5-13
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リノアは祖母の寝室で、しばらく寝台のそばに座っていた。
祖母は静かに眠っている。
胸元にかけた薄い毛布が、呼吸に合わせてわずかに上下していた。
今日は咳が少なかった。
薬草茶も、半分ほどではあるが飲んでくれた。
それだけなら、少しは良くなっているようにも見える。
けれど、リノアは知っていた。
治療院の医師に告げられた言葉が、まだ胸の奥に沈んでいる。
「――覚悟は、しておいてください」
はっきりと期限を告げられたわけではない。
今日に明日に、今すぐどうにかなると言われたわけでもない。
それでも、その言葉が何を意味しているのかくらい、リノアにも分かっていた。
「……おやすみなさい、おばあちゃん」
小さく声をかけても、返事はない。
リノアはそっと毛布の端を直し、立ち上がった。
その時、寝台脇の小さな棚に置かれた写真立てが目に入った。
それは、祖母とリノアが並んで写っている写真だった。
撮ったのは、たしかこの家に来てしばらく経った頃だ。
まだ互いに遠慮が残っていて、二人とも少しぎこちない顔をしている。
それでも、祖母の手はリノアの肩に添えられていた。
家族だと、言葉にするより先に教えてくれた手だった。
「……懐かしいですね」
リノアは写真立てを手に取った。
木枠は古く、裏の留め具も少し緩んでいる。祖母が昔から使っていたものらしく、写真を入れ替える前から傷がいくつもついていた。
そっと表面の埃を指で払う。
その時だった。かたり、と小さな音がした。
「え?」
裏板がわずかに浮いていた。
リノアが慌てて支えようとした瞬間、隙間から一枚の古い写真が滑り落ちる。
床に、ひらりと裏向きで落ちた。リノアはしばらくそれを見つめた。
写真立ての中に、もう一枚。
そんなものが入っていたことなど、今まで一度も知らなかった。
「……これ」
胸の奥が、なぜか小さくざわついた。
リノアはゆっくりと腰を落とし、床に落ちた写真へ手を伸ばした。
指先で拾い上げ、裏返すと、そこには古びた一枚の写真があった。
色はすっかり褪せている。
紙の端は黄ばみ、ところどころに細かな皺が走っていた。少なくとも、ここ数年で撮られたものではない。
もっと昔、十年や二十年ではきかないほど、かなり古い写真に見えた。
「……どういう、こと」
写っていたのは、二人の女性だった。
場所は、この家の前庭だろうか。
背景に見える木の柵と、白い小花の鉢植えに見覚えがある。
リノアと祖母が今の写真を撮った場所と、ほとんど同じだった。
並び方まで似ている。
「おばあ、ちゃん……でしょうか……?」
左に祖母。右には、若い少女。
祖母は今よりずっと若かった。背筋も伸びていて、髪にもまだ黒い色が多く残っている。
けれど、穏やかな目元や、少し照れたように笑う癖には、確かに今の面影があった。
リノアは、そこで息を止めた。
祖母の隣に立つ少女。
柔らかな長い髪。こちらを見つめる、慈愛に満ちた橙色の瞳。
古い写真の中で微笑んでいるその顔は、見間違えようがなかった。
「……わた、し?」
思わず声が震えた。そんなはずがないからだ。
この家に来たのは、一年前。
この写真が撮られたはずの時代に、自分がここにいるわけがない。なによりも生まれてすらいないはずなのだから。
この少女が身につけているのは、見覚えのない古い仕立てのワンピースだった。
襟元には小さな刺繍が入り、袖は今ではあまり見ない形にふくらんでいる。布地の色も褪せていて、写真の古さと同じだけの年月を感じさせた。
それでも、顔は見間違えようがなかった。まぎれもなくリノア本人の顔だったからだ。
まるで、ずっと昔からそこにいたかのように。
リノアの指先が冷たくなった。写真を持つ手が、小さく震える。
「どうして……?」
小さく呟いた声は、眠る祖母の部屋に吸い込まれていった。
