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6-1

 四時間目の終わりを告げるチャイムが、廊下に響いた。


 常盤坂高校、三年二組。

 昼休みに入った途端、教室の空気が弛緩する。弁当を広げる者、購買に走る者、机を寄せて雑談を始める者。いつも通りの、何の変哲もない昼の風景だった。


 川町みなもは、頬杖をついたまま窓の外を見ていた。


 梅雨の曇り空。校庭のグラウンドは昨日の雨で水溜まりが残っていて、体育の授業は体育館に変更になった。

 遠くに見える山の稜線が、灰色の雲に溶けるように霞んでいる。




「みなもー、購買行かない?」

「……ん、いい。お弁当あるから」


「えーいいじゃん行こうよ! 今日限定メロンパン入荷してるってさ。アタシ二個買うからさ、みなもに一個あげるし」

「いらないわよ。自分で二個食べなさいよ」




 成瀬柚葉なるせゆずはは口を尖らせながら、みなもの机に腰掛けた。


 高い位置でまとめたポニーテールが、動くたびにふわりと揺れる。深緑色の髪に、澄んだ水色の瞳。

 言葉も態度もいちいち大げさだが、嫌味がないのが柚葉のいいところだった。




「でさ? どうしたの、みなも。ここ最近ずっとぼーっとしてない?」

「……別に」

「別にって顔じゃないんだけどなぁ」



 柚葉は机の上で片足を揺らしながら、みなもの顔を覗き込んだ。


 みなもは視線だけを動かし、軽く眉を寄せる。



「ていうか机に座らないでちょうだい。行儀悪いわよ柚葉」

「はいはい、相変わらずお嬢様は細かいんだから」



 柚葉は口ではそう言いながらも、素直に机から降りた。隣の椅子を引いて座り直す。


 その椅子が、空席のものだった。



「あ」


 みなもの声が、小さく漏れた。



「ん? どしたのみなも?」

「……その椅子」

「椅子? あー」



 柚葉は座った椅子と、隣の空いた机を見た。

 それから、ぽつりと呟いた。


「溝口の席……だっけ?」

「柚葉、あんた覚えてるの?」



 柚葉は不思議そうに首を傾げた。

 その反応は自然だった。


 自然すぎて、みなもは逆に言葉を失った。


 この数日、みなもは何度も同じ違和感を覚えていた。


 教室の端にある空席。

 誰も使っていない机。

 そこにあったはずの名前。


 けれど、出席簿に溝口綾人の名前はなかった。

 教師も、クラスメイトも、誰一人としてその名を口にしない。


 最初から、このクラスにそんな生徒はいなかったかのように。



 柚葉は振り返り、教室を見回した。

 弁当を広げる男子、窓際で笑い合う女子。誰一人として、この空席に目を向けている者はいない。



「あー、そういえばさ」



 柚葉が声のトーンを変えた。何かを思い出したような顔で、人差し指を立てる。



「最近、うちのクラスに転校生が来るかもって噂、聞いた?」

「転校生?」


「そう。席が一個空いてるからどうのって。男子がそんなこと言ってたんだよね、今朝。可愛い子だったらいいなぁとか言ってた」

「空いてる席に転校生が来る、って話になってるの?」


「うん。だからみんな、この席が空いてるのは『転校生用に確保してある』って思ってるっぽい。アタシも最初はそうなのかなって流してたけど……」




 柚葉はそこで言葉を止めた。


 空席を見る目が、少しだけ不安げに揺れる。



「でも、違うよね。ここ、溝口の席だった」

「ええ」



 みなもは短く答えた。

 声が思ったより硬くなった。



 教室のざわめきは変わらない。誰もこちらを気にしていない。けれど、みなもにはその普通さがかえって気味悪く思えた。


 溝口綾人という存在だけが、綺麗に抜き取られている。


 それなのに、自分と柚葉だけは覚えている。

 それだけでも十分におかしいのに、みなもにはもう一つ、誰にも言っていないことがあった。



