5-14
「さて。素材を回収するわよ」
「え、今からですか? こんな状況で?」
「当たり前でしょう。グールスパイダーの二の舞をなりたいのかしら? 討伐証明が出せなかったらどうなるか、身に染みて分かってるでしょう」
アヤトの顔が引きつった。ギルドの受付嬢に「未達成」と宣告された時の記憶が、鮮明に蘇る。
あの時のミレナの反応を想像するだけで、背筋が凍る。
「分かりました。やります」
「よろしい。この魔物の場合、討伐証明になるのは鱗と牙ね。あと、尻尾の付け根にある、硬い骨も換金できるはずよ。切り取りなさい」
「俺がですか」
「他に誰がやるのよ? まさか私にやれだとか思っているのかしら?」
「思いません。はい、すみません」
アヤトは渡された短剣で、魔物の死骸から素材を切り出していった。
鱗は硬く、剥がすのに力が要る。牙を抜くのはさらに厄介で、顎の骨にしっかりと食い込んでいた。
「雑に扱わないでちょうだい。鱗に傷がつくと査定が下がるんだから」
「無茶言わないでください。こんな暗い中で繊細な作業を……」
「照らしてやるから手だけ動かしなさい」
ミレナが魔灯を近づけてくれたおかげで、どうにか鱗を数枚と牙を二本、それから尻尾の骨節を一つ回収できた。
アヤトはそれらを布に包んで荷物に詰め込む。手は魔物の血で汚れたが、もう今更だった。
「……これでいいですか」
「……まぁ、及第点かしら。行くわよ」
二人は一層目へと続く階段を上った。
「さぁて、問題はここからよ」
ミレナは剣を鞘に収めたまま、一層目へ続く階段の方角を見据えた。
「一層目の扉が閉まっている。手持ちの鍵では開かない。……どうにかして突破する必要があるわ」
「さっき試した時はびくともしなかったですよね。蹴破るにも、あの扉は鉄製だし」
「ええ。剣でも無理ね。力任せに壊せる造りじゃないわ」
二人は階段を上り、再び一層目の扉の前に立った。
魔灯の光に照らされた鉄の扉は、さっきと何も変わっていない。重厚で、冷たく、沈黙している。
アヤトが取っ手を引く。やはり動かない。
「向こう側から鍵かけられたんですかね? それとも別の要因が」
「どちらにしても、内側からこじ開ける手段がないのは同じよ」
ミレナは腕を組み、扉をじっと見つめていた。それから、視線が扉の周囲へ移る。
鉄の扉そのものではなく、それを支えている壁。
扉の枠を構成している石材。蝶番が埋め込まれている壁面。
「まぁいいわ。開かないなら、こじ開ければいいだけじゃない」
「……と言いますと?」
「察しが悪いわね」
ミレナは地面に向かって指を指す。
「地面? ……あ」
アヤトは、ミレナの指が自分を指しているのに気づいた。地面ではなく、ここで四つん這いになれという意味だ。
「椅子ですか。ここで」
「他にどこでやるのよ」
「いや、ここ下水ですよ? 地面びちゃびちゃですし、臭いし、さっき魔物の血も流れてますし」
「あらそう。けれど出られなきゃ、一生この下水で暮らすことになるわよ。それがお望みなの? まぁあんたにはお似合いだけど」
「……椅子になります」
アヤトは諦めの境地で四つん這いになった。
冷たい汚水が掌と膝に染みる。もう何度目か分からない。感覚が麻痺しかけていた。
「……はい、どうぞ」
ミレナはアヤトの背中に腰を下ろそうとして、止まった。
中腰の姿勢のまま、固まっている。
「……ミレナさん?」
「……うーん」
ミレナの視線は、アヤトの背中に注がれていた。
正確には、汚水をたっぷり吸い込んだインナーの表面。
泥と得体の知れない何かが混ざり合った、茶色く変色した布地。そこから立ち上る匂い。
「……やっぱ無理」
「え」
「無理よ。こんな汚いものの上に座れるわけないでしょう」
