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    ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇   



 翌朝の天気は曇り。

 陽が昇っているはずの空は一面の灰色に覆われていて、街の輪郭がどこかぼんやりと霞んでいる。


 それはまるで、彼女の心をそのまま映したような空だった。



 リノアは玄関先に立ち、両手を胸の前で握りしめていた。


 昨夜のうちに用意した包みは、アヤトの肩に掛けられている。保存食、包帯、薬草。それから、疲労を和らげるための煎じ薬。

 必要最低限の荷物のはずなのに、そのひとつひとつにリノアの気遣いが詰まっているようで、アヤトには妙に重く感じられた。


「……本当に、もう行かれるのですね」



 どこか寂しげなリノアの横顔を、アヤトは盗み見るようにちらりと見た。


 目の下にうっすらと残った隈。泣いた痕なのか、夜通し荷造りをしていたからなのか。

 おそらく、その両方なのだろう。



「ええ。長居すればするほど、貴方たちを巻き込むだけだもの」



 ミレナは淡々と答えた。すでに身支度を済ませ、ジャケットの内側に水神の瞳をしまい込み、腰の剣の位置を一度だけ確かめるように手で触れている。



「でも……ミレナさん、お体のほうは……」

「何度も同じことを聞かないでちょうだい。このぐらいならなんとかなるわ」



 リノアの気遣いを、ミレナは短く遮った。素っ気ない返し方だったが、そこに苛立ちの色はなかった。ただ、これ以上心配をさせたくないのだと言わんばかりの、不器用な切り上げ方だった。


「――あっ、あの!」



 リノアの声が、二人の背中を引き止めた。

 アヤトが振り返ると、胸元で何かを大事そうに握りしめたリノアの姿が目に入った。


「どうしたの、リノアちゃん?」

「その、これを……。受け取っていただけませんか?」



 リノアは胸元で握っていた手を、そっと差し出した。

 そこにあったのは、小さな布袋。


 赤い布で作られた、手のひらに収まるほどのお守り。口元は白い糸で丁寧に縫い閉じられていて、端には細い紐が通されている。

 決して高価なものではない。けれど、一針一針に込められた気持ちだけは、見ただけで伝わってくるようだった。



「お守り、です。中に、乾燥させた薬草を少し入れてあります。魔除けになるような、そんな大それたものではないですけれど……。綾人さんが、どうかご無事でいられるようにって。……その想いだけを込めて作ったもの、です……。お守りとしてどこかに身につけていていただけたら。その、嬉しいなって」



 リノアの声は途中からだんだんと小さくなっていった。差し出した手が、微かに震えている。


「俺に?」

「……はい」



 昨夜、どんな気持ちでこれを縫ったのだろう。

 そのことを想像してしまい、アヤトは一瞬言葉を失った。



「リノアちゃん……。ちゃんと寝たの?」

「寝ましたよ……。その、少しだけ」


「俺のために、そんな」

「平気です、慣れてますから」

「慣れてるって……」



 リノアはそう言って、無理に笑った。

 その笑顔を見てしまうと、アヤトはそれ以上責めることができなかった。



「そうそう、こんなバカのためにリノアの時間を使う必要はないんだから」


「ミ、ミレナさんまでそんな……」

「事実でしょう。全く……」



 ミレナは呆れたように言いながらも、リノアの手元のお守りには視線を向けなかった。見ていないようで、ちゃんと見ている。

 ただ、そこに口を挟むのは自分の役目ではないと判断しているような、そういう距離の取り方だった。



「はぁ、こんなにいい子が……よりによってこのバカとは……」


「バカ? それ俺のことですか?」

「まぁそうなんだけど……。はぁー」

「え?」

「はぁぁ……」



 ミレナは深々とため息を吐き切ると、片手で額を押さえた。何かを諦めたような、それでいて心底呆れ返ったような表情だった。



「……なんでもないわよ。さっさと受け取ってあげなさいよ。人が気持ちを込めて作ったものを、いつまでも宙ぶらりんにさせておくんじゃないわよ」


「あっ……そ、そうだよね。ごめん」


 アヤトは慌てて両手を差し出し、リノアの手のひらからお守りを受け取った。


 布袋は想像よりもずっと軽かった。けれどその軽さとは裏腹に、手のひらに伝わる温もりには、重さとは別の何かが宿っているように感じられた。



「リノアちゃん、ありがとう。大事にする」

「……はい」



 リノアの声は小さかったが、その口元はかすかに綻んでいた。


 アヤトは紐を首にかけようとして、少し迷った末に、学生服の胸ポケットへそっとしまった。

 心臓の上。そこが一番、なんだかしっくりくるような気がしたからだ。



「綾人さん、ミレナさん。お二人ともお気をつけて」



 リノアは胸の前で両手を重ね、深く頭を下げた。


 アヤトは胸ポケットの上から、そっとお守りに触れる。薄い布越しに感じる小さな膨らみが、妙に心強かった。



「それじゃあ行くね……。改めてありがとう、リノアちゃん」

「「私からも礼を言うわ。世話になったわね」



 ミレナはそっけなく言った。

 けれど、リノアはその短い言葉だけで十分だと分かっているように、静かに微笑む。

 


「はい。こちらこそ、お二人をお迎えできてよかったです」

「本当に貴方はお人好しね」

「えへへ、そうかもしれません」



 リノアは少し困ったように笑う。

 その笑顔を見ていると、アヤトはまた足が重くなりそうだった。


 けれど、ここに留まることはできない。

 リノアと、その祖母をこれ以上危険に近づけないためにも。



「ほら、行くわよ」

「は、はい! リノアちゃんまたね!」



(また……会えますよね。綾人さん)



 リノアは二人の背中が角を曲がって消えるまで、その場を動かなかった。


 風が一度だけ、石畳の上を這うように吹き抜けていった。それだけで、玄関先の空気がひどく広くなったように感じられた。

 ついさっきまで三人分の気配があった場所に、自分だけが立っている。その事実は、思った以上に堪える。


 リノアは胸の前で重ねた両手に、そっと力を込める。



「……大丈夫」



 誰に聞かせるでもなく、リノアは小さく呟いた。


 リノアはもう一度だけ、二人が消えた角の先へ視線を向ける。

 灰色の空は、相変わらず重く街の上に垂れ込めていた。それでも胸の奥に残った小さな温もりだけは、消えていない。まだここに在った。

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