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5-3

   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇



 ――数日前の夜。星明かりの治療院。


 その名の通り、夜になると建物の正面に掲げられた小さな魔灯が星のように瞬く、こぢんまりとした治療施設。

 腕のいい治癒士が常駐していることで冒険者たちの間ではそれなりに知られているが、外観は古びた木造二階建てで、目を引くものは何もない。


 日はとっくに落ちていた。通りの人影もまばらで、魔灯の淡い光だけが建物の輪郭を浮かび上がらせている。


 シレナは通りの向かい側の暗がりから、その建物を眺めていた。

 黒い外套を肩に羽織り、フードの裾を掴み、目深に被っている。


 視線だけが治療院の出入口と窓を順番に舐めていく。

 正面の出入口には護衛が一人。若い男で、時おり欠伸を噛み殺している。正面から男に取り入って建物に入る事自体は、難しい話ではない。

 だが男に顔を覚えられる危険性を考えれば、その線はなしだ。



 あの間抜けそうな男の目を、少しの間だけ逸らしてやればいい。


 シレナは身を屈め、足元に転がっていた拳ほどの石を拾い上げた。


 胸元の魔石に触れ、石に紫の力を注ぎ込む。指の間で石が微かに震え、表面にひびが走った。ひびの隙間から黒紫の光が滲み、輪郭がじわりと歪んでいく。


 数秒後、シレナの手のひらの上には小さなトカゲのような石の塊ができあがっていた。四本の脚に、一本の尾。造形は粗いが、脚はしっかりと空を掻いている。



「行きな。裏に回って暴れてこいよ」 



 地面に下ろすと、石のトカゲは、石畳の上をちょろちょろと走り出した。

 壁際の影を伝い、治療院の側面に沿うようにして裏手の方角へ消えていく。


 十数秒後、建物の裏手から何かが倒れるような音が聞こえた。

 物置か、井戸桶か。おそらく石のトカゲが体当たりでもしたのだろう。続いて、もう一つ。乾いた物音が夜の空気に響く。


 護衛の男が、顔を上げた。


「……なんだ? なんの音だ」



 男は入口の脇から身を乗り出し、音のした方角を見据えた。



「おい、誰かいるのか!」


 男は腰の剣に手をかけ、建物の角を曲がって裏手へと歩き出した。その足音が遠ざかっていく。



「ッハ、バーカ」



 その隙にシレナは陰から身を乗り出し、ゆっくりと入り口の前へと向かって行く。

 護衛が裏手で物音の正体を探し回っている間に、シレナは正面の扉に手をかけていた。


 鍵はかかっていなかった。

 護衛がいるのだから当然だろう。中に入る前提で人を立てているのに、扉まで施錠する発想は普通ない。


 扉が、音もなく開き、シレナは治療院の中へと身を滑り込ませた。


 昼間なら見舞客や受付や医師の姿こそあれど、今の深夜帯は警備員の他には、医師が数名控えているくらいだ。

 

 シレナは音を殺しながら一階の廊下を進む。

 奥の一室から紙をめくる音が微かに聞こえた。当直の医師だろう。扉は閉まっているため、こちらに気づくことはなかった。



 二階への階段を上がって右側の突き当たり。あのバカが、ご丁寧に教えてくれた場所。

 近くまで歩み寄ると、ミレナ・カワードと書かれた文字。間違いはない。



(ほんとバカは扱いやすくて助かるよ)



 扉の下から薄い光が漏れている。耳を澄ませると、規則正しい呼吸が一つ。深く眠っている。


 ノブをゆっくりと回した。鍵はかかっていない。扉を指一本ぶんだけ押し開け、隙間から中を覗く。

 ベッドの上には、銀色の髪が広がっていた。


 治療院の者たちが、よほど手厚い手当てでもしたのだろうか。

 顔色こそ良いとまではいかないが、呼吸は安定しており、少なくとも命の危険は脱しているように見えた。


 シレナは音を立てずに部屋の中へ滑り込んだ。

背中で扉を静かに閉じると、ベッドの横へ移動し、ミレナの顔を覗き込む。



(さぁて、水神の瞳はっと……。あ?)



