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5-2

 通りから一歩外れたその路地は、昼間だというのに薄暗く、人の気配もまばらだった。

 表の喧騒は届いている。だが、悲鳴ひとつに誰もすぐ駆けつけるほど近くはない。

 壁に背を預け、ふとシレナは灰色の空を見上げた。



 表情を作り続けるのは、体力こそ使わないが、神経が削られる。

 それでも、カモから金や情報を搾り取る瞬間だけはやめられない。

ある種の快楽すらあった。


 ひとまず、二人の男から得た情報を並べ直す。ミレナはここ数日ギルドに現れていない。治療院からも移動した。だがこの街からは出ていない。

 移動しているのか、あるいはどこかで誰かに匿われているのか。



「――おい」


 すぐ側から声がかかった。

 低く、平坦で、それでいてどこか詰問するような響きを帯びた声だった。


 シレナは反射的に振り向く。振り向いた時には、もう顔は作り終えている。

 困り顔の、道に迷った少女。その仮面を被り直すのに、まばたき一つぶんの時間もかからなかった。


「は、はい……? あのぉ、どうかしましたかぁ?」



 目の前に立っていたのは、体格のいい男だった。

 革の胸当てに、使い込まれた手甲。腰には片手剣と短剣を一本ずつ。装備の質は中堅どころだが、体つきには実戦で培った厚みがある。

 冒険者としての経験は、先ほどの二人よりも上だろう。


 だが、シレナの目を引いたのは体格でも装備でもない、この男の目だ。


 こちらを見据えるその視線に、好意という感情は微塵もなかった。

 ただの警戒ですらなかった。もっと暗い、もっと生々しい何かが、瞳の奥で渦を巻いている。


 その目を見た瞬間、シレナは内心で舌打ちをした。

 面倒な相手だ。

 女に鼻の下を伸ばす男でもなければ、泣きそうな顔を見て勝手に庇護欲を膨らませる男でもない。



「お前だよな? テメーのせいで俺は散々な目に遭ったよ。酔った勢いでバカみてーに金を貢ぐわ、報酬で得た宝やら何やら渡すわでよ」



 シレナは数秒だけ男の顔を見つめ、過去の記憶を探る。


 体格や声、目つき。

 確かに、どこかで見たような気もするし、見ていないような気もする。


 似たような男は、これまでいくらでもいた。

 酒場で気分よく飲んでいたところへ声をかけ、少し甘え、褒め、煽て、そして少し寂しそうにすれば、勝手に財布の紐を緩めるような男たち。


 その一人一人の顔など、覚えているはずがなかった。



「あ、あのぉ……人違いでは、ないでしょうか……? わたし、なんのことだかさっぱりでぇ……」



 シレナは怯えたように声を震わせた。

 胸元で買い物籠を抱き、半歩だけ身を引く。



「その顔だ、それにその声と喋り方」

「え……?」


「何が「お兄さんだけが頼りなんですぅ」だ。何が「お兄さんのような、素敵で優しい男性に出会ったのは初めてです」だよ? 笑わせんな。他の男にもやってたよな? さっきみたぜ」



 男の手が、腰の短剣の柄へとかかった。


「あのぉ、きっと勘違いをなされてると思うんですけどぉ……。人違いではないでしょうか」


「――うるせぇ! その猫撫で声で喋りかけんじゃねぇ! 俺はな……。お前のせいで、金だけじゃねぇぞ。仲間の信頼も失った。俺に愛想尽かして、皆俺をパーティーから追い出しやがった! 全部てめーのせいだ。今更そんな猫被った演技したっておせーんだよ」