その時、寝台のほうで布の擦れる音がした。
「……っ」
リノアは弾かれたように顔を上げる。
祖母が、ゆっくりと寝返りを打っていた。
薄い毛布がわずかにずれ、枕元で白髪が小さく揺れる。
起きたわけではないようだ。目は閉じたままで、呼吸も穏やかなままだった。
それでも、リノアの心臓は大きく跳ねた。
リノアは震える指で古い写真を持ち直し、慌てて写真立ての裏へ戻した。
今の写真の後ろへ、そっと差し込む。
裏板を押さえ、緩んだ留め具を元に戻す。かちり、と小さな音がした。
その音さえ、やけに大きく聞こえた。
リノアは写真立てを棚の上へ戻し、何事もなかったかのように位置を整えた。
そっと胸元を押さえ、静かに息を吐いた。
「……今のは」
言葉にしようとして、できなかった。
見間違いだと思いたかった。
けれど、あの橙色の瞳も、あの顔も、見間違えるはずがない。あれは、間違いなく自分だった。
今とは違う服を着て、三、四十年ほど前の写真の中で、若い頃の祖母の隣に立っていた。
リノアはもう一度だけ写真立てを見た。
表に見えているのは、一年前に撮った祖母と自分の写真だけ。裏に隠した古い写真は、もう見えない。
それなのに、胸の奥のざわめきだけは消えなかった。
どうして、自分が三十年も前の写真に写っているのか。
そもそも、あの写真は本当に三十年前のものなのか。
似ているだけの別人なのか、自分なのか。
祖母は、あの写真の存在を知っているのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
「……わたしは」
小さく呟きかけた、その時だった。
こん、こん。
玄関のほうから、控えめなノックの音が聞こえた。
リノアはびくりと肩を揺らした。
祖母の寝息は変わらない。起こしてはいけない。
リノアは慌てて寝室の扉へ向かい、音を立てないように外へ出た。
廊下に出ても、胸のざわめきは消えなかった。
こん、こん。
もう一度、玄関が叩かれる。
「……は、はい。今、出ます。少しお待ちください」
声が少し上ずった。
リノアは胸元を押さえ、深く息を吸う。
写真のことは、今は考えない。
考えないようにする。
そう自分に言い聞かせながら、玄関へ向かった。
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魔物の体が、最後に一度だけ大きく痙攣した。
濁った水面に波紋が広がり、やがて静かに消えていく。
青緑色の鱗に覆われた犬型の魔物は、壁際に崩れ落ちたまま動かなくなった。赤い目から光が消え、魚の尾に似た尻尾も水の中へ沈む。
「……終わった、んですか」
アヤトは魔灯を掲げたまま、恐る恐る尋ねた。
「ええ。少なくとも、こいつはね」
ミレナは剣先を魔物の首元から引き抜いた。
黒っぽい血が刃を伝い、水面へ落ちる。ミレナはそれを見下ろし、軽く息を吐いた。
肩が上下している。
激しく息を切らしているわけではない。
だが、完全に余裕があるわけでもなかった。
「思ったより、手間取ったわね」
「いや、十分すごかったと思いますけど……」
「狭い場所で水に潜られると面倒なのよ。剣が通りにくい鱗まである。スピードもあったし嫌な相手だったわ」
ミレナはそう言いながら、左手を握ったり開いたりした。
アヤトはそれに気づく。
「ミレナさん?」
「……いいえ、何でもないわ」
短く返したが、ミレナの視線は自分の手から離れていなかった。
リキッド・アロー。あの一撃は、明らかにいつもと違った。
威力が乗っていた。
水の集まりも速かった。
そして何より、撃ったあとの消耗が妙に軽かった。
気のせい、で片づけるには違和感が残る。
胸元の奥で、青い石が微かに熱を帯びていた気がした。
ミレナは無意識に服の上から胸元に触れた。
「……まさかね」
「え?」
「ただの独り言よ」
ミレナはすぐに手を下ろし、魔物の死骸へ視線を戻した。