 ミレナの胸元。服の下から、やけに青白い光が漏れている。直感的にそれが、水神の瞳であることは理解できた。


「わざわざそこにありますって教えてんの? バカじゃん。楽でいいけど」



 シレナの指先が、ミレナの胸元へと伸びかけた、その瞬間だった。


「――何だ!?」



 水神の瞳が、まるで意志を持ったかのように激しく脈打つ。

 青白い光が石の内側から溢れ出し、一瞬で部屋全体を染め上げる。


 同時に、ミレナの体を中心として、空気が変わった。


 どこからともなく現れた水流が、薄い膜のようにミレナの体を覆っていく。

 シーツの上を這い、胸元を包み、寝台全体を繭のように包み込んだ。触れてもいないのに、石が勝手に防御を展開している。



「なんだ、これ? ッチ、めんどくせぇな!」



 シレナは舌打ちしながら素早く周囲を見回した。

 枕元の棚、水差し。そして、窓際に置かれた陶器の花瓶。


 シレナは花瓶に手を伸ばし、それを掴む。

 胸元の魔石に触れたもう片方の手に紫の光が灯る。その力が、花瓶を握る指先を通じて陶器に流れ込んだ。


 シレナが握り潰すように手を閉じると、陶器はひび割れ、砕け、鋭利な破片の群れに姿を変える。

 破片は紫の力に操られたまま宙に浮き上がる。


「死ねッ!」


 手を振り抜くと、破片がミレナめがけて一斉に射出される。


 水流の膜が、その破片すべてを飲み込む。鋭利な陶器片は、水の中で勢いを失った。


 砕けた破片はミレナの肌に届くことなく、青白い水の内側でくるくると回り、やがて力を失ったように床へ、ポトリと落ちた。



「……は?」


 シレナの顔から、笑みが消えた。

 次の瞬間、水流の膜が大きく膨れ上がる。


 寝台を包んでいた水が、天井近くまで持ち上がり、部屋の空気を押し潰すようにうねる。

 青白い光が水の内側を走り、輪郭を形成していった。


 長い胴に大きく裂けた顎。そのシルエットは蛇、いや龍とも呼ぶべきか。

 まるで海そのものが怒りを得たような、巨大な何かの影だった。



「な、何……? 水神の瞳にこんな」



 シレナの喉から、思わず声が漏れた。

 水流の巨影は、ミレナの寝台を中心にとぐろを巻くように現れていた。

 実体ではなく、水と光が作り出した、ただの幻影にすぎない。


 それでも、部屋の中の空気が変わった。

 狭い病室が、一瞬だけ深い海の底へ沈んだかのような、息苦しさを感じた。



 怯んだのはほんの一瞬。シレナは歯を食いしばり、胸元の魔石を握り込むと、紫の光が指の隙間から溢れた。



「何が起こってんのか知らねぇけど!」



 シレナは枕元の棚に手を叩きつけた。

 紫の力が流れ込み、木製の棚が内側から弾け飛ぶ。板材が軋み、ひしゃげ、鋭い破片の群れに変わって宙に浮いた。


 同時にもう片方の手で水差しの金属の取っ手を掴む。水差しが歪み、引き千切れた金属片が紫の光を纏って手の中で蠢いた。



「消えなッ!」



 木片と金属片が同時に水龍の胴体へ殺到する。


 水龍は身じろぎもしなかった。

 飛来する破片を、体表の水流が一つ残らず絡め取っていく。

 木片は水の中で速度を失い、くるくると回って力なく落ちた。金属片は水面に触れた瞬間に弾かれ、壁に突き刺さる。

 どちらも、龍の体を貫くことはできなかった。



「クソが!」



 シレナは椅子を蹴り倒し、脚に手を押し当てた。

 紫の力で椅子全体が歪み、四本の脚が引き抜かれるように分離していった。

 それぞれの先端が鋭く尖り、即席の杭になる。


 それら四本を同時に撃ち出す。狙いは水龍ではなく、ミレナの胸元で光る水神の瞳そのものだった。



 静観を貫いていたはずの水龍の顎が、開いた。

 幻影のはずだった。実体のない、水と光が作り出しただけの影のはずだった。


 顎の内側から放たれた水の奔流が、四本の杭を木屑に変え、その勢いのまま、シレナの胴体を正面から捉える。


「がッ――!」



 腹に叩き込まれた衝撃は、紛れもなく実体を持っていた。

 内臓が揺さぶられ、肺の空気が搾り出される。足が床から離れ、体が宙に浮いた。


 シレナの体はベッドの脇の外壁に叩きつけられると、木造の壁もろとも砕ける。

 夜の静寂を引き裂く轟音とともに壁が崩壊していった。


 壁を突き破り、そのまま二階の高さから外へと投げ出された。

 背中から裏手の地面に叩きつけられ、口の中に鉄の味が広がる。



 地面に這いつくばったまま見上げると、大穴の奥で水龍の輪郭が揺らいでいた。

 青白い光が一度、二度と明滅し、やがて静かに消えた。龍の姿は水の粒子に戻り、跡形もなく消え失せていった。



 建物の内外から怒号と足音が重なり始めた。正面にいた護衛も戻ってきたのだろう、裏手に回り込む足音が近づいてくる。


 シレナは口の中の血を吐き捨て、体を引きずるように立ち上がった。



「……ック、クソが!」



 それだけを吐き捨て、シレナは闇の中へ消えた。



   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇

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