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「分かりました。――ただ、ミレナさん」
受付嬢がペンを置き、少しだけ声のトーンを変えた。事務的な、しかし念を押すような響きだった。
「もし旧坑道のほうへ向かわれる場合は、事前にこちらへ一報いただけますか」
「なぜかしら?」
ミレナが短く聞き返す。
受付嬢は一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せ、それから台帳の端を指で押さえた。
「現在、坑道の入口は管理局の判断で封鎖されています。住民からの苦情を受けて、作業員が柵と鎖で塞いだそうなのですが……。調査に入るとなれば、封鎖を解除するために現場の管理員へ連絡を入れる必要がありまして」
「封鎖、ねぇ。魔物の鳴き声が聞こえるだけで封鎖するなんて、随分と手回しがいいものね」
「住民の不安が大きかったようです。子供が興味本位で入り込むのを防ぐ目的もあるそうで」
「まぁ、それは理解できなくもないわ」
ミレナは軽く頷いた。
「分かったわ。坑道に行く時はここに寄る。それでいいわね」
「はい。ありがとうございます。鍵の手配もありますので、できれば半日前にはお声がけいただけると助かります」
「半日前ね。ずいぶん悠長な話だこと」
ミレナは皮肉っぽく言ったが、それ以上は文句を重ねなかった。
もとより坑道に今すぐ向かうつもりはない。
「色々と助かったわ。世話になったわね」
「いえ。お気をつけて、ミレナさん」
ミレナは片手を上げ、出口へと歩き出した。アヤトが慌てて後を追い、重い木の扉が閉まる。
二人の足音が徐々に遠ざかっていく。
受付嬢はカウンターの上に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。周囲の冒険者たちは依頼の相談や装備の話に花を咲かせており、こちらに注意を向ける者はいない。
やがて、右手がゆっくりと持ち上がった。
眼鏡のブリッジに指を添え、押し上げる。ごく自然な仕草だった。ここ数年、何百回と繰り返してきた動作と何も変わらない。
――ただ、一つだけ違ったのは。
押し上げた指先が、フレームの右端に嵌め込まれた小さな深紅色の石に、ほんの一瞬だけ触れたこと。
そして、彼女の瞳が赤く輝きを放ったことだった。
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アステリアの街を見下ろす、とある邸宅の一室。
重厚な調度品に囲まれた室内は、外の曇り空とは無縁の暖かな光に満ちていた。壁には絵画が架けられ、暖炉の火が穏やかに揺れている。
その部屋の中央、長椅子に深く腰掛けた男が、指輪の石を撫でていた。
白銀の髪。黄金色の瞳。指先に嵌められた金色の魔石が、微かに脈打っている。
ヴェインは目を閉じたまま、唇の端だけを持ち上げた。
「――へぇ、ようやく動き出したんだね」
誰に向けたわけでもない呟きだった。だが、その声には確かな満足が滲んでいる。
指輪の魔石が、もう一度だけ淡く光った。光の中から、先ほどの受付嬢の声が再生される。極めて微かに、しかし明瞭に。
『ミレナさん、もうお体はよろしいのですか?』
『中央通りの路地裏……朝方に住民が発見した……』
『旧坑道……封鎖……事前にこちらへ一報を……』
断片的な音声が途切れ、魔石の光が静かに消えた。
ヴェインはゆっくりと目を開ける。黄金の瞳が、暖炉の炎を映して揺れた。
「中央通りの路地裏の死体、ねぇ。ふぅん、どうせあの醜い女の仕業だろうけどね」
ヴェインはワインの注がれたグラスを手に取り、軽く傾けた。赤い液体が揺れ、暖炉の光を弾く。
「謹慎を破って出てきたかと思えば、街中で殺しとはねぇ。相変わらず品のない女だよ」
一口含み、舌の上で転がすように味わう。
「まぁいいさ。シレナのことはどうでもいい。問題は……」
