる。悪気はないぶんだけ厄介だった。



「つーか三個買えばよかったなぁ。限定だし。来月また買お。ていうかメロンパン以外も買えばよかったんだ」

「好きにしなさい……」



 みなもは半ば呆れながら視線を戻しかけて、ふと止まった。



 柚葉が首を振るたびに揺れるポニーテール。

 それを束ねているシュシュに、みなもの目が吸い寄せられた。


 布地は深緑。柚葉の髪の色に合わせたものだろう。それ自体は珍しくもない。以前から使っているのを何度か見た覚えがある。


 引っかかったのは、そこではなかった。


 シュシュの結び目の部分に、小さな石のようなものが縫い込まれていた。

 布の間に半分ほど埋もれるようにして留められているそれは、一見すればただの飾りビーズにしか見えない。


 けれど、蛍光灯の白い光を受けたその石は、ビーズとは明らかに異質な色を帯びていた。


 深く、透き通った緑。


 みなもは無意識に、自分の左手首に触れた。

 制服の袖口に隠れるようにして嵌めているブレスレット。その留め具にはめ込まれた、青い石の感触が指先に伝わる。



「……ねぇ柚葉」

「ん? なにみなも」


「そのシュシュにつけてるやつ。それ前からついてたっけ?」



 柚葉は自分のポニーテールを摘まみ、シュシュを目の前まで引っ張った。


「これ?」



 緑色の石が、教室の蛍光灯を受けて小さく煌めく。



「うーん……どうだったっけ」



 柚葉は首を傾げる。



「たぶん最初からついてたと思うけど」

「たぶん?」

「だって、これ買ったの結構前だし。気にしたことなかったもん」



 指先で石をつつく。



「可愛いからそのまま使ってるだけ」

「どこで買ったか覚えてないの?」

「えぇ?」



 柚葉は少し考え込んだ。



「……覚えてないや。雑貨屋だった気もするし、お母さんにもらった気もするし」

「そう」



 みなもは短く返事をした。

 曖昧すぎる。


 柚葉らしいと言えばらしい答えだったが、胸の奥の引っ掛かりは消えなかった。



 みなもの視線が、自分の左手首に一瞬だけ落ちたのを、柚葉は見逃さなかった。



「あっ、ていうかさ」



 柚葉が身を乗り出し、みなもの袖口を指差す。



「みなものそれも石じゃん。青いやつ。ブレスレットについてるの」


「……これは別に」

「お揃いじゃーん! アタシ緑でみなも青。なんかいいね、色違いっぽくて」



 柚葉はけらけらと笑いながら、自分のシュシュとみなもの手首を交互に指差した。深刻さの欠片もない、いつも通りの能天気な声だった。


 みなもは袖を引いて手首を隠すようにした。



「お揃いなんかじゃないわよ。偶然でしょう」

「えー、偶然だとしてもいいじゃん。ほら並べてみようよ。色合い的にさ、青と緑って相性いいし」



 柚葉がシュシュを掴んでみなもの手首に近づけようとする。みなもはそれを軽く払いのけた。



「やめなさいよ、子供じゃないんだから」

「みなもってほんと、昔からこういうの乗ってくれないよね」



 柚葉は口を尖らせたが、それ以上は食い下がらなかった。

 椅子の背もたれに体重を預け、丸めたメロンパンの袋を指先で転がしている。


 その横顔には、何の裏もなかった。

 お揃いで嬉しい、本当にただそれだけ。

 

 石の由来を聞かれても曖昧にしか答えられないのは、本当に覚えていないからで、誤魔化しているわけではない。


 柚葉という人間は、昔からそういう女だった。

 だからこそ、みなもは聞けなかった。



 ――あんたのその石、光ったことはないの。



 五時間目の予鈴が、廊下に響いた。




   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 女たちが教えてくれた通りに、井戸のある広場を過ぎると、通りの空気が変わった。


 石畳の敷かれた商業区画とは違い、土の地面に雑草が顔を覗かせている。家々の間隔は広く、壁の漆喰は所々剥がれ、屋根瓦には苔が生えていた。若い世代が出て行った後に、年寄りだけが残った区画。そういう匂いがした。


 通りを歩く人の姿はまばらで、日除けの下で椅子に腰掛けた老人が一人、うたた寝をしている以外には、猫が塀の上で丸くなっているだけだった。


 シレナは足を緩め、家の表札や玄関先の様子を一軒ずつ確認していく。


 おばあさんと若い女の子の二人暮らし。薬草に詳しい。


 薬草店の店主から聞き出した情報はその程度しかない。

 けれど、このあたりまで絞り込めたなら、もう総当たりでも構わなかった。



 三軒目に声をかけた先で、ようやく手応えがあった。


 庭先で洗濯物を取り込んでいた老婆が、リノアの名前を出した瞬間に反応を見せたのだ。



「リノアちゃんかい。知ってるよぉ。いつもうちのお爺さんに薬草のお茶を持ってきてくれる子だろう?」


「はいぃ! その子です! お家はどちらでしょうかぁ?」

「この道をもう少し行った先の、突き当たりの手前だよ。鉢植えが並んでいるからすぐに分かるさ」



 シレナは深々と頭を下げ、老婆に満面の笑みを向けた。



「ありがとうございますぅ! 助かりました」



 背を向け、数歩。

 老婆の視界から外れた瞬間に、笑みの形だけを残して目から光が消えた。



(やっとかよ。朝からどんだけ歩かせんだこのクソ田舎は)




 足取りだけは変わらない。

 買い物籠を提げた清楚な少女が、知り合いを訪ねて歩いている。周囲から見ればそれだけの光景でしかなかった。




 突き当たりの手前に、その家はあった。


 こじんまりとした平屋。

 壁の漆喰は古いが、ひび割れた箇所には丁寧に補修の跡がある。

 窓辺には小さな鉢植えがいくつも並び、薬草らしい葉が重なり合うように茂っていた。



 シレナは足を止めた。


 表札はない。

 けれど、鉢植えの薬草、丁度いい大きさの平屋、界隈の老婆が指し示した場所。条件は揃っている。



 買い物籠を持ち替え、空いた手で前髪を整える。襟元を正し、スカートの皺を撫でた。


 呼吸を一つ、整える。胸元にある紫の石に一瞬だけ指先が触れたが、すぐに離した。



 仮面を被るのに、もう準備など要らなかった。

 拳の側面で扉を三度、こんこん、と控えめに、けれど中まで届く程度の強さで叩く。




 数秒の沈黙。

 奥のほうで、床板を踏む足音がかすかに聞こえた。


 近づいてくる。軽い足取り。若い娘のものだった。

 取っ手が回り、扉がゆっくりと開く。


 隙間から覗いた顔は、亜麻色の髪をした、おどおどとした目の少女だった。


「こんにちはぁ!」



 シレナの顔に、花のような笑みが咲いた。



「もしかして、あなたがリノアさんですかぁ?」

「え、あ、はい。そうですけれど」

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