5-8
管理区画は、街の中心部からは随分と離れた場所にあった。
大通りの賑わいが嘘のように、人の気配が薄い。等間隔に並ぶ街灯の半分は灯が消えており、石畳も中央通りに比べると手入れが行き届いていなかった。
壁際には苔が這い、排水溝からは湿った空気が這い上がってくる。
「なんか……すごく陰気な場所ですね」
「所詮管理区画なんてどこもこんなものよ。市民の目に触れない場所ほど、金をかけないのが行政ってものだわ」
ミレナは足を止めることなく、石畳の上を迷いのない足取りで進んでいく。ギルドで確認した地図の情報が、すでに頭の中に入っているのだろう。
やがて、道の突き当たりに鉄柵が見えてきた。
柵の向こうに、地面へと降りていく石段がある。幅は人二人が並んでどうにか通れる程度。
段の先は暗く、底は見えなかった。湿った風が下から吹き上げてきて、アヤトの頬を撫でた。
黴と、澱んだ水と、それからもう一つ、何か獣のような生臭い匂いが混じっていた。
「ここが入口、ですか……。うわ」
「そうね。随分とお上品な香りじゃないの」
ミレナは鉄柵に手をかけた。錠前がかかっているが、管理局の職員用らしい鍵穴で、見るからに大したものではなかった。
受付嬢から預かった調査依頼書には、管理区画への立ち入り許可も含まれていた。
ミレナが書類を柵の脇に設置された連絡箱に差し込む。
しばらくすると、待機していたらしい管理局の職員が奥から姿を現した。
「調査依頼の冒険者さんかい。……えらく若いな。二人だけで大丈夫なのか?」
「いいえ一人よ。こいつは椅子だから。人間としてカウントしないでちょうだい」
「えっ、そんな……」
アヤトが情けない声を漏らすと、管理局の職員は何とも言えない顔で二人を見比べた。
銀色の髪の少女と、見慣れない服を着た黒髪の少年。誰がどう見ても奇妙な組み合わせだった。
だが、ギルドの依頼書に押された印を確認すると、職員はそれ以上深く追及しなかった。冒険者には変わり者が多い。そういう諦めが顔に出ている。
職員は二人の顔を交互に見て、特にアヤトのほうを不安そうに眺めたが、それ以上は何も言わなかった。鍵を回して柵を開け、脇に退く。
「中は三層構造になってる。一層目は普通の排水路だから問題ない。二層目から先は古い造りで、照明もない。目撃報告があったのは二層目と三層目だ。……くれぐれも気をつけてくれ」
「ええ、ありがとう。ほら行くわよ」
「は、はい……」
鉄柵が軋みながら開くと、地下から吹き上げる風が一段と強くなった。黴と古い水の匂いに、やはり獣じみた臭気が混じっている。
アヤトは思わず顔をしかめた。
「う……。本当にこの中に入るんですか」
「文句ばかり言ってんじゃないわよ。あんまりうるさいと下水にぶち込むわよ」
「それだけは勘弁してください……」
アヤトは口と鼻を片手で覆いながら、石段を降りていった。
一層目は、ただの排水路だった。
天井は低いが立って歩ける程度の高さはあり、壁際には等間隔で小さな魔灯が設置されている。
足元を流れる水は濁ってはいるが浅く、靴底が僅かに浸かる程度だった。
「このあたりは問題なさそうね。作業員が日常的に出入りしている区画だもの」
二層目への階段は、排水路の奥にあった。
一層目とは明らかに造りが違う。
石段の角が欠け、壁の煉瓦も所々崩れている。魔灯はなく、暗闇だけが階段の底から這い上がってくる。
「明かりはこれを使いなさい」
ミレナが荷物から小さな魔灯を取り出し、アヤトに放った。
「俺が持つんですか」
「文句あるかしら? 当たり前でしょう。私は剣を抜けるようにしておく必要があるの。あんたは照らすだけでいいんだから、楽なもんでしょ」
反論の余地はなかった。アヤトは魔灯を掲げ、二層目へと降りる。
空気が変わった。湿度が一気に跳ね上がり、壁という壁に水滴がびっしりと張りついている。
天井から落ちる雫が水面を叩き、その音が水路全体に反響していた。
「うっ……。匂いも変わりましたね。さっきの下水臭とは違う、もっと生臭い」
「獣の匂いよ。それと……腐敗臭。何かが死んでいるわ」
少し進んだ先で、ミレナの言葉が裏づけられた。
壁際に、獣の死骸が転がっていた。水路鼠だろうか。喉元を鋭く抉られ、腹が裂かれて内臓が引きずり出されている。
「うわ……。食い散らかされてる……」
「噛み痕の深さからして、それなりの顎の力を持った生き物ね。水路鼠の仕業じゃないわ」
さらに奥へ進むと、死骸は増えた。水路鼠が二体、蝙蝠のようなものが一体。
それに、もう少し大きな何かの骨が水の中に沈んでいた。
「腐敗の進み具合がまちまちね。一番古いものは骨だけ。新しいものはせいぜい二、三日前。一定期間にわたって、何かがここで狩りをしていたということよ」
壁面には無数の引っ掻き傷が走っていた。深く鋭い爪の跡。中型の、それなりの力を持った生き物のものだ。
ミレナは傷跡に指を近づけ、触れる寸前で止めた。
「この感じ、最近できた傷っぽいわね」
「分かるんですか?」
「削れた石の色が違うもの。古い傷なら、もっと汚れが入り込んでいるわ」
アヤトは魔灯を掲げ、壁の傷を照らした。
言われてみれば、爪痕の内側だけがわずかに白っぽい。湿った壁の中で、そこだけが生々しく抉れている。
