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5-12

   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇


 二層目に戻った二人は、水路の壁際に背を預けた。


 魔灯の光が照らす範囲は、せいぜい数メートル先まで。

 その向こうは闇だ。

 水面が揺れるたびに光の反射がちらちらと瞬くが、それがかえって視界を惑わせた。


 姿は見えなければ、音もない。

 水滴が天井から落ちる音と、二人の呼吸だけが水路に響いている。


 それなのに、空気が違った。

 さっきまでとは明らかに何かが変わっている。


 空気そのものに質量が乗ったような圧迫感。

 それと、匂い。腐敗した死骸とは違う、もっと生々しい獣の体温を含んだ臭気が、闇の奥から滲み出してきている。



「……集中しなさいよ。もう敵が近くにいるわ」

「ど、どこに」


「それを探しているのよ。狼狽えてる暇があるなら、黙って照らしなさい」

「はい……」



 アヤトは魔灯を握る手に力を込めた。


 光を右へ向ける。何もいない。

 今度は左へ向ける。濡れた壁と崩れた石片だけで、やはり魔物らしき影は見えない。



「な、なにもいませんよ」

「水面」

「え、みなもさん?」



 思わず聞き返した瞬間、ミレナの目が鋭くなった。



「水の面よ。ふざけている場合? 今度は下水に向かって蹴り飛ばすわよ」

「す、すみません!」



 アヤトは慌てて魔灯を下へ向けた。


 濁った水面が、光を受けてぬらりと揺れている。

 最初はただの流れに見えたが、よく見ると違う。



 水路の奥から手前へ流れているはずの水の中に、ひとつだけ逆向きの波紋が混じっていた。

 細く、低く、何かが水面のすぐ下を滑るように進んでいる。



「なんか、いる!?」

「くるわ!」



 水面が爆ぜると、濁った水を突き破って、何かが飛び出してくる。


 闇の中から飛び出してきたのは、中型犬ほどの大きさをした魔物だった。

 全身は青緑色の鱗に覆われ、魚の尾を思わせる尻尾が水を叩いている。

 口元から覗く牙は不揃いに尖り、赤い目が魔灯の光を反射して鈍く光っていた。



「うわっ!」



 アヤトは尻もちをつきかけた。

 ミレナの剣がその前に走る。


 銀の軌跡が闇を裂き、飛びかかってきた魔物の鼻先を叩いた。

 硬い音が響く。刃が鱗に弾かれたのだ。



「硬いわね」


 ミレナは舌打ちした。


 魔物は着水と同時に姿を消した。波紋一つ残して水中へ溶け込むように沈み、気配ごと消える。



「消え……!」

「目で追っても無駄よ。向こうから来るわ。構えなさい」



 数秒の静寂。

 水面が揺れた。右から――いや、違う。


 揺れた瞬間にはもう左の壁際から跳躍していた。

 水柱を引き連れて、魔物の体が壁を蹴り、天井すれすれを飛ぶ。


 ミレナが剣を振った。だが天井が低すぎて、腕が伸ばしきれない。

 切っ先は鱗を掠めただけで、火花のような音が散った。


 魔物はそのまま水中へ戻った。着水の音すら最小限。

 まるで水が仲間であるかのように、その体を飲み込んでいく。



「速い……!」

「いいから黙って照らし続けなさい!」



 アヤトは魔灯を水面に向けた。

 濁った水の中で影を追うのは至難だった。

 どの波紋が魔物のもので、どの波紋がさっきの跳躍の残りなのか、区別がつかない。


 二度目の跳躍。今度は正面から飛び出す。

 水面が割れ、その中心から魔物が真っ直ぐに突っ込んでくる。


 ミレナは剣を振り下ろした。刃が魔物の背を叩いたが、鱗の表面を滑るように流れ、斬れていない。

 角度が合わないのだ。


 魔物は体をくるりと回転させ、ミレナの足元を尻尾で薙いだ。



「っ――!」



 足を掬われ、ミレナの体勢が傾いた。

 膝が水面に落ちかける。だがその前に、魔物はもう水の中だった。

 攻撃して、崩して、潜る。その一連の動作に無駄がない。



 水路という場所そのものが、魔物の味方をしているようだった。



「ミレナさん!」

「平気よ!」



 ミレナは短く返し、すぐに姿勢を立て直した。


 決して余裕があるわけではない。足場は狭く、床は濡れて滑りやすい。

 剣を振るにも天井が低く、横へ避ければすぐ水路に落ちる。


 地上ならどうにでもなる相手でも、ここでは条件が悪すぎた。


 水面がまた揺れる。

 今度は背後から攻めてきた。



「――ッ、後ろ!」



 アヤトが叫ぶ。


 ミレナは振り返らない。

 その場で剣を逆手に持ち替え、背後へ突き出した。


 水面を裂いて飛び出した魔物の牙が、剣の腹に噛みつく。