「いや、さっきまで散々俺を下水に突き落としたのはミレナさんですよね?」
「それとこれとは話が別よ。汚すのと、自分から汚いものに触れるのは、まったく違う行為だわ。あんた汚すぎ」
「いや理不尽すぎません?」
ミレナは腕を組んだまま、眉間に深い皺を寄せていた。
椅子がなければ魔力増幅は使えない。魔力増幅がなければ、この扉を破るだけの出力が出せるか分からない。
だが、あの汚水まみれの背中に腰を据えるのは生理的に無理だった。
数秒の葛藤の後、ミレナは盛大にため息を吐いた。
「……仕方ないわね。ちょっとじっとしてなさい」
「え?」
「動くなって言ってるのよ」
ミレナは左手をアヤトの背中に向けた。
触れてはいない。数センチの距離を保ったまま、指先に意識を集中させている。
「クリーン・ストリーム」
小さな詠唱とともに、澄んだ水の膜がミレナの指先から流れ出した。
薄い水の層がアヤトの背中を撫で、インナーに染み込んだ汚れを洗い出していく。
泥水が分離され、汚れだけが水の膜に吸い取られるように剥がれ落ちた。
背中から肩へ、肩から腕へ、水の膜が移動するたびに、布地が元の白さを取り戻していく。
「うわ……。すご。気持ちいい……」
「気持ち悪ッ。やっぱり下水に叩き込もうかしら」
水の膜が髪まで達し、泥で固まっていた黒髪がさらさらと解けていく。顔についた泥の跡も流れ落ち、数秒後には、アヤトの全身から汚水の痕跡がほとんど消えていた。
服はまだ少し湿っているが、臭いはかなり薄れている。少なくとも、さっきまでのように自分でも顔をしかめたくなる状態ではなかった。
アヤトは思わず自分の袖を見下ろした。
「……ありがとうございます。最初からこれ、俺にもやってくれればよかったんじゃ」
「あら、勘違いしないでちょうだい」
「え?」
「私が座る場所を綺麗にしただけよ。あんたを綺麗にしたわけじゃないわ」
「えぇ……」
アヤトの感謝は一瞬でしぼんだ。
ミレナは当然のような顔で、改めてアヤトの背中を見下ろす。少し湿ってはいるが、さっきよりは遥かにましだと判断したらしい。
「まぁ、これなら一応、許容範囲かしらね」
「許容範囲……」
アヤトは複雑な顔で呟いた。
人間としてではなく、完全に椅子としての評価だった。
ミレナは白い外套の裾を軽く整え、アヤトの背中へ視線を落とす。
「いい? 一回で決めるわよ。発動しなかったら死刑。力が強すぎてここが崩落しても死刑。どちらにしてもあんたの責任だから」
「どっちに転んでも死刑じゃないですか!」
「だから加減しなさいって言ってるの。できるわね?」
「いや俺がどうこうできる力じゃないんですけどね……」
アヤトの声は、半分ほど諦めていた。
この力が何なのか、自分でも分かっていない。発動する条件も、加減の仕方も、何一つ掴めていないのだ。
ミレナはそんな事情など知ったことではないという顔で、濡れた床に片足を置いた。
「できないなら根性でどうにかしなさい」
「根性で制御できる力なんですか、これ」
「うるさいわね」
掌に冷たい水が染みる。膝の下の石は硬く、さっき綺麗にされたばかりの服も、また湿った床に触れている。
ミレナは白い外套の裾を軽く払った。
座る場所を確認するように一度だけ目を細め、それから当然のようにアヤトの背中へ腰を下ろす。
ずしり、と重みが乗った。
「うっ」
「はい、黙る。集中しなさい。……いくわよ」
軽い体重が背骨に乗る。もう何度目か分からない感覚だったが、今は掌に食い込む小石がないだけましだった。
ミレナは扉に向かって右手を伸ばし、意識を集中させた。足元の汚水が微かに揺れ、指先に向かって水が集まり始める。
(……きたわね!)
