5-12
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二層目に戻った二人は、水路の壁際に背を預けた。
魔灯の光が照らす範囲は、せいぜい数メートル先まで。
その向こうは闇だ。
水面が揺れるたびに光の反射がちらちらと瞬くが、それがかえって視界を惑わせた。
姿は見えなければ、音もない。
水滴が天井から落ちる音と、二人の呼吸だけが水路に響いている。
それなのに、空気が違った。
さっきまでとは明らかに何かが変わっている。
空気そのものに質量が乗ったような圧迫感。
それと、匂い。腐敗した死骸とは違う、もっと生々しい獣の体温を含んだ臭気が、闇の奥から滲み出してきている。
「……集中しなさいよ。もう敵が近くにいるわ」
「ど、どこに」
「それを探しているのよ。狼狽えてる暇があるなら、黙って照らしなさい」
「はい……」
アヤトは魔灯を握る手に力を込めた。
光を右へ向ける。何もいない。
今度は左へ向ける。濡れた壁と崩れた石片だけで、やはり魔物らしき影は見えない。
「な、なにもいませんよ」
「水面」
「え、みなもさん?」
思わず聞き返した瞬間、ミレナの目が鋭くなった。
「水の面よ。ふざけている場合? 今度は下水に向かって蹴り飛ばすわよ」
「す、すみません!」
アヤトは慌てて魔灯を下へ向けた。
濁った水面が、光を受けてぬらりと揺れている。
最初はただの流れに見えたが、よく見ると違う。
水路の奥から手前へ流れているはずの水の中に、ひとつだけ逆向きの波紋が混じっていた。
細く、低く、何かが水面のすぐ下を滑るように進んでいる。
「なんか、いる!?」
「くるわ!」
水面が爆ぜると、濁った水を突き破って、何かが飛び出してくる。
闇の中から飛び出してきたのは、中型犬ほどの大きさをした魔物だった。
全身は青緑色の鱗に覆われ、魚の尾を思わせる尻尾が水を叩いている。
口元から覗く牙は不揃いに尖り、赤い目が魔灯の光を反射して鈍く光っていた。
「うわっ!」
アヤトは尻もちをつきかけた。
ミレナの剣がその前に走る。
銀の軌跡が闇を裂き、飛びかかってきた魔物の鼻先を叩いた。
硬い音が響く。刃が鱗に弾かれたのだ。
「硬いわね」
ミレナは舌打ちした。
魔物は着水と同時に姿を消した。波紋一つ残して水中へ溶け込むように沈み、気配ごと消える。
「消え……!」
「目で追っても無駄よ。向こうから来るわ。構えなさい」
数秒の静寂。
水面が揺れた。右から――いや、違う。
揺れた瞬間にはもう左の壁際から跳躍していた。
水柱を引き連れて、魔物の体が壁を蹴り、天井すれすれを飛ぶ。
ミレナが剣を振った。だが天井が低すぎて、腕が伸ばしきれない。
切っ先は鱗を掠めただけで、火花のような音が散った。
魔物はそのまま水中へ戻った。着水の音すら最小限。
まるで水が仲間であるかのように、その体を飲み込んでいく。
「速い……!」
「いいから黙って照らし続けなさい!」
アヤトは魔灯を水面に向けた。
濁った水の中で影を追うのは至難だった。
どの波紋が魔物のもので、どの波紋がさっきの跳躍の残りなのか、区別がつかない。
二度目の跳躍。今度は正面から飛び出す。
水面が割れ、その中心から魔物が真っ直ぐに突っ込んでくる。
ミレナは剣を振り下ろした。刃が魔物の背を叩いたが、鱗の表面を滑るように流れ、斬れていない。
角度が合わないのだ。
魔物は体をくるりと回転させ、ミレナの足元を尻尾で薙いだ。
「っ――!」
足を掬われ、ミレナの体勢が傾いた。
膝が水面に落ちかける。だがその前に、魔物はもう水の中だった。
攻撃して、崩して、潜る。その一連の動作に無駄がない。
水路という場所そのものが、魔物の味方をしているようだった。
「ミレナさん!」
「平気よ!」
ミレナは短く返し、すぐに姿勢を立て直した。
決して余裕があるわけではない。足場は狭く、床は濡れて滑りやすい。
剣を振るにも天井が低く、横へ避ければすぐ水路に落ちる。
地上ならどうにでもなる相手でも、ここでは条件が悪すぎた。
水面がまた揺れる。
今度は背後から攻めてきた。
「――ッ、後ろ!」
アヤトが叫ぶ。
ミレナは振り返らない。
その場で剣を逆手に持ち替え、背後へ突き出した。
水面を裂いて飛び出した魔物の牙が、剣の腹に噛みつく。
ぎり、と嫌な音がした。
