6-2
柚葉がその名前を繰り返した直後、みなもは我に返ったように視線を手元に落とした。
正直、言いすぎた、と思った。
夢の内容だけならまだしも、ミレナという名前まで口にしてしまったのは完全に失策だった。
柚葉の性格上、ここで切り上げなければ際限なく掘り下げてくるに決まっている。
「ていうかあんた……購買はどうしたのよ」
「えっ? あ、あー! メロンパン! ちょっとみなもなんで早く言ってくれないの!?」
「一人で勝手に盛り上がったのは柚葉でしょ……」
柚葉の表情が一瞬で切り替わった。
先ほどまでの真剣な顔はどこへやら、椅子から弾かれるように立ち上がる。ポニーテールが大きく弧を描いた。
「行ってくる! みなもの分も買ってきてあげるから!」
「いらないって言ってるでしょ」
「遠慮しなくていいから! 月の一度の限定だよ限定! 食べなきゃ絶対損!」
全く聞いてやしない。
柚葉は返事も待たずに教室の入り口へと駆けていき、廊下へ飛び出す寸前にもう一度こちらを振り返った。
「あ、さっきの話の続き、あとで聞くから!」
「続きなんてないわよ」
みなもの返答が届いたかどうかも怪しい速度で、柚葉の姿は廊下の奥へ消えていった。
深緑のポニーテールが角を曲がって見えなくなるまで、みなもはその背中を目で追っていた。
教室に、いつもの喧騒だけが残る。
みなもは小さく息を吐いて、窓の外へ視線を戻した。
曇り空は相変わらず表情を変えない。
柚葉に話したことで気が楽になるかと思ったが、むしろ口にしたぶんだけ余計に輪郭がはっきりしてしまった気がする。
ミレナ。聞き覚えのない名前のはずなのに、まるで自分のもう一つの名前のように胸の内側に張り付いて離れない。
みなもがそのまま頬杖に体重を預けた、その時だった。
「失礼しまぁす」
教室の入り口から、柔らかな声が滑り込んできた。
甘い、というのが最も近い表現なのだろう。
高すぎず低すぎず、耳に触れた瞬間にどこか安心感を覚えてしまうような、不思議な響きを持った声だった。
教室内の空気が、わずかに変わる。
「あ、静音ちゃん!」
「静音ちゃんじゃん。うちのクラスに何の用だろ?」
「やっば、かわいー。なんか今日も雰囲気よくない?」
男子の何人かが露骨に姿勢を正し、女子は女子で小さな歓声にも似た囁きを交わしている。
下級生である二年生が、三年生の教室に顔を出すだけで、この反応。
それだけでも、この少女がどういう存在なのかは窺い知れた。
彼女の、セミロングの黒髪は、毛先だけが控えめに内側へ収まっている。
手入れが行き届いているのに、整いすぎた印象を与えないのは、彼女自身が纏う柔らかな空気のおかげだろう。
白いセーラー服に紺の襟、胸元で結ばれた赤いスカーフが、三年生の青とは違う色彩を教室の中に持ち込んでいた。
清元静音。二年生でありながら、学年を越えて名前が知られている数少ない生徒の一人だった。
みなもは頬杖をついたまま、視線だけで入り口の静音を捉えた。
静音は教室内を見渡すように首を巡らせ、みなもの姿を見つけた瞬間、花が咲くような笑顔を浮かべる。
「みなもせぇんぱいっ! お昼休みにすみません、少しだけお時間いただけますかぁ?」
小走りにこちらへ近づいてくる足取りは軽やかで、それでいてどこか慎ましい。
周囲の視線を集めていることなど気にも留めていない風を装いながら、その実、視線を集めていることを完璧に把握しているのだと、みなもには分かっていた。
みなもの口元が、ほんの僅かに引き結ばれる。
「……何かしら、静音」
「あのぅ、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
静音はみなもの隣に立ち、少しだけ身を屈めた。
声量を落としているのは周囲への配慮に見えるが、その距離感の詰め方には、どこか妙な手慣れを感じさせる。
「溝口せんぱいのこと、なんですけれどぉ」
みなもの指先が、僅かに止まった。
頬杖をついたまま表情こそ変えなかったが、心臓が一拍だけ早く打ったのは確かだった。
「今日もせんぱいお休みなんですかぁ? 最近ずっとお見かけしないので、わたしぃ、ちょっと心配になっちゃって」
心配、という言葉を口にする静音の表情は、確かにそう見えた。
眉尻を下げ、胸の前で両手を軽く組み合わせる仕草。一年生の後輩が、顔見知りの先輩を案じている――そういう絵面としては完璧に成立している。
「貴方、あいつと接点なんてあったかしら?」
「えっと……直接お話ししたことはあんまりないんですけどぉ、ほら、以前に委員会のお手伝いで二年生の教室に来たとき、溝口先輩が廊下で荷物を落としちゃってぇ。拾うのをお手伝いしたことがあるんです」
静音は照れたように小首を傾げた。
「そのときに、ありがとうって。すごく嬉しそうに笑ってくれたのが印象的で、それから少しだけ気にかけていたんですよぉ」
みなもは静音の顔を見据えた。
紫がかった瞳は潤みを帯びて、心の底から溝口綾人を心配しているようにしか映らない。
一点の曇りもない善意にしか見えない。疑う余地など与えない、隙のない笑顔。
それがかえって、みなもの中に薄い引っかかりを残した。
「さぁ。私は知らないわよ」
「そうですかぁ……。みなも先輩、溝口先輩とお席がお隣でしたよね? 何かご存知かなって思ったんですけどぉ」
静音の視線が、みなもの隣の空席へ移った。