 ぎり、と嫌な音がした。



「っ、力だけはあるじゃない……!」



 魔物は剣ごとミレナを引きずり込もうとするように、首を振った。


 ミレナは引きずられるまいと足を踏ん張り、逆に押し返した。


 剣の腹に噛みついたまま離さない魔物の体を、そのまま水路の壁へと叩きつける。

 石壁に鱗が打ちつけられ、鈍い衝撃音が水路に反響した。


 魔物の顎が、僅かに緩んだ。


 ミレナはその隙に剣を引き抜こうとしたが、魔物も離さなかった。

 壁に押しつけられたまま、体を捻り、尻尾を鞭のように振るう。



「うぐッ――!」



 尻尾がミレナの脇腹を打った。

 硬い鱗に覆われた一撃は、革の防具越しでも鈍い痛みを残す。息が詰まり、一瞬だけ腕の力が緩んだ。



 魔物はその一瞬を逃さなかった。


 壁を蹴り、剣を咥えたまま体をくるりと反転させる。ミレナの腕を捻じるような角度で引っ張り、そのまま水中へ引きずり込もうとした。



「このっ……!」



 ミレナは片足で水底を蹴り、引きずられる方向とは逆に体重を移した。

 力比べ。魔物の顎の力と、ミレナの腕力が、一瞬だけ拮抗した。



 その間に、魔物の尻尾がもう一度動いた。今度は水面を叩いた。


 汚水が津波のように爆ぜる。

 壁のように跳ね上がった泥水が、ミレナの視界を覆い尽くそうと迫る。



 ミレナの左手が、反射的に動いた。

 剣を握ったままの右手は離せない。だから空いている左手で、一番近くにあるものを掴んだ。


 アヤトの襟首だった。



「うぇっ!?」



 引っ張られたアヤトの体が、ミレナの正面に割り込む。

 汚水がアヤトの顔面に直撃した。



「ぶぼはっ……!!」



 目も鼻も口も、泥水にまみれた。

 アヤトは咄嗟に目を閉じたが、口に入った汚水の味はもう取り消しようがなかった。



 おかげでミレナの視界は守られた。

 目が見えている。それだけで十分だった。


 ミレナは濡れた睫毛ひとつ動かさず、魔物の動きを捉える。

 汚水の飛沫を浴びたアヤトが背後でむせているが、今は構っていられない。



「やっかいな魔物ね。まったく」


 ミレナは吐き捨てるように呟き、空いた左手を水面へ向けた。



「リキッド・アロー!」



 濁った水面が弾けた。


 足元の水が細く鋭い矢の形を取り、魔物へ向かって一直線に放たれた。

 水の矢は闇を裂き、剣に噛みついたままの魔物の胴へ突き刺さる。


 硬い鱗を叩く鈍い音。しかし剣では弾かれた攻撃も、今度は弾かれなかった。


 水の矢が鱗の隙間へ食い込み、青緑色の体を壁へ押しつける。魔物が甲高く鳴き、噛みついていた顎を離した。



「――っ」



 ミレナは即座に剣を引き戻した。


 魔物は壁に叩きつけられたまま、四肢をばたつかせる。鱗の間から黒っぽい血が滲み、水面へぽたりと落ちた。


 ミレナはわずかに眉を寄せる。今の一撃は、いつものリキッド・アローより明らかに鋭かった。

 威力が前よりも乗っている。しかも、撃った直後の消耗が妙に軽い。


 体が軽い、というほどではない。



「……何?」



 自分の手のひらを一瞬だけ見る。

 しかし、考えている暇はなかった。


 壁に縫い止められた魔物が、尾を大きく振った。水の矢をねじ切るように身をよじり、拘束から抜けようとしている。



「ミレナさん! 今の、効いてます!」

「見れば分かるわ。あとあんた、うるさいのよ」

「えぇ、いやでも」



 そんなアヤトに構う素振りも見せず、ミレナは目の前の魔物に向かって走り出した。


 水の矢に縫い止められた魔物は、壁を爪で掻きながら暴れている。鱗の隙間に食い込んだ水の矢を振りほどこうと、魚のような尾を何度も水面へ叩きつけていた。



「一気に終わらせるわ」



 拘束が解けるまで、あと数秒もないだろう。

 ミレナは水底を蹴り、一気に間合いを詰めた。狭い水路でも、距離さえ近ければ天井の低さは関係ない。


 魔物の目がミレナを捉える。赤い眼が怒りに燃え、顎が開いた。

 壁に押しつけられたままでは、いつもの跳躍はできない。牙が虚しく空を噛む。


 ミレナが見ていたのは、その首筋だった。

 水の矢が食い込んだ箇所。鱗がこじ開けられ、青緑色の表面に赤黒い裂け目が走っている。

 何度斬りつけても滑るだけだったあの鱗が、今ははっきりと口を開いていた。


 ミレナは迷わず踏み込んだ。



「はぁっ!」



 剣先を裂け目へ滑り込ませ、そのまま横へ薙ぐ。刃が鱗の下を走った。

 硬いものを断つ感触のあと、ぬめる肉を切り裂く手応えが腕に伝わる。赤黒い血が飛び、魔物の悲鳴が水路に響いた。




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