「ウェーブ・ランス」
短い詠唱とともに、水の槍が放たれた。
透明な奔流が一直線に走り、鉄扉の脇へ突き刺さる。
次の瞬間、地下水路全体が揺れた。
蝶番を支えていた石材が砕け、鉄の枠が捻じ曲がっていく。
扉そのものが悲鳴のような軋みを上げ、中央から折れるようにひしゃげた。
石片が飛び、水飛沫が壁を叩く。アヤトは四つん這いのまま頭を抱えた。
「うわあああ!?」
「うるさいわね! 動かないの!」
天井から細かい破片がぱらぱらと落ちてくる。
水路が数秒間揺れ続け、やがて収まった。
埃が晴れた先に、原形をとどめないほどに潰れた鉄の残骸があった。
人が通れるだけの隙間が、ぽっかりと開いている。
「……開いたわ」
(威力は上がっている。けれど、グールスパイダーの時ほどじゃない。あの時は私もこいつも死にかけだったから? それとも、条件が別にある?)
ミレナは自分の指先を見下ろした。
(それでも、初めてこいつに座った時よりは明らかに出力が上がっている。……それに、さっきの『リキッド・アロー』もそうよ。あの時はこのバカに座っていなかった。触れてすらいなかったはずなのに、威力が上がっていた)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
アヤトを椅子にした時だけ強化される。
そう考えれば単純だった。
けれど、先ほどの戦闘はその前提から外れている。
(どういう理屈なのかしらね。こいつ自身に何かあるのか、それとも――)
胸元で熱を帯びる水神の瞳にそっと手を触れながらも、ミレナは一つ息を吐いた。
考えるのはよそう、今ここでは答えは出ない。
「ほら、こんな場所さっさと出るわよ」
「は、はい!」
ミレナは思考を頭の隅に押し込み、ひしゃげた扉の隙間を潜り抜けた。
一層目の排水路に出る。見覚えのある魔灯が、等間隔に壁を照らしていた。
「あと少しだ……。地上に出れば――」
アヤトの足が、止まった。
出口の石段の手前。鉄柵の脇に、人が倒れていた。
一人ではない、二人だった。
管理局の職員だ。来る時に鍵を開けてくれた、あの若い男と、もう一人。
連絡箱の近くで折り重なるように倒れている。
「ミレナさん……これ」
「黙ってなさい」
ミレナは剣の柄に手をかけたまま、慎重に近づいた。周囲を確認しながら、倒れた職員の傍にしゃがみ込む。
首筋に指を当てて、数秒。
「……死んでいるわ。二人とも」
アヤトの顔から血の気が引いた。
ついさっき、自分たちに鍵を開けてくれた男だ。
冒険者には変わり者が多い、と諦めたような顔で笑っていた、あの男。
「か、鍵をかけたのは、この人たちが……?」
「分からないわ。鍵をかけた後に殺されたのか、殺された後に別の誰かが鍵をかけたのか」
ミレナは立ち上がり、石段の上を見据えた。
地上の光が薄く差し込んでいる。
「どちらにしても、これは偶然じゃなさそうね」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
リノアは玄関の取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を開く。
午後の曇り空の光が、薄く玄関先に差し込んでいた。
「こんにちはぁ!」
明るく、可愛らしい声が飛び込んできた。
目の前に立っていたのは、リノアと同い年か、年下くらいの少女だった。
黒髪のセミロング。清楚な白いブラウスに、落ち着いた色のロングスカート。片手には買い物籠を提げ、もう片方の手は胸の前で軽く組まれている。
にこにこと、花のような笑顔。
「もしかして、あなたがリノアさんですかぁ?」
「え、あ、はい。そうですけれど」