「……最近ね」

「ん?」

「その、変な夢を見るのよ」



 柚葉が瞬きをした。



「夢?」

「ええ」



 みなもは窓の外へ視線を向けた。


 灰色の空を見ているはずなのに、頭の中に浮かぶのはまったく別の景色だった。


 薄暗い洞窟。見たこともない街並み。

 薄暗い森や、石造りの水路。


 そして、その隣にいる溝口綾人。



「私が、あいつと一緒に知らない場所を歩いている夢」


「あいつって、それ溝口とってこと?」

「……そうよ」

「へぇー」



 柚葉は一瞬だけにやりとした。



「振った相手と夢の中で冒険とか、あれ、みなもって意外と――」

「そういう話じゃないから!」



 みなもの声が少し大きくなった。


 近くの席にいた女子がちらりとこちらを見たため、みなもは慌てて声を落とす。

 柚葉は両手を軽く上げた。



「はいはい。で? 知らない場所で溝口と冒険する夢なんでしょ?」


「冒険っていうか……戦ってるのよ」

「戦う?」



 柚葉の眉が、少しだけ上がった。


 茶化す言葉を探しているようにも見えたが、みなもの表情があまりに真剣だったせいか、すぐには口にしなかった。

 みなもは窓の外を見たまま、小さく息を吐く。



「怪物? その、魔物……みたいなものと」

「魔物……て」



 柚葉の目が、少しだけ遠くなった。

 完全に理解が追いついていない顔だった。


 みなもは自分でも馬鹿げていると思いながら、続きを口にする。



「それで、その夢の中の私は、水みたいなものを操っていたの」


「水?」

「ええ。手を向けると水が集まって、矢みたいになったり、刃みたいになったりするの。……魔法、みたいな」



 言ってから、みなもは自分で眉をひそめた。

 あまりにも現実離れしている。


 口に出すほど、夢の話というより、痛々しい妄想の説明をしているように聞こえた。

 案の定、柚葉は微妙な顔をしている。



「……へぇ、みなもって、魔法少女的なのに憧れあったんだ」

「いやない! ないから」



 みなもは即座に否定した。


 声が少し大きくなったせいで、近くの席の女子がちらりとこちらを見る。みなもは気まずげに咳払いし、声を落とした。


 柚葉はそんなみなもの反応が面白かったのか、にやにやと口元を緩める。



「魔法少女みなも、爆誕!」

「やめなさい」


「水の力で悪を討つ、清廉なる美少女戦士」

「やめなさいって言ってるでしょ」


「決め台詞は『貴方の心も私が洗い流してあげるわ』……とか?」

「……誰の心を洗うのよ」



 みなもは額に手を当てた。

 話す相手を間違えたかもしれない。


 そう思ったが、もう遅かった。柚葉は完全に面白がる顔になっている。



「ていうか水属性なんだ。まぁ名前的にもピッタリだもんね。川とか水面だし」

「はぁ……。そこ、掘り下げないでくれるかしら」



 柚葉は面白がるように目を細めた。

 こういう時の彼女は、止めても止まらない。みなもが嫌がる反応を見せるほど、余計に調子に乗る。



「武器は? 杖? それともステッキ?」

「持ってないわよ」


「じゃあ手から出るタイプなんだ?」

「あんたねぇ……」



 みなもは額に手を当てた。

 自分で話し始めたこととはいえ、だんだん説明している内容が馬鹿馬鹿しく思えてくる。



「衣装チェンジは。清楚系? きわどい感じ?」

「ないから……」


「じゃぁ必殺技名は? どんな魔法使うの? いいじゃん教えてよ」

「……リキッド・アロー……とか、ウェーブ・ランス……」



 言った瞬間、みなもは後悔した。

 柚葉の目が、分かりやすく輝いたからだ。



「え、何それ。めっちゃそれっぽいじゃん」

「だから言いたくなかったのよ」

「はぁっ! リキッド・アロー!」



 柚葉が片手を前に突き出し、妙に芝居がかった声で叫んだ。


 近くにいた女子が、何事かとこちらを見る。