「ミレナさん。これ普通の魔物なんですかね。水路に棲みつくなんて」
「普通じゃないわよ。街の地下に好き好んで巣を作る魔物はいない。誰かが意図的に放った可能性がある」
二層目の排水路は、その先で壁に突き当たった。天井から床まで、石が隙間なく組まれている。
「行き止まり、ですね……」
「足元を見なさい」
ミレナに言われ、アヤトは魔灯を下へ向けた。
壁の下に、人ひとりがどうにか通れそうな隙間が空いている。周囲には崩れた石材が積もり、濁った水だけがその隙間へ流れ込んでいた。
「本来は、ここに三層目へ降りる階段があったのでしょうね。崩落して塞がったのよ」
「つまり……ここを通るんですか?」
「他に道がないもの」
アヤトは低い隙間を見つめた。
狭い。暗い。しかも汚水が流れている。
どう見ても入りたくない。
「あんた、行って確かめてきなさいよ」
「やっぱりそうなりますよね!?」
「他に誰がいるの。私は剣を構えておく必要があるの」
「なんかいたらどうするんですか!」
「それを確かめるのがあんたの役目でしょ?」
「いつ任命されたんですか!?」
「今よ、今。おめでとう。はい、行った行った」
アヤトは半泣きの顔で壁の下の隙間を見つめた。汚水が緩やかに流れ出している。その向こうに何がいるか、分からない。
「あと、あんたはドジなんだから気をつけなさいよ。足元が滑りやすくなってるはずだから、変なところで転んで溺れたなんてことになったら、助けてあげないからね」
「ドジって……。分かりましたよ」
アヤトは覚悟を決めて水に入った。冷たい汚水が腰まで這い上がってくる。顔を上げたまま壁の下を屈んで進み、数秒の暗闇を抜けた。
三層目は、二層目とはまるで違っていた。
天井が高い。魔灯を掲げても、光が届ききらないほどの広い空間が広がっていた。足元の水は浅くなっており、少し歩けば乾いた地面に上がれた。
敵の気配はなさそうだ。耳を澄ませても、水滴の音以外には何も聞こえなかった。
だが、空間の奥に目を向けた時、アヤトの足が止まった。
壁際に、木箱が三つ並んでいた。泥の上に整然と置かれている。獣が運ぶはずがない。明らかに、人の手で持ち込まれたものだった。
「……ミレナさん!」
壁の向こうに向かって声を張った。
「何かあったの?」
「木箱が三つ置いてあります! 人が持ち込んだっぽいのが」
「中身は」
「えと。よくわかんないです」
壁の向こうから、沈黙が返ってきた。数秒の間があって、ミレナの声が低くなった。
「……他には」
「えっと、壁に爪痕がいっぱいあります。あと、隅に骨が山になって……。でも今は何もいません。生き物の気配はゼロです」
「………へぇ、そう」
「ミレナさん、来てもらったほうがいいと思います。俺じゃ中身を見ても何が何だか分からないので」
「……」
長い沈黙があった。
それから、盛大なため息が壁越しに聞こえた。
「……あんた、これで何も手がかりがなかったら命はないと思いなさいよ。死刑よ死刑」
「それ、さっきも似たようなこと言ってませんでした?」
「いいから黙ってなさい。今行くから」
「あ、ミレナさんも気をつけてくださいよ。けっこうヌメヌメして滑りますから」
「うるさいわね。私がそんなヘマするわけないでしょ! あんたじゃあるまいし。一緒にしないでくれるかしら」
きっぱりと言い切る声が、壁越しに返ってきた。
その自信だけは、いつも通りだった。
「いや俺転んでないですけどね」
「口答えは結構よ! 私が注意してあげたから転ばなかっただけよ。何も言わなかったら絶対転んでたわよ」
「そんなに信用ないですか……」
「ないわね。あんたはどうせ足元を見る前に余計なことを考えるタイプだもの。こういう場所では真っ先に滑って、悲鳴を上げて、最終的に私の手間を増やすのよ。本当にいい迷惑ね」
「決めつけがひどい……」
「事実に基づいた予測よ」
「それはもう、何を言っても俺が悪い流れじゃないですか……」
「分かっているなら黙ってなさい」
「はい……」
アヤトはそれ以上、口を挟むのを諦めた。
ここで言い返したところで、状況が好転するはずもない。むしろ、壁の向こうで苛立っているミレナをさらに不機嫌にするだけだ。
低い隙間の向こう側で、水面が揺れる。
水を掻き分ける音がした。ミレナが壁の下の隙間に体を入れたのだろう。衣擦れと、押し殺した呻きが壁越しに聞こえてくる。
「くっ……。何よこの匂い……最悪……」
銀色の髪が隙間から覗いた。もう少しで向こう側に出られる、その瞬間だった。
「――ひゃっ! きゃあ!」
ばしゃん、と派手な水音が響いた。
アヤトは反射的に振り向きかけて、慌てて踏みとどまった。
今の声があまりにもミレナらしくなかったせいで、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「み、ミレナさん?」
「……」
返事がない。
ただ、壁の下の隙間のあたりで、濁った水が大きく揺れている。
アヤトは恐る恐る魔灯を向けた。
そこには、隙間を抜けきった直後に足を滑らせたらしいミレナが、水路内で尻餅をついた状態で固まっていた。
銀色の髪はさらに濡れ、外套の裾からは汚水が滴っている。




