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5-13

   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 リノアは祖母の寝室で、しばらく寝台のそばに座っていた。


 祖母は静かに眠っている。

 胸元にかけた薄い毛布が、呼吸に合わせてわずかに上下していた。


 今日は咳が少なかった。

 薬草茶も、半分ほどではあるが飲んでくれた。


 それだけなら、少しは良くなっているようにも見える。


 けれど、リノアは知っていた。


 治療院の医師に告げられた言葉が、まだ胸の奥に沈んでいる。



「――覚悟は、しておいてください」



 はっきりと期限を告げられたわけではない。

 今日に明日に、今すぐどうにかなると言われたわけでもない。


 それでも、その言葉が何を意味しているのかくらい、リノアにも分かっていた。



「……おやすみなさい、おばあちゃん」



 小さく声をかけても、返事はない。

 リノアはそっと毛布の端を直し、立ち上がった。


 その時、寝台脇の小さな棚に置かれた写真立てが目に入った。

 それは、祖母とリノアが並んで写っている写真だった。


 撮ったのは、たしかこの家に来てしばらく経った頃だ。

 まだ互いに遠慮が残っていて、二人とも少しぎこちない顔をしている。


 それでも、祖母の手はリノアの肩に添えられていた。

 家族だと、言葉にするより先に教えてくれた手だった。



「……懐かしいですね」



 リノアは写真立てを手に取った。


 木枠は古く、裏の留め具も少し緩んでいる。祖母が昔から使っていたものらしく、写真を入れ替える前から傷がいくつもついていた。


 そっと表面の埃を指で払う。

 その時だった。かたり、と小さな音がした。



「え?」



 裏板がわずかに浮いていた。


 リノアが慌てて支えようとした瞬間、隙間から一枚の古い写真が滑り落ちる。

 床に、ひらりと裏向きで落ちた。リノアはしばらくそれを見つめた。


 写真立ての中に、もう一枚。

 そんなものが入っていたことなど、今まで一度も知らなかった。



「……これ」



 胸の奥が、なぜか小さくざわついた。

 リノアはゆっくりと腰を落とし、床に落ちた写真へ手を伸ばした。


 指先で拾い上げ、裏返すと、そこには古びた一枚の写真があった。



 色はすっかり褪せている。

 紙の端は黄ばみ、ところどころに細かな皺が走っていた。少なくとも、ここ数年で撮られたものではない。

 もっと昔、十年や二十年ではきかないほど、かなり古い写真に見えた。



「……どういう、こと」



 写っていたのは、二人の女性だった。


 場所は、この家の前庭だろうか。

 背景に見える木の柵と、白い小花の鉢植えに見覚えがある。


 リノアと祖母が今の写真を撮った場所と、ほとんど同じだった。

 並び方まで似ている。



「おばあ、ちゃん……でしょうか……?」



 左に祖母。右には、若い少女。


 祖母は今よりずっと若かった。背筋も伸びていて、髪にもまだ黒い色が多く残っている。

 けれど、穏やかな目元や、少し照れたように笑う癖には、確かに今の面影があった。


 リノアは、そこで息を止めた。

 祖母の隣に立つ少女。


 柔らかな長い髪。こちらを見つめる、慈愛に満ちた橙色の瞳。

 古い写真の中で微笑んでいるその顔は、見間違えようがなかった。



「……わた、し?」



 思わず声が震えた。そんなはずがないからだ。


 この家に来たのは、一年前。

 この写真が撮られたはずの時代に、自分がここにいるわけがない。なによりも生まれてすらいないはずなのだから。


 この少女が身につけているのは、見覚えのない古い仕立てのワンピースだった。

 襟元には小さな刺繍が入り、袖は今ではあまり見ない形にふくらんでいる。布地の色も褪せていて、写真の古さと同じだけの年月を感じさせた。


 それでも、顔は見間違えようがなかった。まぎれもなくリノア本人の顔だったからだ。

 まるで、ずっと昔からそこにいたかのように。


 リノアの指先が冷たくなった。写真を持つ手が、小さく震える。



「どうして……?」



 小さく呟いた声は、眠る祖母の部屋に吸い込まれていった。



