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「即答ですか!?」
アヤトは思わず声を上げた。
ミレナは濡れた銀髪を指先で払いながら、当然のような顔をしている。さっきまで全身泥水まみれだったとは思えないほど、彼女の姿はすっかり整っていた。
白い外套も、銀色の髪も、頬についた泥の筋も、今ではほとんど消えている。
ミレナは露骨に眉を寄せた。
「ていうかあんた臭いわよ。近寄らないで」
「誰のせいでこうなったと思ってるんですか……」
「あんたのせいでしょ。自分で転んだくせに」
「転ばされたんですけど!? 袖掴んで引っ張ったの、ミレナさんですよね!?」
「うるさいわね。……はい、箱。さっさと見るわよ」
恨み言の一つや二つを心の中で唱えながらも、足は止めなかった。止めたところで状況が好転しないことくらいは、もう学んでいる。
「ほら、照らしなさい。暗くて見えないでしょう」
「はいはい……」
アヤトは泥だらけの手で魔灯を掲げた。
「ッチ、何よその返事は? はいは一回!」
「はい……」
アヤトは素直に返事を改めた。もう反抗する気力が残っていない。
ミレナは一番手前の箱の前にしゃがみ込み、蓋に手をかけた。
「じゃ、まず一つ目よ」
中には干し肉や保存水などの飲食物。少し食いかけの物もあり、ここで誰かが活動していたと様子が伺えた。
「食料ね。なら二つ目は?」
二つ目の箱には、布団や枕などの簡素な寝具類。おそらくここで、誰かが寝泊まりするために使っていたのだろう。
「よくこんな場所で寝ようとか思えるわね。私なら絶対ありえないわ。こんなところで寝られるのは、このバカレベルの不潔なやつね」
「いや俺でも嫌ですけどね。というか、勝手に不潔代表にしないでください」
「今のあんたに説得力はないわ」
「それはミレナさんのせいで……もういいです」
アヤトは諦めたように肩を落とした。
ミレナは三つ目の箱へ視線を移す。
「最後ね……これは」
ミレナが最後の箱の蓋に手をかけた時、その指が一瞬止まった。
「……微かだけど、魔力の残滓を感じるわ」
「えっ、大丈夫なんですか? 開けて」
「大丈夫かどうかは開けてみないと分からないでしょう。というわけで、あんたが開けてみなさい」
「えー罠とかあったらどうするんですか」
「それを確かめるのがあんたの役目でしょ。ほらグズグズしない!」
「役目って、いつからそんな役目が……。もういいです、開けますよ」
アヤトは恐る恐る三つ目の箱に手をかけた。
蓋を持ち上げようとして、ちらりとミレナを振り返る。ミレナは三歩ほど後ろに下がり、剣の柄に手をかけた状態で見守っていた。
「めちゃくちゃ距離取ってるじゃないですか」
「当然でしょ。万が一に備えてるのよ」
「万が一の時に真っ先に被害を受けるのは俺ですけど……?」
「だからあんたが開けるのよ。はい、さっさと」
アヤトは覚悟を決めて、蓋を持ち上げた。
中は空で、物は何も入っていない。
箱を持ち上げてみると、箱の底板に何かが刻まれていた。
魔灯を近づけると、複雑な紋様が浮かび上がる。
円を基調にした幾何学模様。その中に見たことのない文字や記号が幾重にも重ねられている。
「何も入ってないですけど、底に変な模様が……」
「見せなさい」
ミレナが歩み寄り、箱の中を覗き込んだ。その目が、一瞬で鋭くなった。
「魔法陣よ。これは……転移召喚用の――」
ミレナの言葉が途切れた。
紋様が、光っていたからだ。
底板に刻まれた線刻が、内側から火を灯したように白く熱を帯びていく。微かだった光がみるみるうちに強さを増し、箱全体が振動を始めた。
「――ッ! 離れなさい! 今すぐ!」
ミレナがアヤトの襟首を掴み、後方へ引き倒した。アヤトの手から離れた蓋が水の中に落ちる。
二人が箱から離れた直後、魔法陣の中心から、紫がかった黒い靄が噴き上がった。
靄の中で何かが形を成し始めている。最初は影のような輪郭だった。
それが急速に質量を持ち始め、四本の脚と鬣のような突起が闇の中に浮かび上がっていく。
低い唸り声が、三層目の空間全体を震わせた。
「蓋を開けたのがトリガー……! 罠だったのよ!」
「す、すみません!」
「謝ってる暇があったら走りなさい!」
ミレナは剣を抜き、アヤトの腕を掴んで壁の隙間へ向かって駆け出した。
背後で靄が膨張し、重い何かが地面を踏みしめる音が反響してくる。
アヤトは壁の下の隙間に飛び込んだ。汚水が顔に跳ねたが、もう気にしている余裕はなかった。
汚水を蹴散らしながら、二人は来た道を全力で引き返した。
三層目から二層目への隙間を潜り抜け、アヤトが先に、ミレナが後に続いた。
二層目の排水路を駆け抜け、腐敗した死骸を踏み越え、爪痕の走る壁を横目に通り過ぎた。
魔灯の光が上下に揺れ、影が壁の上で踊り狂う。
一層目への階段が見えた。
「あそこです!」
アヤトは階段を三段飛ばしで駆け上がった。一層目に繋がる扉が、すぐ目の前にある。
取っ手に手をかけた。しかし扉は動かなかった。
「……え? なんで」
