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5-11

『市場での一件、忘れたわけではありませんよね。あの時も――』


「またその話かい? いつまで過去の話をしているのかな。美しくないねぇ」



 ヴェインはうんざりしたように肩をすくめた。


 その表情に反省の色など一切ない。

 むしろ、退屈な説教を聞かされている子供のように、わずかに眉を寄せているだけだった。



『結果として、ローゼンフェルトの名を嗅ぎ回られる原因を作ったのはあなたです。同じ失態を――』

「失態? ボクが?」


 ヴェインの声から、笑みが消えた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、黄金の瞳が冷たく凪いだ。


「ミラ。ボクは失態などしない。あれは必要な布石だったと、何度言えば分かるのかな。それに美しい女性に名を尋ねられて名乗らないのは失礼というものさ」

『……』



 それが本音なのか方便なのか、声色だけでは判別できなかった。おそらく、両方なのだろう。





『……ヴェイン。これ以上、勝手な行動を――』

「勝手ではないさ」



 ヴェインは穏やかに遮った。



「状況は常に変わる。作戦とは、その場に応じて最も美しい形へ整えていくものだ。決めた手順に縛られて機会を逃すなど、愚か者のすることだよ」


『それを独断と言います』

「違うね。判断力と言うんだよ」



 ヴェインは窓辺から離れ、外套の襟を整えた。

 暖炉の火が、彼の白銀の髪を淡く照らす。



「ミレナ・カワードは地下水路。あの染みも同じ場所。……どうせシレナのことだ。あの醜い失敗作も勝手に動き回っているに違いない。なら、南通りに残されたリノアを保護するのは、むしろ当然の判断じゃないか」


『……保護、ですか』

「ああ。あの娘は危うい。優しさという無防備を、美徳だと思い込んでいる。放っておけば、醜いものに絡め取られるだけだ」


『むしろ貴方が絡め取ろうとしているようにしか聞こえません』

「人聞きが悪いねぇ。それにボクは醜いものではない」



 ヴェインは小さく笑った。



「ボクはただ、彼女にふさわしい場所を示してあげるだけだよ」

『……はぁ。話になりませんね』

「なら、この話は終わりだ」



 ヴェインは指輪の魔石へ視線を落とし、そこで初めて楽しげに目を細めた。


「地下水路の監視は続けておいてくれ。ミレナ・カワードがどんな反応を見せるのか、あとで聞かせてもらう」

『……』



 ヴェインは扉へ向かって歩き出す。

 金色の魔石の光が、指先で微かに瞬いた。


「今から迎えに行くよ、リノア」



 その声は、恋人を訪ねるように甘く。

 獲物へ近づくように、静かだった。




   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇




 シレナは南通りの奥へと足を踏み入れていた。


 大通りの賑わいはとうに遠ざかり、道幅は徐々に細くなっている。

 商店はまばらになり、代わりに古びた木造の住宅が密集する一帯へと景色が変わっていった。


 手がかりは三つ。南通りの奥。おばあさんと二人暮らし。薬草に詳しいという、礼儀正しい女の子。


 この条件で、しらみ潰しに当たっていく。

 最初に声をかけたのは、軒先で洗い物をしていた中年の女だった。


「あのぅ、すみません。このあたりに、おばあさんと女の子がお二人で暮らしているお家がありませんかぁ? 薬草にお詳しい方だとお聞きしたのですけれど」


「薬草ねぇ……。あぁ、うちの三軒隣のおばあちゃんが薬草茶を作ってたけど、あそこは一人暮らしだよ」


「えぇっと、女の子と一緒ではなく……?」

「うん。じいさんが死んでからずっと一人だねぇ」

「そう、ですかぁ。ありがとうございます」


(はい、はずれ。次)



 頭を下げて離れ、さらに奥へ進んだ。

 次に声をかけたのは、路地の角で荷物を運んでいた男だった。



「すみません、この辺りでお薬に詳しい若い女の子が住んでいるとお聞きしたんですけどぉ」


「薬? さぁ、聞いたことないな。でも向こうの通りにばあさんがいるよ。若い女の子もいたっけな? 多分そっちじゃないか?」

「ありがとうございます!」



 教えられた通りに行ってみると、七十過ぎの老婆とその娘であろう四十代ぐらいの女性がいた。

 しかし若い女の子の影などはどこにもない。


(どっちもクソババアじゃねぇか。どう見たら若い女の子に見えんだよ。耳ついてんのかあのオッサン。死んどけカスが)


 


 笑顔で礼を言い、踵を返す。


 次に声をかけたのは、通りの端で縫い物をしていた老女だった。



「あのぅ、この辺りにおばあさんと若い女の子がお二人で暮らしているお家って、ご存知ありませんかぁ? 薬草に詳しい方で、リノアちゃんっていうお名前の……」

「リノアちゃん?」



 老女は針の手を止め、目を細めた。



「あぁ、あの家の子のことかねぇ。確かリノアっていう名前だったような……?」



(お、きた?)