 みなもの顔が一気に熱くなった。



「やめなさいよ」

「勇き水よ! 悪を貫く槍となれ! ウェーブ・ラァーンスッ!!」

「ちょっとやめなさいって言ってるでしょ!」



 柚葉は今度は反対の手を振り上げ、見えない槍でも投げるような仕草をする。



「うわ、いいね。水属性の上位技っぽい。リキッド・アローで牽制して、ウェーブ・ランスで決める感じ?」


「分析しなくていいから!」



 みなもは慌てて柚葉の腕を掴んだ。

 声を落とし、睨むように顔を近づける。



「私が恥ずかしいからやめなさい」

「みなもが恥ずかしがるの、珍しいね」


「その珍しいものを人前で引き出さないでちょうだい」

「ごめんごめん。面白くてつい」

「全然悪いと思ってない顔ね」



 柚葉は口元を押さえながら肩を震わせている。

 みなもは深く息を吐き、頭痛を堪えるように額を押さえた。


 やはり話す相手を間違えたかもしれない。

 柚葉は少し笑ったが、すぐにまた首を傾げる。



「でも、夢なんでしょ? 変な夢っていうのは分かったけど、それだけならまあ、ありそうじゃない?」


「……それだけじゃないのよ」

「まだあるの?」


 みなもは言いづらそうに視線を逸らした。

 できれば口にしたくなかった。


 魔法だの魔物だのだけでも十分おかしいのに、次に言うことはさらにおかしい。



「……その夢の中で」

「うん」

「あいつを、椅子にしてるの」



 沈黙。

 柚葉の表情が固まった。



「……椅子?」

「……ええ、そうよ」


「溝口を?」

「まぁ……そうなるわね」



 みなもは言いながら、視線を横へ逸らした。


 自分で口にしておきながら、あまりにも意味が分からない。魔法だの魔物だのという話より、こちらのほうがよほど説明しづらかった。


 柚葉はゆっくりと瞬きをした。



「人間を?」

「そうよ」


「座るの?」

「……座るわ」



 みなもは答えながら、額に手を当てた。


 自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。

 しかも、目の前の柚葉は真顔で確認してくるものだから、余計に逃げ場がなかった。



「背中に?」

「たぶん」



 柚葉はゆっくりと、みなもから一歩距離を取った。



「みなも……」

「な、何よ」

「魔法少女に飽き足らず、女王様的なやつにも憧れが……?」

「ないわよ!」



 思わず声が大きくなった。

 昼休みのざわめきの中でも目立ったらしく、近くの席にいた女子がこちらをちらりと見る。


 みなもは気まずげに咳払いし、慌てて声を落とした。




「でも椅子にしてるんでしょ?」

「夢の中の話よ!」


「夢って、その人の深層心理が出るとか言うじゃん」

「出ないわよ。少なくとも私は出してない」

「いや、みなもって普段からちょっと女王様っぽいし」

「失礼ね」



 みなもはむっとして柚葉を睨んだ。


 だが、柚葉は悪びれた様子もなく、むしろ納得したように腕を組んでいる。

 そういうところがまた腹立たしかった。




「否定はしないんだ」

「そこじゃないでしょ!」



 みなもは思わず声を荒げかけ、慌てて周囲を見た。

 近くの席にいた女子が、ちらりとこちらを見る。


 みなもは咳払いをして、声を落とした。



「しかも、夢の中であいつは私のことをなぜか別の名前で呼ぶのよ」

「別の名前?」


「その、ミレナ、って」



 その名前を口にした瞬間、胸の奥が微かに揺れた。


 知らないはずの名前。

 それなのに、何度も呼ばれたことがあるような響き。


 柚葉は小さく呟いた。



「ミレナ……」



 昼休みの教室のざわめきの中で、その名前だけが妙に浮いて聞こえた。

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