「……ッチ、あぁそう」



 声が、切り替わった。

 甘さも、震えも、媚びも。一切合切が、まるで薄皮を剥がすようにそっくりそのまま消え落ちた。


 代わりに露わになったのは、乾いた冷気を纏った、まったく別の人間の声だった。



「クソ面倒くせーのが来たな。あほくせ」



 男の目が見開かれた。


 同一人物だと確信していたはずだ。

この女が偽りの顔を被っていることも、分かっていたはずだ。

 それなのに、いざ仮面がこうもあっさりと剥がれると、その切り替わりの鮮やかさに、怒りよりも先に本能が怯んでしまう。



「て、てめぇ……やっぱり……!」

「だからなに? あぁ、思い出したわ、東区画のあれね。金貨と……なんだっけ、護符石? まぁどうでもいいけど。どうせここで死ぬし」



 シレナは買い物籠をその場に落とした。中の薬草が石畳に転がったが、拾おうともしない。


 姿勢が変わる。猫背気味に縮こまっていた背筋が伸び、重心がわずかに下がった。同じ体なのに、まるで別の生き物にしか見えない。



「ふ、ふざけんな。てめぇ!」



 男の剣が鞘から引き抜かれる。金属が擦れる鋭い音が、狭い路地に反響した。



「へぇ、やる気なんだ?」

「あたりめーだろが! 俺が死ぬだと? むしろ俺がテメーを殺――」



 鮮血。男の肩口から血飛沫が散った。


「――え?」



 何が起きたのか、男自身にも分かっていなかった。剣を振りかぶろうとした右腕が、肩から先の感覚を失っている。

 握っていたはずの短剣が、力なく石畳の上に転がり、乾いた音を立てた。



 いつ動いたのか。男が剣を抜いた動作の、その途中だったのか。それすら分からない。気がついた時には、右肩から熱い血が滴っていた。


 シレナの右手には、何も握られていない。


 代わりに、男の足元の石畳から突き出した細い石の刃が、赤く濡れていた。地面から生えた、歪な棘。

 それが男の肩を、下から抉り上げていたのだ。


「うぐっ、な、なんだ……これ⁉︎」



 シレナの胸元で、紫の魔石が妖しく瞬く。

 同時に、石畳の隙間から黒紫の光が滲み出した。古びた石が軋み、敷かれていたはずの石材が、ぐにゃりと内側から形を変える。


 石でできた獣の顎のようなものが、男の足首に食らいついた。

 肉を噛み潰す鈍い音。

 男の悲鳴が、狭い路地に弾けた。


「ぐあああああっ!!!!!!」

「うるせーな」



 シレナは石を操る左手を、軽く握り込んだ。

 それだけで、男の足首に食らいついていた石の顎がさらに深く沈み込んだ。

 骨が軋む音が、肉越しに鈍く響く。男の悲鳴が途切れ、代わりに引き攣った喘ぎだけが喉から漏れた。



「お兄さぁん、大丈夫ですかぁ?」


 シレナはわざとらしく甘い声を戻した。

 先ほどまで道行く男たちの警戒心を溶かしていた、頼りなく、庇護欲をくすぐる声。


 今それを向けられた男の顔には、嫌悪よりも恐怖が浮かんでいた。



「足、痛いですかぁ? あぁ、肩も痛そう……。かわいそうですねぇ」

「う、ぐ……。た、頼む………。お、俺が、悪かっ、た……。い、命、だけは――」



「知らねーよ。消えな、カス」



 シレナが口角を吊り上げながら魔石を握りしめると、石の荊棘が、男の心臓を貫いた。



「ゴッ……フッ――」



 男の身体が、大きく跳ねた。


 見開かれた目から、怒りも恨みも抜け落ちる。

 代わりに残ったのは、最後まで状況を理解できなかった者の、間の抜けた恐怖だけだった。


 石の荊棘が引き抜かれると、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



 シレナはそれを見下ろしながら、つまらなそうに息を吐いた。


「あーあ。ほんと、朝から最悪だわ。あたしにこんなことさせんじゃねーよ」



 胸元の魔石から、紫の光がゆっくりと消えていく。

 石畳から生えていた棘も、男の足首を噛んでいた獣の顎も、やがて形を保てなくなったように崩れ、ただの石片へと戻った。



 シレナは地面に転がったままの買い物籠を拾い上げた。

 散らばった薬草を一つずつ戻し、籠の形を整える。乱れた髪を指先で梳き、ブラウスの袖口についた砂を払い、スカートの裾を軽く叩いた。



 ほどなく、転がった肉片には興味を失ったように背を向け、シレナは再び人混みの中へと紛れて行った。

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