「はい! その子です!」

「だったらこの道をまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がったところだよ。緑の扉の家さ」

「ありがとうございますぅ!」



 シレナは足早に教えられた方角へ向かった。二つ目の角を右に曲がると、確かに緑色の扉の家が見えた。


 扉を叩く。開いたのは、恰幅のいい中年の女性だった。

 その後ろから、幼い男の子が二人、顔を覗かせている。さらに奥では、老婆が椅子に座ったまま編み物をしている横で、十代半ばくらいの少女が皿を拭いていた。


「……え?」

「はい、何か御用?」


「あ、えっと。あのぅ、リノアちゃんとおっしゃる方のお家はこちらでしょうか……?」


「リノア? うちにリノアはいないわよ。うちの子はリオハだけど」



 奥にいた少女がこちらに顔を向けた。赤毛で、そばかすの散った丸い顔。どう見ても薬草に詳しそうな雰囲気ではない。


「リオハでぇす。リオハに何か用?」

「あ、いえ……。人違い、だったみたいです。すみません」



 深々と頭を下げて、扉が閉まるのを見届けた。



(リオハ!? リノアじゃなくてリオハ? 名前が似てるだけで別人じゃねぇか! つーかババアと二人暮らしって言ったろうが! 家族が四人もいたし! あのボケババア、適当なこと言ってんじゃねぇよ!)



 こめかみに青筋が浮きそうになるのを堪え、シレナは路地の壁に背を預けた。深く息を吐く。


 もう何人に聞いたか数える気にもならない。まともな情報を持っている人間が、この界隈には本当にいなかった。



 ふいにシレナは周囲を見回した。

 人の姿はない。路地の奥まった一角には、自分以外の誰もいなかった。


 それを確認した瞬間、シレナの顔から仮面が剥がれ落ちた。



「――ッざっけんなよ!! クソボケどもが!」



 路地の脇に立つ細い木の幹を、思い切り蹴りつけた。

 乾いた音が路地に響き、枝から葉が数枚はらはらと落ちる。



「どいつもこいつも! 使えねぇ情報ばっか寄越しやがって! 耳ついてんのか!? 脳みそついてんのか!? リノアとリオハの区別もつかねぇボケどもがッ!」



 もう一度蹴った。足が痺れたが、構わなかった。



「クソッ! こちとら朝からずっと猫被って笑顔振り撒いてんだよ! 顔の筋肉がつりそうなんだっつーの! なのに得られた情報がゴミばっかって何なの!? 使えねぇカスどもがよ」



 もう一度、今度は逆の足で木を蹴った。

 幹が軋み、枝がざわざわと揺れた。



「あぁもう、クソ。クソクソクソ……!」


 荒い息を吐きながら、シレナは壁にもたれかかった。

 買い物籠が足元に転がっている。中の薬草が散らばったが、拾う気にもならなかった。



 数秒間、荒い呼吸だけが路地に響いていた。


 その時、角の向こうから話し声が聞こえてきた。

 シレナの体が、反射的に切り替わった。


 壁から背を離し、散らばった薬草を拾い上げ、籠に戻す。髪を指先で整え、ブラウスの襟を正した。


 角を曲がってきたのは、買い物帰りらしい中年の女性二人だった。

 近所の主婦同士が、世間話をしながら歩いている。



「あ、あのぅ……すみません」



 シレナの声は、三秒前まで木を蹴り飛ばして悪態をついていた人間のものとは思えないほどに、甘く、弱々しく、澄んでいた。



「このあたりで、おばあさんと若い女の子がお二人で暮らしているお家をご存知ありませんかぁ? 薬草にお詳しい方で……」



 女性たちは足を止め、シレナの顔を見た。



「おばあさんと女の子? 二人暮らしの?」

「うーん、この辺りだとどうかしらねぇ。ねぇ、あんた知ってる?」


「私も分からないわ。でも、この先の突き当たりをもう少し奥に行くと、あっちのほうに年寄り夫婦や一人暮らしのお年寄りが多い区画があるのよ。そっちのほうが心当たりあるんじゃないかしら」


「もう少し奥、ですか」

「そうそう。この通りをまっすぐ行って、井戸のある広場を過ぎたあたりからは、住んでる人も顔見知り同士が多いから、聞けばすぐ分かると思うわよ」


「ありがとうございますっ!」



 シレナは深々と頭を下げた。女性たちは「気をつけてね」と声をかけ、歩き去っていく。


 その背中が消えるのを見届けてから、シレナは小さく息を吐いた。

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