「っ、力だけはあるじゃない……!」
魔物は剣ごとミレナを引きずり込もうとするように、首を振った。
ミレナは引きずられるまいと足を踏ん張り、逆に押し返した。
剣の腹に噛みついたまま離さない魔物の体を、そのまま水路の壁へと叩きつける。
石壁に鱗が打ちつけられ、鈍い衝撃音が水路に反響した。
魔物の顎が、僅かに緩んだ。
ミレナはその隙に剣を引き抜こうとしたが、魔物も離さなかった。
壁に押しつけられたまま、体を捻り、尻尾を鞭のように振るう。
「うぐッ――!」
尻尾がミレナの脇腹を打った。
硬い鱗に覆われた一撃は、革の防具越しでも鈍い痛みを残す。息が詰まり、一瞬だけ腕の力が緩んだ。
魔物はその一瞬を逃さなかった。
壁を蹴り、剣を咥えたまま体をくるりと反転させる。ミレナの腕を捻じるような角度で引っ張り、そのまま水中へ引きずり込もうとした。
「このっ……!」
ミレナは片足で水底を蹴り、引きずられる方向とは逆に体重を移した。
力比べ。魔物の顎の力と、ミレナの腕力が、一瞬だけ拮抗した。
その間に、魔物の尻尾がもう一度動いた。今度は水面を叩いた。
汚水が津波のように爆ぜる。
壁のように跳ね上がった泥水が、ミレナの視界を覆い尽くそうと迫る。
ミレナの左手が、反射的に動いた。
剣を握ったままの右手は離せない。だから空いている左手で、一番近くにあるものを掴んだ。
アヤトの襟首だった。
「うぇっ!?」
引っ張られたアヤトの体が、ミレナの正面に割り込む。
汚水がアヤトの顔面に直撃した。
「ぶぼはっ……!!」
目も鼻も口も、泥水にまみれた。
アヤトは咄嗟に目を閉じたが、口に入った汚水の味はもう取り消しようがなかった。
おかげでミレナの視界は守られた。
目が見えている。それだけで十分だった。
ミレナは濡れた睫毛ひとつ動かさず、魔物の動きを捉える。
汚水の飛沫を浴びたアヤトが背後でむせているが、今は構っていられない。
「やっかいな魔物ね。まったく」
ミレナは吐き捨てるように呟き、空いた左手を水面へ向けた。
「リキッド・アロー!」
濁った水面が弾けた。
足元の水が細く鋭い矢の形を取り、魔物へ向かって一直線に放たれた。
水の矢は闇を裂き、剣に噛みついたままの魔物の胴へ突き刺さる。
硬い鱗を叩く鈍い音。しかし剣では弾かれた攻撃も、今度は弾かれなかった。
水の矢が鱗の隙間へ食い込み、青緑色の体を壁へ押しつける。魔物が甲高く鳴き、噛みついていた顎を離した。
「――っ」
ミレナは即座に剣を引き戻した。
魔物は壁に叩きつけられたまま、四肢をばたつかせる。鱗の間から黒っぽい血が滲み、水面へぽたりと落ちた。
ミレナはわずかに眉を寄せる。今の一撃は、いつものリキッド・アローより明らかに鋭かった。
威力が前よりも乗っている。しかも、撃った直後の消耗が妙に軽い。
体が軽い、というほどではない。
「……何?」
自分の手のひらを一瞬だけ見る。
しかし、考えている暇はなかった。
壁に縫い止められた魔物が、尾を大きく振った。水の矢をねじ切るように身をよじり、拘束から抜けようとしている。
「ミレナさん! 今の、効いてます!」
「見れば分かるわ。あとあんた、うるさいのよ」
「えぇ、いやでも」
そんなアヤトに構う素振りも見せず、ミレナは目の前の魔物に向かって走り出した。
水の矢に縫い止められた魔物は、壁を爪で掻きながら暴れている。鱗の隙間に食い込んだ水の矢を振りほどこうと、魚のような尾を何度も水面へ叩きつけていた。
「一気に終わらせるわ」
拘束が解けるまで、あと数秒もないだろう。
ミレナは水底を蹴り、一気に間合いを詰めた。狭い水路でも、距離さえ近ければ天井の低さは関係ない。
魔物の目がミレナを捉える。赤い眼が怒りに燃え、顎が開いた。
壁に押しつけられたままでは、いつもの跳躍はできない。牙が虚しく空を噛む。
ミレナが見ていたのは、その首筋だった。
水の矢が食い込んだ箇所。鱗がこじ開けられ、青緑色の表面に赤黒い裂け目が走っている。
何度斬りつけても滑るだけだったあの鱗が、今ははっきりと口を開いていた。
ミレナは迷わず踏み込んだ。
「はぁっ!」
剣先を裂け目へ滑り込ませ、そのまま横へ薙ぐ。刃が鱗の下を走った。
硬いものを断つ感触のあと、ぬめる肉を切り裂く手応えが腕に伝わる。赤黒い血が飛び、魔物の悲鳴が水路に響いた。