もう一度、力を込めて引く。びくともしない。押してもみた。駄目だった。
「鍵がかかってる……!」
「何ですって?」
ミレナが追いつき、アヤトの横から扉を確かめた。金属製の取っ手と、その下にある鍵穴。来る時は開いていたはずの扉が、完全に施錠されていた。
「来る時は開いてたじゃないですか! なんで!」
「ッチ! ここに住み着いてたやつの仕業? それとも」
ミレナは扉から手を離し、階段の下を見据えた。
二層目の闇の奥から、重い足音が近づいてきている。壁を伝わる振動が、少しずつ大きくなっていた。
「扉は開かない。だったら今は戻るしかないわ」
「戻るって……あの魔物がいるほうにですか?」
「他に道がないでしょう。ここで挟まれるよりは、二層目の広い場所で迎え撃つほうがまし。少なくとも、階段の上で詰まっているよりは動ける」
ミレナは剣を抜いた。魔灯の光が刀身を走り、青白い線となって暗闇を裂く。
「あんたは後ろに下がってなさい。いいわね」
「で、でも」
「今のあんたにできることは、私の邪魔をしないこと。それだけよ」
冷たい言い方だった。その声には余分な感情が一切なかった。
怒りでも苛立ちでもない。戦闘に入る直前の、研ぎ澄まされた集中。
二人は階段を転がるように駆け下りた。
二層目の排水路に戻った瞬間、空気が変わっていた。
さっきまでの腐敗臭と湿気に混じって、もっと濃い獣の匂いが漂っている。生きた獣の体温と、唾液と、殺意の匂い。
「来るわよ!」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
冒険者ギルドのカウンター。
昼下がりの施設内は閑散としていた。依頼を受けた冒険者たちは出払い、残っているのは書類仕事の職員と、酒場の隅で雑談をしている数人だけだ。
受付嬢は帳簿にペンを走らせていた。いつもと変わらない、淡々とした手の動き。
だが、その手がふと止まった。
眼鏡のフレーム右端に嵌め込まれた小さな黒い石が、微かに熱を帯びていた。周囲の誰にも気づかれない程度の、ごくわずかな振動。
彼女の赤い瞳がそれに呼応するかのように、一段と輝きを増した。
受付嬢は帳簿から顔を上げることなく、眼鏡のブリッジに指を添える。
「……発動したようですね」
唇の動きすら最小限に抑えた、吐息のような呟き。隣にいても聞き取れないほどの声量。だが、魔石を通じてその言葉は正確に届いていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
アステリアの街を見下ろす邸宅の一室。
暖炉の火が穏やかに揺れる中、指輪の金色の魔石が微かに光った。
「――ふぅん。随分と早かったねぇ」
ヴェインは長椅子に身を沈めたまま、受付嬢からの報告を聞き終えた。
「あの女、怪我人のくせに行動力だけは大したものだ」
目を開けると、黄金の瞳が暖炉の炎を映した。
『召喚された例の魔物とまもなく接触。これより、戦闘に入る模様です』
受付嬢の声だった。
だが、先ほどまでの事務的な報告とは声色が違う。平坦で、感情を含まない、硬質な声。
ヴェインは立ち上がった。長椅子に置いてあった外套を手に取り、肩に羽織る。
「ちょうどいいじゃないか。あの二人が地下で足止めされている今なら――」
『何をするつもりですか』
受付嬢――ミラの声が、一段冷えた。
「決まっているだろう? リノアのところへ行くんだよ。ミレナ・カワードに邪魔立てされてリノアを傷ものにされては困るからね」
『計画に含まれていない行動です。自制してください、ヴェイン』
「自制、ねぇ」
ヴェインは外套の前を留めながら、窓辺へ歩み寄った。南通りの方角を見下ろす。
「あの二人は地下水路で魔獣と戦っている。仮に倒したとしても、一層目の扉は閉めさせたんだろう? しばらくは上がってこれない。これ以上ない好機だと思わないかい、ミラ」
『扉を閉めたのは退路を断つためではありません。地上への被害拡大を防ぐためです』
「建前はそうかもねぇ」
ヴェインは窓硝子に映る自分の姿を見つめ、満足げに前髪を整えた。
「だが結果は同じだ。ミレナ・カワードは地下。あの染みも地下。なら、南通りには邪魔者がいない」
『好機かどうかは問題ではありません。坑道での決着が最優先であることは、合意の上だったはずですが』
魔石越しに届くミラの声は、わずかに硬くなっていた。
責めているというより、確認しているかのような声。
感情ではなく、取り決めを破ろうとする相手に対して、淡々と釘を刺している。
それでも、ヴェインは悪びれた様子を見せなかった。
「合意はしたさ。でもねぇ、ミラ。あの美しい子を、醜い連中の手にいつまでも晒しておくのはボクの美学に反するんだよ。彼女が可哀想じゃないか」
『貴方の美学とやらで作戦を崩さないでください。今あの少女に接触すれば、ミレナたちに余計な警戒を与えることになります』
「だから、ミレナには知られないように行くと言っているだろう? あの女は今、地下水路の中だ。知りようがないじゃないか」