主のいない机と椅子を見つめるその目が、ほんの一瞬だけ、観察するような色を帯びたように見えた。
見えた、というだけかもしれない。次に顔を上げた時には、もういつもの柔らかな微笑みに戻っている。
「残念ですぅ。溝口先輩、優しそうな方だったのに……」
みなもが何か返そうとしたその時、廊下側から慌ただしい足音が近づいてきた。
「みーなーもー! 買ってきたよ。ほら! 限定メロンパン!」
柚葉が戻ってきた。
両手に購買の袋を提げ、少し息を弾ませている。深緑のポニーテールが走った余韻で左右に揺れていた。
「はい、これみなもの」
「だからいらないって言ったでしょう。私菓子パンとか食べないし」
「えーもう買っちゃったのにぃ!」
柚葉はみなもの机の上に袋を置こうとしたが、みなもは頬杖を解くことなく視線だけで袋を制した。
受け取る気配が微塵もないことを察した柚葉が、口を尖らせる。
「みなもっていっつもそうだよね。人の好意を素直に受け取らないっていうか」
「好意の押し売りを断ることの何がいけないのかしら」
「あっ、柚葉先輩! お帰りなさぁい」
静音が柚葉に向かってぱぁっと顔を輝かせた。
タイミングを見計らったかのような明るい声に、柚葉の注意がみなもから静音へと自然に移る。
「おー静音ちゃんじゃん! うちのクラスにどしたー?」
「溝口先輩のこと、ちょっと気になっちゃいまして。今日もお休みなのかなぁって」
「あー溝口かぁ……。そうなんだよね、あいつ最近全然来ないんだよ」
柚葉は頬を掻きながら、空席のほうをちらりと見た。
「静音ちゃんも気にしてたんだ。優しいね」
「そんなぁ。わたしなんて、ちょっとお話ししたことがあるくらいですしぃ……でも、やっぱり気になっちゃいます」
静音は両手を胸の前で握り、困ったように眉を下げてみせた。その仕草に、柚葉の表情がさらに柔らかくなる。
「あっ! そうだ、ねぇ静音ちゃん。メロンパン食べない? 今日の限定のやつ。みなもがいらないって言うからさ、余っちゃって」
「えっ、いいんですかぁ!?」
静音の瞳が、見開かれた。
驚きと喜びを同時に表す、幼さの残る大きな目。
受け取っていいのかどうか迷うように、柚葉とみなもの間で視線を行き来させる。
「柚葉先輩が買ってこられたものなのにぃ……。わたしがいただいちゃっても、本当にいいんですかぁ?」
「全然いいよ! みなもの分のだから二個目だし。ね、みなも」
「好きにすれば……」
みなもは窓の外に視線を戻しながら、素っ気なく答えた。
「みなも先輩、ありがとうございますぅ! 柚葉先輩も! わたし後で大事に食べますね」
静音は袋を両手で受け取ると、宝物でも抱えるように胸元に寄せた。
「静音ちゃんの嬉しそうな顔見てると、あげた甲斐あるわ。ねぇみなも、あんたも静音ちゃんくらい素直だったらかわいげあるのに」
「はっ、悪かったわね不愛想で」
柚葉の軽口に、静音がくすくすと口元を手で覆いながら笑う。
その一連の所作があまりに自然で、あまりに可愛らしくて、近くの席で見ていた男子が思わず目を逸らすほどだった。
「それじゃぁ、お邪魔しちゃいました。みなも先輩、柚葉先輩、ありがとうございます。溝口先輩のこと、また何か分かったら教えてくださいね?」
「うん! また遊びにおいでよ静音ちゃん」
「はいっ! ぜひぜひですぅ」
静音はぺこりと丁寧に頭を下げてから、小さく手を振って教室を出ていった。
赤いスカーフが揺れて、廊下へと消えていく。
その背中を見送りながら、柚葉が感心したように呟いた。
「いい子だよねぇ、静音ちゃん。一年生であそこまで気遣いできるのすごくない?」
みなもは答えなかった。
窓の外に目を向けたまま、唇の端だけが僅かに動く。何かを言いかけて、飲み込んだようにも見えた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
二年三組の教室から、二つ分の階段を降りる。
一年生の教室が並ぶ廊下を通り過ぎ、静音は校舎の東端にある女子トイレへと足を向けた。
昼休みの中頃とあって、廊下を歩く生徒の数は少ない。
静音はすれ違う生徒の一人一人に、にこりと会釈を返しながら歩いていた。
先輩に対しては小さく頭を下げ、同級生にはふんわりと手を振る。
その全てが、相手の好意を引き出すためだけに設計された動作だった。
トイレの扉を開け、中に入る。個室が三つ。手前の二つは空いており、奥の一つだけ使用中の表示が出ている。
静音は手前の個室に入り、鍵をかけて、メロンパンを取り出す。
ビニールの包装越しに伝わる、焼きたての余韻がまだ僅かに残る温もり。
柚葉が嬉しそうに差し出してくれた、限定品。
静音は、それを便器の前の床に投げ捨てた。
「……」
数秒の間。個室の中に、静音の浅い呼吸だけが響いている。
そして、ローファーの踵が振り下ろされた。
包装越しにパンが潰れる鈍い感触が、靴底から足裏へ伝わる。
一度では飽き足らず、二度、三度と踏みつけた。
メロンパンの甘い匂いが、個室の中に広がっていく。
「……気持ちわりぃ」
先ほどまでの甘い声は、跡形もなく消えていた。
低く、平坦で、温度のない声。教室の中で見せていた柔らかな微笑みなど、最初から存在しなかったかのように。
「こんなゴミ押し付けてきやがって。……バカじゃねぇのあいつ。うっとおしいクソ女が」