 その時、寝台のほうで布の擦れる音がした。



「……っ」



 リノアは弾かれたように顔を上げる。


 祖母が、ゆっくりと寝返りを打っていた。

 薄い毛布がわずかにずれ、枕元で白髪が小さく揺れる。


 起きたわけではないようだ。目は閉じたままで、呼吸も穏やかなままだった。


 それでも、リノアの心臓は大きく跳ねた。

 リノアは震える指で古い写真を持ち直し、慌てて写真立ての裏へ戻した。


 今の写真の後ろへ、そっと差し込む。

 裏板を押さえ、緩んだ留め具を元に戻す。かちり、と小さな音がした。

 その音さえ、やけに大きく聞こえた。


 リノアは写真立てを棚の上へ戻し、何事もなかったかのように位置を整えた。

 そっと胸元を押さえ、静かに息を吐いた。



「……今のは」



 言葉にしようとして、できなかった。

 見間違いだと思いたかった。


 けれど、あの橙色の瞳も、あの顔も、見間違えるはずがない。あれは、間違いなく自分だった。

 今とは違う服を着て、三、四十年ほど前の写真の中で、若い頃の祖母の隣に立っていた。


 リノアはもう一度だけ写真立てを見た。

 表に見えているのは、一年前に撮った祖母と自分の写真だけ。裏に隠した古い写真は、もう見えない。


 それなのに、胸の奥のざわめきだけは消えなかった。

 どうして、自分が三十年も前の写真に写っているのか。


 そもそも、あの写真は本当に三十年前のものなのか。

 似ているだけの別人なのか、自分なのか。

 祖母は、あの写真の存在を知っているのか。


 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。



「……わたしは」



 小さく呟きかけた、その時だった。



 こん、こん。


 玄関のほうから、控えめなノックの音が聞こえた。


 リノアはびくりと肩を揺らした。



 祖母の寝息は変わらない。起こしてはいけない。


 リノアは慌てて寝室の扉へ向かい、音を立てないように外へ出た。

 廊下に出ても、胸のざわめきは消えなかった。



 こん、こん。


 もう一度、玄関が叩かれる。



「……は、はい。今、出ます。少しお待ちください」



 声が少し上ずった。

 リノアは胸元を押さえ、深く息を吸う。


 写真のことは、今は考えない。

 考えないようにする。


 そう自分に言い聞かせながら、玄関へ向かった。




   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 魔物の体が、最後に一度だけ大きく痙攣した。


 濁った水面に波紋が広がり、やがて静かに消えていく。


 青緑色の鱗に覆われた犬型の魔物は、壁際に崩れ落ちたまま動かなくなった。赤い目から光が消え、魚の尾に似た尻尾も水の中へ沈む。



「……終わった、んですか」



 アヤトは魔灯を掲げたまま、恐る恐る尋ねた。



「ええ。少なくとも、こいつはね」



 ミレナは剣先を魔物の首元から引き抜いた。


 黒っぽい血が刃を伝い、水面へ落ちる。ミレナはそれを見下ろし、軽く息を吐いた。

 肩が上下している。


 激しく息を切らしているわけではない。

 だが、完全に余裕があるわけでもなかった。



「思ったより、手間取ったわね」

「いや、十分すごかったと思いますけど……」

「狭い場所で水に潜られると面倒なのよ。剣が通りにくい鱗まである。スピードもあったし嫌な相手だったわ」



 ミレナはそう言いながら、左手を握ったり開いたりした。

 アヤトはそれに気づく。



「ミレナさん?」

「……いいえ、何でもないわ」



 短く返したが、ミレナの視線は自分の手から離れていなかった。


 リキッド・アロー。あの一撃は、明らかにいつもと違った。


 威力が乗っていた。

 水の集まりも速かった。

 そして何より、撃ったあとの消耗が妙に軽かった。


 気のせい、で片づけるには違和感が残る。

 胸元の奥で、青い石が微かに熱を帯びていた気がした。

 ミレナは無意識に服の上から胸元に触れた。



「……まさかね」

「え?」

「ただの独り言よ」



 ミレナはすぐに手を下ろし、魔物の死骸へ視線を戻した。

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