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「あんたは自覚がなさすぎるのよ。シレナの件だってそう。相手が女だったから騙された、なんて思わないことね。似たような手口を男に使われたとしても、あんたなら結局、何かしらの餌で釣られるわ。そういう隙の多さは性別の問題じゃないのよ」
「うぐ……」
反論できない。反論できる材料が、自分の中にひとつも見当たらなかった。
アヤトは額を押さえたまま、口をつむぐ。
「まぁ、あんたの間抜けさは今に始まったことじゃないけれど。……とにかく、あの男のことは頭に入れておきなさい。二人とも」
ミレナの声から茶化すような色が消え、再び冷静な分析者の温度に戻る。
それから、組んでいた足を解き、椅子に深く座り直した。その動作だけで、話の質が変わるのだと分かった。
リノアもアヤトも、自然と口を閉ざした。
「シレナのこと。ヴェインのこと。それから、治療院を襲った何者か。全部が繋がっているのか、それとも別々に動いているのかは分からない。けれど、はっきりしていることがひとつだけあるわね」
ミレナの視線が、窓の外へと向けられた。夕方の光が薄くなり始めた街並みが、ガラス越しにぼんやりと見えている。
「ここに留まり続ければ、遅かれ早かれ、また何かが来るわ」
「何かが、って……」
「襲撃。接触。偵察。手段は分からないけれど、既に誰かが捜索の目を光らせているかもしれない。いつまでも同じ場所に留まるのは得策じゃないわ」
ミレナはそこで言葉を切り、視線を室内に巡らせた。
年季の入った木の壁。隅々まで掃除が行き届いた、小さくて清潔な居間。
台所に干された薬草の束。リノアと祖母の、慎ましいが確かな暮らしの気配が、この家には染みついていた。
「こんな場所で一度戦闘でも始まれば、家屋は無事じゃすまないでしょうね。何より――」
ミレナは一瞬だけ言葉を止め、それから淡々と続けた。
「ここに居座ることは、この家の持ち主、リノアだけじゃない。リノアの家族にまで危険が及ぶ、ということよ」
その一言で、リノアの顔から表情が消えた。
消えた、というのは正確ではない。消そうとしたのだ。動揺を、不安を、恐怖を、ひとつ残らず顔の奥へ押し込めようとしているのが、アヤトにも見て取れた。
「……明日には、ここを出るわ。私とこいつは」
ミレナの言い方は短かった。
リノアには「一緒に来い」とは言わなかった。最初から、その選択肢を突きつけるつもりがないかのように。
「え……。出るって、ミレナさんまだ体調は?」
「動けないほどじゃないわ。まだ全力は出せないかもしれないけれど、そのくらいは些細な話よ」
「でも――」
「あんたも、分かってるでしょ?」
「……それは、はい。分かってはいます。……分かって、ますけど」
アヤトの視線が、リノアに向いた。
リノアは黙っていた。
テーブルの上に置いた自分の手を見つめたまま、唇を薄く結んでいる。何かを堪えているような、あるいは考えを整理しているような沈黙だった。
「リノアちゃん……」
「……わたしは、ここに残ります」
アヤトが名前を呼び終わるより先に、リノアの声が落ちた。
静かだった。揺らぎのない、もうとっくに決めてしまっていた人間の声だった。
「おばあちゃんを、一人にはできませんから」
アヤトは何か言おうとして、けれど言葉が見つからなかった。分かっていた。
リノアならそう言うだろうことは、聞くまでもなく分かっていた。
彼女がどれほどこの家の暮らしを、祖母を、二人で過ごしてきた日々を大切にしているか。
ここで過ごした短い時間だけでも、痛いほどに伝わっていたからだ。
ミレナは表情を変えなかった。予想していた答えだったのだろう。
「……そうね。それが貴方の選択なら、止める権利は私にはないわ」
だが、そこでミレナの声が、わずかに止まった。言葉を飲み込んだのではなく、次に出す言葉を選んでいるような間だった。
「ただ、ひとつだけ。あのヴェインという男に接触された以上、貴方も無関係ではいられなくなっている。それは分かっているわね」
「……はい」