グラスを揺らしながら、ヴェインは指輪の魔石をもう一度撫でた。
『――それと、もう一つ聞きたいことがあるのよ。ローゼンフェルト家、ヴェインという男のこと知らないかしら?』
「フッ、ボクのことをコソコソ嗅ぎつけようとでもしているのかい? 美しくないねぇ」
ヴェインは愉快そうに目を細め、グラスの中の赤い液体を覗き込んだ。
指輪の魔石をもう一度撫で、次の音声を引き出した。
『旧坑道……封鎖……事前にこちらへ一報を……』
『分かったわ。坑道に行く時はここに寄る』
「律儀でいいねぇ」
ヴェインはグラスを置き、立ち上がった。窓辺に歩み寄り、曇り空の下のアステリアを見下ろす。
「キミたちはボクの元へ辿り着こうとしているつもりなんだろうね。けれど、逆に自分たちが嗅ぎつけられているとは思いもしていないようだ」
ヴェインは窓の外を見下ろし、愉快そうに目を細めた。
「凡人の考えなど、実に読みやすい。初めからキミたちは、ボクという選ばれし存在の手のひらの上で、醜く踊るだけなのさ」
黄金の瞳が、街の東を捉えた。旧坑道がある丘陵の稜線が、灰色の空にぼんやりと霞んでいる。
「まず中央通りの路地裏、次に地下水路。坑道は最後。あの女なら、そう判断するだろうねぇ。目の前にある手がかりから順番に潰していく。合理的で、退屈で、実に凡庸な動き方だ」
ヴェインは窓枠に指先を置いた。
「そしてボクの読み通り、キミたちは二人で行動している。フフ。自らの手で動いて、問題の解決を早めれば、敵の目は自分たちにしか向かない……とでも考えたのかな?」
ヴェインは肩を震わせ、喉の奥で笑った。
その笑いは、楽しげでありながら、どこか冷えていた。
「実に涙ぐましい考えじゃないか。誰かを守るために自らが囮になる。自分たちが動けば、無関係な者には手が伸びない。そう信じているのなら、本当に健気で、哀れだよ」
窓の外には、アステリアの街並みが広がっている。
中央通りの喧騒。ギルドの建物。遠くに見える東の丘陵。
そして、住宅が密集する南通りの一角。
人の流れは、上から眺めれば模様のようだった。
誰がどこへ向かうのか。どの道を通り、どの建物へ入り、どの角で立ち止まるのか。
一人一人は自分の意思で歩いているつもりでも、街全体で見れば大した違いはない。
「けれど、浅はかだ」
ヴェインは静かに呟いた。
「守りたいものを置いてきた時点で、そこはもう弱点なんだよ」
黄金の瞳が、南通りの方角へ向く。そこにあるのは、なんてことはない、ただの住宅地。
貴族の屋敷も、大商会の店舗もない。古びた木造の家が並び、薬草店や小さな露店が点在する程度の、ありふれた区画。
だが、ヴェインは知っている。
ミレナとアヤトがそこにいたことを。そして二人がそこから離れたことを。
「――再会の時は近いようだよ、リノア」
あの日、市場で出会った少女の顔が脳裏に浮かぶ。怯えながらも退かなかった橙色の瞳。震える声で、あの染みのような男を庇おうとした姿。
そして、名を呼ばせた時の、あの反応。
「美しい存在の隣には、当然美しい者がいるべきだ。キミはそのことに気がついていない。ボクが目を覚まさせてあげようじゃないか」
ヴェインは窓の外を眺めながら、ゆっくりと指輪を撫でた。
あれほどの美しい存在が、醜い染みに執着することだけは、ヴェインには到底理解できない。
ヴェインは瞳を閉じながら、リノアの表情を脳裏に描いた。
あの怯えた目。あの震える唇。あの、こちらを拒もうとしながらも、無意識に声が出てしまった瞬間の、あの表情。
「あの子は、自分の美しさを知らない。知らないまま、あの染みの隣で埋もれようとしている。……実に嘆かわしいことじゃないか」
ヴェインは目を開け、窓の外の街並みに最後の一瞥を投げた。
「リノア――キミは、もう一度ボクの名を呼ぶことになる。……いや、これからも、かな」
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