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5-9

「えっと……大丈夫、ですか?」

「……」



 返事はなかった。


 ミレナは汚水の中に座り込んだまま、微動だにしない。銀髪は完全に汚水で濡れ、顔にも泥の筋が走っている。その姿は、さっきまで偉そうに「私がそんなヘマするわけないでしょ」と言い切っていた人物と同一人物とは思えなかった。


 アヤトは唇を引き結んだ。


 笑ってはいけない。絶対に笑ってはいけない。ここで笑ったら、冗談抜きで命がない。それは分かっている。分かっているのだが。


(あれだけ俺にドジだドジだって言っておいて、自分が転ぶって……)



 駄目だった。こみ上げてくるものを、理性で抑えきれない。



(笑うな。笑うな笑うな笑うな。ここで笑ったら死ぬ。確実に死ぬ。グールスパイダーより怖い。絶対に――)



 口元が、震えた。


 ほんの僅か。唇の端が、ぴくりと持ち上がった。それだけだった。声は出していない。音も立てていない。自分ではそう思っていた。


 だが、ミレナは見ていた。


 汚水の中から、青い瞳だけがゆっくりとアヤトを捉えた。泥まみれの顔の中で、その目だけが正確にアヤトの口元を射抜いている。


「……今、笑ったでしょ!」

「笑ってないです」

「笑ったわよね」

「笑ってないです! 断じて!」


「口元。震えてたわよね。今」

「か、顔が寒くて。水路の空気が冷たいので、その、震えただけで」

「あっそ!」


 ミレナはゆっくりと立ち上がった。


 汚水が全身から滴り落ちている。

 髪からも、袖口からも、裾からも。それでもミレナは、一切の羞恥を押し殺した顔で、真っ直ぐにアヤトの前まで歩いてきた。


 至近距離。鼻先が触れそうな距離で、泥まみれの顔がアヤトを見上げた。



(下水の臭いが……とか言ったらまた怒られそう)



 そう思った瞬間、ミレナの目がさらに細くなった。



「今、何を考えたの?」

「な、何も考えてませんって」



 アヤトは反射的に目を逸らしかけ、しかし至近距離でそれをやると余計に怪しまれる気がして、ぎこちなく視線を戻した。


 泥水に濡れたミレナは、普段の整った姿からは程遠かった。


 銀色の髪は頬に張りつき、白い外套は水を吸って重たげに垂れている。袖口からは、ぽたぽたと茶色く濁った水が滴り落ちていた。



「……もう最悪。ほんっっと」



 ミレナは自分の姿を見下ろし、吐き捨てるように呟いた。



「こんな格好で地上に上がれるわけがないわ。……ねぇ、どうしてくれるの、これ? ほらどうすんの? ほら言ってみなさいよ」

「いや、俺のせいじゃ……」



 ミレナの目が光った。



「……俺のせいです。すみません。全面的に俺が悪いです」

「そうよねあんたのせいよ。じゃあ私だけこんな目に遭ったのはおかしいと思うわよね? 思うでしょ? ええ、そうよね?」

「思いません!」



 アヤトは即答した。即答してから、しまったと思った。

 ミレナの目が、さらに据わる。


「……へぇ」

「ち、違います! 今のは反射で! えっと、その、理屈としては思わないというだけで、気持ちとしては大変申し訳ないというか!」


「じゃあ、気持ちを形にしなさい」

「か、形って……」


 ミレナはゆっくりと手を伸ばした。

 その指先が、アヤトの袖を掴む。


 濡れた手の冷たさが布越しに伝わってきて、アヤトの背筋がぞわりとした。



「ちょ、ちょっと待ってください。何をする気ですか」


「分かるでしょう?」

「分かりたくないです」

「大丈夫よ。肩まで浸かるだけだから。顔はなしにしておいてあげるから。私ってなんて優しいのかしらね」



「優しくないです! 全然優しくないです!」



 アヤトは必死に後ずさったが、ミレナの指は袖を離さなかった。見た目は華奢な少女の握力とは思えない力で、布地が引っ張られる。



「ミレナさん、話し合いましょう! 暴力反対!」

「暴力じゃないわ。公平性の回復よ」

「言い方が怖いですって!」



 ずるり、とアヤトの足が滑った。


「あっ」


 間抜けな声が出た。

 次の瞬間、アヤトの視界がぐらりと傾く。


 踏ん張ろうとした足は泥に取られ、掴まれていた袖のせいで上半身だけが妙な方向へ引っ張られた。


「うわっ! もっ、ちょぉっ!」



 ばしゃん、と水音が響いた。 


 尻から、冷たい泥水の中へ落ちた。

 濁った水が腰まで跳ね上がり、服の背中まで一気に染み込んできた。



「つ、冷たっ……! つか、くっさ!」



 アヤトは両手をついて起き上がろうとしたが、掌が泥に沈み、ぬちゃりと嫌な感触が広がる。


 最悪だった。

 臭い。冷たい、そしてとにかく気持ち悪い。

 何より、目の前にいるミレナが、固まっている。


「……」

「……」


 数秒の沈黙。


「ふっ、ふふ」


 ミレナの口元が、わずかに緩んだ。


「あ、今笑いましたよね」

「笑ってないわ。失礼ね」


「笑ってましたよ! 口元、めっちゃ緩んでましたよ!」

「気のせいよ。……ほら、手。さっさと立ち上がりなさいよ」



 ミレナが右手を差し出した。


 泥まみれの手だったが、それでも助け起こそうとしてくれているのだと、アヤトは素直に思った。さっきまでの理不尽な仕打ちの数々を考えれば、この一手だけでも随分な譲歩に感じられた。