「名前を知られた。顔も覚えられた。そして、あの男の魔石が何をしたのか、まだ分かっていない。その状態で、貴方をここにひとり残すというのは――」
ミレナはそこで、一度視線を落とした。
テーブルの木目を見つめているようだったが、その先にあるのは木目ではなく、彼女の中で組み上がりかけている状況の図面なのだろう。
「正直に言えば、気が進まないわね」
ぶっきらぼうに、それだけを言った。
リノアの目が、わずかに見開かれた。ミレナの口から「気が進まない」という、感情のにじんだ言い方が出てくるとは思っていなかったのだろう。
「ミレナさん……」
「心配してるわけじゃないわよ。戦力の配置の問題として言ってるの。……片方だけが丸腰で、もう片方に何かあった時に対応できなくなるのが、合理的じゃないだけ」
言い訳じみた補足を付け足すミレナの耳が、わずかに赤くなっているのを、アヤトは見て見ぬふりをし
ここで指摘するのは、いくらなんでも野暮というぐらいは理解している。
「ですから、なおさら……わたしが付いていくわけにはいかないんです」
リノアの声は穏やかだったが、先ほどよりも一段だけ低かった。決意の上に、さらに覚悟を乗せたような声だ。
「おばあちゃんの発作が、最近ひどくなってきているんです。前よりも……。先月から煎じ薬の効きも落ちていて、夜中に呼吸が止まりかけたことも、一度ありました。いつここへ帰れるかわからないなら、なおさらお二人についていくわけにはいかないんです」
アヤトの喉が鳴った。呼吸が止まりかけた、という言葉の重さが、遅れて胸に落ちてくる。
「わたしがこの家を離れている間に、万が一のことがあったら。……もう嫌なんです!」
リノアは膝の上で指を組み、力を込めた。
「今のわたしにとって、おばあちゃんだけが唯一の家族なんです。……もう、あんな思いはしたくないんです! お父さんにも、お母さんにも……。うっ、うぅ……」
そこで、リノアの声が途切れた。
堪えようとしたのだろう。唇を噛み、俯き、膝の上で組んだ指にさらに力を込める。
けれど、一度震えてしまった喉は、もう言葉を形にしてくれなかった。
ぽたり、と。
小さな雫が、彼女の手の甲に落ちる。
リノアは慌てて顔を背けた。泣き顔を見せまいとするように、肩を小さく丸める。けれど、細い肩は隠しきれないほど震えていた。
「お父さん? お母――」
「――ミレナさん」
アヤトがミレナの言葉を遮るように、静かに、けれどはっきりと口を挟んだ。
「リノアちゃんの気持ちは、もう十分伝わりました。……これ以上は、いいんじゃないですか」
ミレナの視線が、アヤトへと移る。
何かを庇うような、不自然な割り込み方だった。ミレナがそれを感じなかったはずはない。青い瞳が、一瞬だけアヤトの表情を探るように細められた。
「……そう、あんたにしては気が利くのね」
皮肉めいた言い方だった。
けれど、ミレナはそれ以上、リノアの両親について尋ねなかった。
リノアは俯いたまま、小さく肩を震わせている。声を殺そうとしているのか、時折、喉の奥から細い息だけが漏れた。
アヤトは何も言えず、ただ彼女の横顔を見つめていた。
慰める言葉は、いくつか浮かんだ。
「大丈夫だ」とか、「泣かないで」とか。そんな薄っぺらい言葉ならいくらでも出てきそうだった。
けれど今のリノアに、それを言う資格が自分にあるとは思えなかった。
だからアヤトは、せめてそれ以上傷口を抉らせないように、黙って彼女の隣に座っていることしかできなかった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
リノアは俯いたまま、袖で目元を押さえている。小さく震える肩を見て、アヤトはかける言葉を見つけられなかった。
その沈黙を破るように、ミレナが静かに息を吐いた。
「……分かったわ。あなたを無理に連れていく選択肢はなし」
リノアが、ゆっくりと顔を上げる。
「ただし、私とこいつは明日の朝、この家を出る。ここに残り続ければ、あなたとあなたの祖母まで危険に巻き込むことになるもの」
「……はい」
リノアは唇を噛みしめ、それでも小さく頷いた。




