4-13
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翌朝の天気は曇り。
陽が昇っているはずの空は一面の灰色に覆われていて、街の輪郭がどこかぼんやりと霞んでいる。
それはまるで、彼女の心をそのまま映したような空だった。
リノアは玄関先に立ち、両手を胸の前で握りしめていた。
昨夜のうちに用意した包みは、アヤトの肩に掛けられている。保存食、包帯、薬草。それから、疲労を和らげるための煎じ薬。
必要最低限の荷物のはずなのに、そのひとつひとつにリノアの気遣いが詰まっているようで、アヤトには妙に重く感じられた。
「……本当に、もう行かれるのですね」
どこか寂しげなリノアの横顔を、アヤトは盗み見るようにちらりと見た。
目の下にうっすらと残った隈。泣いた痕なのか、夜通し荷造りをしていたからなのか。
おそらく、その両方なのだろう。
「ええ。長居すればするほど、貴方たちを巻き込むだけだもの」
ミレナは淡々と答えた。すでに身支度を済ませ、ジャケットの内側に水神の瞳をしまい込み、腰の剣の位置を一度だけ確かめるように手で触れている。
「でも……ミレナさん、お体のほうは……」
「何度も同じことを聞かないでちょうだい。このぐらいならなんとかなるわ」
リノアの気遣いを、ミレナは短く遮った。素っ気ない返し方だったが、そこに苛立ちの色はなかった。ただ、これ以上心配をさせたくないのだと言わんばかりの、不器用な切り上げ方だった。
「――あっ、あの!」
リノアの声が、二人の背中を引き止めた。
アヤトが振り返ると、胸元で何かを大事そうに握りしめたリノアの姿が目に入った。
「どうしたの、リノアちゃん?」
「その、これを……。受け取っていただけませんか?」
リノアは胸元で握っていた手を、そっと差し出した。
そこにあったのは、小さな布袋。
赤い布で作られた、手のひらに収まるほどのお守り。口元は白い糸で丁寧に縫い閉じられていて、端には細い紐が通されている。
決して高価なものではない。けれど、一針一針に込められた気持ちだけは、見ただけで伝わってくるようだった。
「お守り、です。中に、乾燥させた薬草を少し入れてあります。魔除けになるような、そんな大それたものではないですけれど……。綾人さんが、どうかご無事でいられるようにって。……その想いだけを込めて作ったもの、です……。お守りとしてどこかに身につけていていただけたら。その、嬉しいなって」
リノアの声は途中からだんだんと小さくなっていった。差し出した手が、微かに震えている。
「俺に?」
「……はい」
昨夜、どんな気持ちでこれを縫ったのだろう。
そのことを想像してしまい、アヤトは一瞬言葉を失った。
「リノアちゃん……。ちゃんと寝たの?」
「寝ましたよ……。その、少しだけ」
「俺のために、そんな」
「平気です、慣れてますから」
「慣れてるって……」
リノアはそう言って、無理に笑った。
その笑顔を見てしまうと、アヤトはそれ以上責めることができなかった。
「そうそう、こんなバカのためにリノアの時間を使う必要はないんだから」
「ミ、ミレナさんまでそんな……」
「事実でしょう。全く……」
ミレナは呆れたように言いながらも、リノアの手元のお守りには視線を向けなかった。見ていないようで、ちゃんと見ている。
ただ、そこに口を挟むのは自分の役目ではないと判断しているような、そういう距離の取り方だった。
「はぁ、こんなにいい子が……よりによってこのバカとは……」
「バカ? それ俺のことですか?」
「まぁそうなんだけど……。はぁー」
「え?」
「はぁぁ……」
ミレナは深々とため息を吐き切ると、片手で額を押さえた。何かを諦めたような、それでいて心底呆れ返ったような表情だった。
「……なんでもないわよ。さっさと受け取ってあげなさいよ。人が気持ちを込めて作ったものを、いつまでも宙ぶらりんにさせておくんじゃないわよ」
「あっ……そ、そうだよね。ごめん」
アヤトは慌てて両手を差し出し、リノアの手のひらからお守りを受け取った。
布袋は想像よりもずっと軽かった。けれどその軽さとは裏腹に、手のひらに伝わる温もりには、重さとは別の何かが宿っているように感じられた。
「リノアちゃん、ありがとう。大事にする」
「……はい」
リノアの声は小さかったが、その口元はかすかに綻んでいた。
アヤトは紐を首にかけようとして、少し迷った末に、学生服の胸ポケットへそっとしまった。
心臓の上。そこが一番、なんだかしっくりくるような気がしたからだ。
「綾人さん、ミレナさん。お二人ともお気をつけて」
リノアは胸の前で両手を重ね、深く頭を下げた。
アヤトは胸ポケットの上から、そっとお守りに触れる。薄い布越しに感じる小さな膨らみが、妙に心強かった。
「それじゃあ行くね……。改めてありがとう、リノアちゃん」
「「私からも礼を言うわ。世話になったわね」
ミレナはそっけなく言った。
けれど、リノアはその短い言葉だけで十分だと分かっているように、静かに微笑む。
「はい。こちらこそ、お二人をお迎えできてよかったです」
「本当に貴方はお人好しね」
「えへへ、そうかもしれません」
リノアは少し困ったように笑う。
その笑顔を見ていると、アヤトはまた足が重くなりそうだった。
けれど、ここに留まることはできない。
リノアと、その祖母をこれ以上危険に近づけないためにも。
「ほら、行くわよ」
「は、はい! リノアちゃんまたね!」
(また……会えますよね。綾人さん)
リノアは二人の背中が角を曲がって消えるまで、その場を動かなかった。
風が一度だけ、石畳の上を這うように吹き抜けていった。それだけで、玄関先の空気がひどく広くなったように感じられた。
ついさっきまで三人分の気配があった場所に、自分だけが立っている。その事実は、思った以上に堪える。
リノアは胸の前で重ねた両手に、そっと力を込める。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、リノアは小さく呟いた。
リノアはもう一度だけ、二人が消えた角の先へ視線を向ける。
灰色の空は、相変わらず重く街の上に垂れ込めていた。それでも胸の奥に残った小さな温もりだけは、消えていない。まだここに在った。