「あ、ありがとうございます……」



 アヤトはミレナの手を掴んだ。冷たい指が握り返してくる。足元の泥から体を引き剥がすように、ゆっくりと腰を浮かせた。


 膝が伸びかけた、その瞬間。

 ミレナの手が、すっと開いた。


「え」



 握っていた指が、するりと解ける。支えを失ったアヤトの体が、中途半端に浮いた姿勢のまま後方へ傾いた。



「あ、ちょちょっちょ――」


 二度目の水柱が上がった。


 今度は尻だけでは済まなかった。背中から倒れ込み、後頭部まで汚水に浸かる。口の中に泥水が流れ込みかけて、アヤトは咄嗟に唇を閉じた。



「ぶっ……! な、何で離すんですか!!」



 汚水の中から跳ね起きたアヤトの耳に、聞き慣れない音が届いた。


 ミレナの笑い声だ。



「ふっ……ふふっ……あはっ……」



 ミレナが、笑っていた。


 口元を手で覆い、肩を震わせている。堪えようとしているのか、それとも堪える気がないのか。

 どちらにしても、隙間から漏れ出す笑い声は止まらなかった。



「あはっ、あはははっ……。あんた、今の顔……ほんっと最高に間抜けだったわ……! くふ、ふふっ」


「わざとですか!? 今の完全にわざとですよね!?」

「ふふっ……当たり前じゃない……ふっ、あんたが、私の転んだ顔、笑ったから……おあいこ、よ……ふふっ」


「笑ってないって言ったじゃないですか!!」

「目が……笑ってた、でしょ……。ふふ、あはははっ」



 もう体裁を取り繕う気もないらしい。

 ミレナは腹を抱え、目尻に涙すら浮かべながら笑い続けている。泥まみれの顔で、汚水に浸かったままの姿で、それでも腹の底から笑っていた。


 アヤトは汚水の中に座り込んだまま、呆然とその姿を見つめていた。



「ちょっと手が滑っただけよ。……ッフ、フフ」


「絶対嘘ですよね!?」

「知らないわ。証拠あるの?」

「状況証拠しかないですけど!」


「じゃあ無罪ね。はい、この話は終わり」


 ミレナはそう言いながら、片手で水面をぱしゃりと払った。汚水の飛沫がアヤトの顔面に直撃する。



「ぶっ……! 何すんですか!」

「プッ、口を開けて呆けているからよ。隙が多いのよ、あんたは」



 今度は狙い澄ましたように、アヤトの額を撃ち抜いた。



「やめてください! これ下水ですよ!? 口に入ったらどうすんですか!」


「入らないように閉じてなさいよ。ほら、そーれ」


 ぱしゃり、と三度目。



「も、もう! ミレナさん! やめてくださいって」



(……こういうの、海とかでやるもんじゃないのか普通。白い砂浜で、綺麗な水で、きゃっきゃ言いながらさ。彼女と海デートとかで。なんで俺はそれを下水でやられてんだ。しかも相手は泥まみれのドS美少女だし)



 アヤトの心の中の嘆きを知る由もなく、ミレナはようやく水を掛けるのに飽きたらしかった。最後にふん、と鼻を鳴らし、手についた泥水を振り払う。



「……ふぅ。さすがに、このままは不快ね」

「いや、それは俺もなんですけど」



「クリーン・ストリーム」



 ミレナが短く唱えた。

 その瞬間、彼女の足元の水面が淡く揺らいだ。


 持ち上がったのは汚水ではなかった。空気中の水分だけを集めたような、澄んだ薄い水の膜がミレナの周囲にふわりと広がった。


 水の膜は彼女の髪を撫で、外套を包み、袖口や裾に染み込んだ汚れを静かに洗い流していく。


 銀色の髪に絡んでいた泥が落ちる。

 白い外套に染み込んでいた濁りが、少しずつ抜けていく。


 頬についた泥の筋も、水に溶けるように消えた。

 数秒後、ミレナは何事もなかったかのように立っていた。

 完全に元通り、とまではいかない。ただ、少なくとも泥まみれの惨状からは見違えるほど回復している。


 アヤトは呆然とした。


「……え」


「何よ」

「今、綺麗にできたんですか? え、魔法、え?」


「あくまで水で洗い流しただけよ」

「じゃあ、さっきの大騒ぎは何だったんですか!」


「なんとなくよ!」

「理由になってないです!」



 アヤトは泥水に濡れた自分の服を見下ろした。


 背中も腰も尻も、まだ最悪の状態だ。髪にも泥水が跳ねているし、頬にも飛沫の跡が残っている。

 不幸中の幸いなのは、リノアにもらったお守りだけはなんとか汚水に塗れていないことだ。


 一方のミレナは、涼しい顔で銀色の髪を指先で払っていた。


 なんというか、理不尽だった。あまりにも理不尽だ。



「あの、俺にもそれ、お願いします」

「嫌よ」

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